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17 大湾

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 概況

 戦前、嘉手納から読谷へ向かうとまず昭和バスの中継所や医院、商店が立ち並ぶ嘉手納中央大通りを抜け、左手に嘉手納警察署を見て天川坂を下り、石造りの比謝橋を渡ると国頭街道沿いに雑貨店、理髪店、金物屋、材木店、菓子屋、銭湯などが建ち並ぶ比謝矼を通って大湾へと至った。比謝川を挟んだにぎわいのある「街方」とは対照的に静かなたたずまいであった。多くの世帯が農業に従事し、字大湾の農事実行組合では農業生産に力を入れており、昭和十八年の県内での堆廏肥(たいきゅうひ)共進会では四等賞に輝いている(毎日新聞、昭和十八・三・十八、『読谷村史』第二巻戦前新聞集成・下巻 所収)。
 大湾の家々は屋敷も広く、嘉手納にある沖縄県立農林学校の教師や生徒達が間借りや下宿をしていた。中には、アガリアサギ(庭の東側の離れ)を造って貸屋にしているところもあった。
 昭和十八年に入って、多くの日本守備軍が大湾の民家に駐屯を始めた。当時、道は緑のトンネルと言えるほどセンダンやガジマル、クスノハカエデ等の大木の枝で覆われ、屋敷も石垣と緑で囲まれ上空から見えにくく、また比謝川を利用して海に出ることもでき、水利などの好条件も併せ持っていたので、駐屯には都合が良かったと思われる。
 当時字の役員は区長が宮城※※(屋号※※)、会計は新垣※※(屋号※※、※※ともいう)、書記は石川※※(屋号※※)、使丁は松田※※(屋号※※)と松田※※であった。松田※※によると当時の世帯数は一一〇から一一五戸ほどであったという。

 出征兵士の見送りと村葬

 読谷村内にも、戦死した兵士の遺骨が帰ってくるようになり、悲しみにつつまれながら、村葬が行われた。その際には児童生徒をはじめ、村民が式に参列して焼香が行われた。
 戦況の悪化に伴い、予備役も召集され、現役兵も入隊と同時に戦地へ派遣されるようになった。兵士の出発の日が迫まると字主催の送別会が催され、国防婦人会からは武運長久の願いを込めた「千人針」が贈られた。出発当日は区民総出で嘉手納駅まで見送り、汽車(県営軽便鉄道)が見えなくなるまでハンカチ等を振って無事を祈った。このような盛大な見送りが行われたのは昭和十九年一月十五日までで、その後はひっそりと出征していった。

 戦時下の生活

 戦争は「満州事変」から「支那事変」(日中戦争)へ発展した。そのような中、上海や武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が激戦の末陥落したときには国をあげての旗行列が行われた。古堅尋常高等小学校区でも先生方と高学年の児童達が参加して校区内での祝賀行列を行った。道程は、学校を出て古堅、比謝矼、牧原、長田、比謝、大湾の順に巡った。やがて、「大東亜戦争」(太平洋戦争)へと拡大した戦争は、戦場も東南アジアや、北はアリューシャン列島へと拡がり、多くの尊い人命を失いながら長期戦の様相を呈してきた。
 それに伴い、銃後の生活もじわりじわり窮乏生活に追い込まれた。物価統制が行われ、嗜好品から食料品まで配給制となり、煙草を買うにも早朝から店先に並んで買うようになった。乗り合いバスも、ガソリン車から「木炭カー」へと変わり、坂では客が降りて後押しして走らせた。
 そのような時でも、「欲しがりません勝つまでは」と必勝を信じ、「一億一心、火の玉だ」を合言葉にしていた時代であった。

 遮蔽施設

 比謝・大湾の中道は「誘導路」と呼ばれ、北飛行場からの日本軍飛行機の遮蔽施設(格納庫)への誘導に使われた。そのため、機体の移動に障害となるとして大きな木が切り倒され、山内小(ヤマチグヮー)では家族が立ち退いた後、家が壊された。飛行機の格納場所となったのは松山内(マチャーヤマチ)と松門(マチジョー)である。当時松門(マチジョー)の南隣りに住んでいた宮城※※によると日本軍の命令によって松門の家が取り壊されたのは昭和十九年のことで、母屋に綱が掛けられ兵士達が引っ張ってつぶし、家族はやむなくトートーメーをもって古堅の母方の実家に移っていったという。

