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18 古堅

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 概況

応召軍人並びに現役軍人武運長久祈願祭同遺家族慰安会(昭和15年9月3日 字古堅事務所前広場)
 字古堅は、村内で最も南にあって、比謝川下流の北側に位置し、東は大湾に隣接し、西は渡具知、南は嘉手納、北は大木に囲まれた平地に集落をなしている。沖縄戦当時は、古堅国民学校を中心に、部落の民家にも大勢の日本軍が駐屯していた。比謝川沿いの山や原野には、掘っ建て小屋の兵舎も建てられ、軍事物資の集積所にもなっていた。
 昭和二十年頃の古堅の人口は五八二人で、戸数は一二九戸、ほとんどが農家であった(「区画整理事業竣工記念誌」読谷村古堅地区土地区画整理組合、平成二年刊)。
 沖縄戦での米軍上陸後まもなく、古堅地域は米軍の野戦病院となり、後に米軍の家族住宅用地として使用されていたが、昭和五十二年十一月三十日付けで全域が返還された。その後、読谷村における初めての都市計画事業としての区画整理事業に取り組み、モデル的な住宅地として整備された。現在では他市町村からの転入者も多く、たくさんの人々が住居を構えている。

 出征兵士

 他字と同様、古堅からも現役入隊や志願兵、学徒隊、召集兵などたくさんの出征兵士が出た。また、十六歳で防衛隊や農兵隊になったのもいる。その頃は、兵隊になれない者は男の恥と思われた時代であった。それで若者達の中には、志願して古里を離れて行った者もいた。中には永年兵役に服し、いろいろな作戦に参加して無事帰還した字民がいる。
 喜瀬※※(大正四年生)は昭和十一年一月十日、海軍兵として佐世保に入隊した。入隊したのは「支那事変」が始まる前で平時であったので見送りも家族だけであったが、村役場や字事務所では激励会が催された。彼の乗った艦隊は、「支那事変」勃発時は艦隊親善訪問でイギリスからの帰途、香港に寄港していたという。その後、兵役期間中に家族面会として三回沖縄に帰った。激しかった幾度かの海戦を経て、運良く九死に一生を得て上等兵曹としてラバウルで終戦になり、復員した。
 池原※※(大正六年生)は昭和十二年に、海軍機関兵として佐世保に入隊し、戦艦「榛名」の乗組員になった。北支、南洋、印度洋方面の作戦に参加したが、終戦まで艦上勤務をし、兵曹長で帰還した。
 儀間※※(明治三十九年生)は、昭和十三年に陸軍として出征し、一年半位「支那事変」に参戦した。その頃は見送りも華やかで、幟を先頭にスネーイ(行進)して嘉手納駅まで字民総出で見送った。

 日本軍の駐屯と字民との関わり

古堅国民学校正門(古堅尋常高等小学校 昭和13年「学校要覧」より)
 昭和十九年頃から、古堅にもたくさんの日本兵が駐屯するようになり、字民より兵隊の方が多かった。古堅校には防衛隊もたくさんいたが、山部隊の医務関係の部隊と輜重隊(しちょうたい)の本部があり、兵隊は北海道出身者が多かった。十・十空襲以後は、学校は攻撃目標になるということで、兵員は古堅の民家に分散宿泊するようになり、医務室も屋号安里へ移り、軍医と数人の衛生兵によって患者の手術や治療が行われていた。患者と医療関係の兵隊は、湾尺小・野里端・島袋・新屋・上地・仲儀間小・前呉保根小・後波平・湾尺・波平前・名嘉新垣・仲新垣小・加那西上小・島袋小・後前西上小等の民家に数人ずつ収容されていた。そのため家族はせまい部屋におしやられていたが、兵隊と家族の仲はとても良かった。
 当初、学校の運動場は山部隊の輜重隊のトラック置き場になっていたが、後には空から見えないようにと、部落内の道路や木の下に置かれるようになった。屋取地域は、渡具知港から荷揚げされた軍事物資の集積所になり、その関係の兵隊は、屋取部落の蒲喜瀬小・金城・佐久川・後長嶺小・前長嶺小・仲奥原・知名小・呉屋小等の民家に宿泊していた。
 渡具知港での荷揚げ作業に従事する朝鮮人軍夫もたくさんいた。その軍夫を指揮する日本兵は、字事務所に宿泊していたが、軍夫は事務所近くの畑や空き地に、テントを張って寝泊まりしていた。食料が少なかったせいか、夜になると監視の目を逃れて、民家に入り食べ物を物色する者もいた。
 このようにして、たくさんの兵隊が駐屯していたが、時には兵隊や出征兵士の家族を事務所前の広場に招待して、主に女子青年が中心になって慰安会を開催し、演芸等を披露する楽しい集いもあった。その時歌の上手な兵隊は独唱等もやっていた。

 供出

 軍に協力するため食料の供出が行われた。村役場から区長へ割り当て通知がくると、区長は組長や婦人会長へ連絡して、組長や婦人会役員が各家庭を回って供出物を集めて役場へ届けていた。当時部落には前組・後組・西組と三つの組があった。供出物資としては甘藷が多く、大豆・豆腐・野菜等もあった。自分達の生活も苦しかったが、戦いを勝ち抜くための協力ということで、無理して供出に応じた。当時の区長は阿波根※※であったが、時には村を通さず直接部隊長から区長へ命令がおりることもあった。比謝川沿いに駐屯していた暁部隊(船舶隊)の隊長から、兵舎を造る材木とハーガラー(サトウキビの枯れ葉)の供出を求められ、字有地の山林からたくさんの松の木を切り倒して出した事もあった。また、同じ隊長から大きな豚を供出するようにとの命令がきたが、部落内には適当な豚が見つからず、遠く浦添まで行って豚を買ってきて供出したこともあった。当時は人手不足で、このようないろいろな供出に応ずるため、区長や役員は大変な苦労をした。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日の朝、中(屋良)飛行場と北(読谷)飛行場を爆撃している米軍機の群れを見て、今日の友軍の演習は物凄いぞと思っていたら、これが米機動部隊艦載機による初の沖縄空襲であった。日本兵達でさえ演習と思っていた。初めて体験する敵の空襲にすっかりおびえきった字民はそれぞれの壕の中で、一日中身を潜めていた。その日の空襲では、木ン根比嘉小の家屋が一軒焼失したのみであった。
 古堅校にあった山部隊の医務室には、空襲で負傷した兵隊や軍属が運ばれてきて手当を受けていた。那覇出身の真謝※※は、加那西上小に収容されて治療を受けており、新屋には、座喜味城跡にあった高射砲隊の近藤少尉が収容されていた。また、当字出身の与久田※※は、八重山徴用の帰途海上で空襲に遭い、船が沈没して死亡した。

 字民が避難した主な壕と投降の状況

 字民の多くは、比謝川沿いの岩壁に家族や親戚あるいは班毎に横穴式の避難壕を作り避難していた。古堅ガー周辺の山林を利用した人々もいた。
 三月二十三日から始まった米機動部隊からの爆撃や艦砲射撃は次第に激しくなった。二十六日になると、米軍が慶良間列島に上陸したとの情報も入り、字民は早く国頭へ避難するようにと、軍からの勧めもあって、ほとんどの字民は壕を出て国頭へ出発した。しかし老人や子供や体の不自由な人達は、国頭への歩行は困難との理由で、そのまま居残り壕中にいた。絶え間なく打ち込まれる艦砲射撃の中、家族と別れ、字民から取り残された人々は、生きた心地もせず、壕の中で息を潜めていた。四月一日渡具知から上陸した米軍は、すぐに古堅一帯まで占領した。
 これで、いよいよ住民は一人残らず殺されると思い不安でたまらなかったが、幸い字民の中に、ハワイ帰りの松田※※(当時六十三歳)と池原※※(当時五十五歳)の二人がいて、英語が話せたので、米軍に助けを求め、全員無事収容されている。この二人は米軍から発行された通行証(パス)を持って、古堅一帯の壕をまわって投降するよう呼びかけをした。池原※※は、親の呼び寄せ移民としてハワイに渡ったが、右足に骨膜炎を患い、膝小僧の上部から切断され、松葉杖を使用していた。

 字民の主な避難先と避難経路

 避難指定地は国頭村鏡地であったが、そこは海岸線沿いにある集落で、避難地としては適当でないという理由で、その隣の比地山に避難することになった。先発隊として阿波根区長の家族を中心に、九家族が荷馬車で避難し、字民のほとんどは、三月二十六日に徒歩で国頭へ向かった。一緒に出発したが、子持ちの家族、老人連れの家族等があって、進むに従ってバラバラになり、目的地に着くのに、早い家族は二日で行ったが、遅い家族は一週間もかかった。乳飲み子を連れている人は、その子が泣くと困るので、列の後ろに回され、泣く子を黙らせるのに大変な苦労であった。昼間は空襲が激しく、木の下や森の中に隠れ、夜だけしか歩けなかった。食物はほとんどなく黒砂糖をなめて、どうにか飢えを凌ぐ程度であった。
 避難経路は家族やグループによっていろいろ異なったが、中には比謝川沿いの壕を出て、先ず牧原−久得−久保−倉敷−楚南−山城−石川−屋嘉−金武−宜野座−松田−(西海岸へ)−許田−名護−羽地−大宜味−国頭という道順をとった人々もいた。どの道路も避難民でごったがえしていた。途中家族からはぐれて行方不明になった人もいた。国頭までたどり着けず、恩納あたりで米軍に保護された人達もいた。また、国頭へは行かずに、具志川や島尻等に行った世帯もある。
 山での避難生活は食料不足で栄養失調やマラリアで亡くなった人達も少なくない。避難地までも米兵が現れるようになると、情報も錯綜(さくそう)し「中頭あたりでは戦争は勝っている」「読谷はもう安全地帯だそうだ」ということもあって、読谷へ帰る事になり、比地山を出て山伝いに南へ南へと進むうちに字民はバラバラになり、家族や親戚毎の行動になった。栄養失調やマラリアで比地に居残った人々は、そこで収容された。一方読谷を目指した人々は、主に宜野座や石川で収容されたが、途中大宜味、久志、羽地等で収容された人々もいた。

 字への復帰状況

 古堅地域は、モーガンマナー地区として米軍家族が使用していて、たくさんのコンセット屋が建ち並んでいた。そのため、旧部落へは戻れず、それぞれの収容先からは一旦波平に移動し、昭和二十二年頃になると、波平から大木に移った。波平に行かないでコザや具志川、石川等からすぐ大木に移動してきた字民もいた。ほとんどの字民が大木にまとまったので、簡単な茅ぶきの公民館を建築して、戦後の字行政が始まった。戦後の初代区長は新垣※※であった。しばらくは、村からの割り当て住宅で生活していたが、昭和二十九年六月頃から、旧部落の北側に移動が開始された。土地は部落で一括借り入れをして、敷地は約八〇坪ずつに区分けし、くじ引きで決めた。そこに土地がある人は優先して入れたが、決められた期限内に移動できない時は、他の人が入るようになっていた。一斉に移動したのではなく数年かかった。生活の基盤が出来て、そのまま大木に住みついた家庭もある。(伊波寛裕)

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