 供出

 供出は村からの通達で、昭和十九年五月頃から始まった。供出物は主にカズラ、芋、フダンソウ、クロツグ(方言名はマーニ)で、紙の原料になるアオガンピも供出することがあったが、それは小学生が取ってきて供出していた。供出物は各家庭から事務所に届けられ、それを馬車に乗せ役場まで運んだ。芋などは、飛行場の設営工事の工事人夫の食糧となったが七月、八月が最盛期であった。大湾では割当分を集めるのに四苦八苦で、一週間前から順番を決め、連絡をとり、その日その日の割当量を確保するにも必死の状況だった。

 日本軍の駐屯と住民との関係

 北(読谷)飛行場が機能し始めて間もなく、飛行場守備隊として球一二五四五高射砲部隊(隊長吉田※※中佐)が配置された。その高射砲本体と司令部壕が現在の大湾運動場の近くに構築され、司令部が大湾の字事務所に置かれた。事務所の後ろの屋号下ノ比嘉(スクヌヒジャ)に炊事場があり、その後ろの新屋新城(ミーヤーアラグスク)は食糧倉庫であった。司令部壕の入り口付近は、土砂が崩落しないように丸太を打ち込み、一部はセメントで固めてあった。そこからよく伝令が走り出ていった。
 字内に駐屯したのは球部隊、山部隊、武部隊で各部隊ごとの配置は次の通りであった。球部隊は集落東の御願(マーカーウガン)と、その北側のマーカーガーの所に炊事場があり、仲比嘉(ナカヒジャ)に二〇人ほど、ウサ大前小(ウサーウフメーグヮー)に七、八人が、松田(マチダ)に二〇人あまり、新屋大前小に三〇人あまりがそれぞれ投宿した。球部隊の将校は前ヌ松田(メーヌマチダ)を宿舎としていた。山部隊は前外間小(メーヌフカマグヮー)に一〇人ほどと食糧倉庫を置き、与久田(ユクダ)に三〇人ほどがいた。武部隊は上仲門(イーナカジョー)に一〇人ほどがいた。また、所属は不明ながら宿舎などに使われたのが、新城(アラグシク)、新屋亀玉元(ミーヤーカミータマムトゥ)等であった。
 屋号友寄(トゥムシ)の二階建て納屋の二階部分には食糧や医薬品を収める倉庫が設けられた。さらに友寄の北側のハラゴウモーには医務室が造られ、堀中尉と猪口曹長がおり、西側の薮の中には炊事場も作られた。堀中尉と猪口曹長は毎朝友寄に洗面に訪れ、親しく付き合っており、たまには炊事場で作ったソーミンチャンプルーを隣近所にも分けてくださいと持ってくることもあった。
木材の「受領証」(昭和19年10月31日 大湾駐屯第21野戦高射砲司令部・球12545部隊発行)
 大湾の字事務所が高射砲部隊の司令部にされたことで、本来の字行政のための事務所は当時の会計宅(万郎屋)に移らざるを得なかったが、住民と守備軍とのトラブルはなく、きわめて友好的な関係であった。
 しかし、一つだけ奇妙に思い出すことがあると松田※※は語っている。ある日、十・十空襲の前だったと思うが、字内に駐屯した日本軍の中から二人の死者が出て、松田(マチダ)の古墓の近くで薪を積み上げ火葬したことがあった。死因は不明だったが、立入禁止とされたことと同時に異様な臭いが印象的だったという。

 本土疎開

 昭和十九年八月の古堅国民学校学童疎開団(渡久山※※先生引率)に大湾からも一〇人余の児童が加わった。宮崎県加久藤国民学校に疎開したのは、※※の我那覇※※、※※、※※の大城※※、※※、※※の比嘉※※、※※、※※の大城※※、※※、※※、※※の松田※※、※※の松田※※などであった。一般疎開では※※の山田※※、※※、※※、※※、※※の五人が昭和二十年三月三日に大分県庄内村平石に、次男松山内の大城※※、※※、※※、※※の四人が宮崎県川南村へ、また※※の松田※※、※※母子が岡山県にそれぞれ疎開した。
 遭難した対馬丸には、松秀※※の※※、※※、※※、※※、※※の松田※※、※※が乗船し、犠牲となった。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日の大空襲は、午前七時過ぎから始まった。字民は演習だと思って石垣の上などに登って見ている人々が多かった。北飛行場方面から黒煙が立ち上り本物の空襲と知り防空壕に避難した。各家庭の防空壕はまず縦に掘り進んで、ある程度掘ると横穴を掘って作られていた。低空でやって来た敵機にせっかく設置した高射砲もその威力を発揮できずに壊滅した。その後、敵機は比謝川沿いの上陸用舟艇や沖縄製糖嘉手納工場、防衛隊炊事場をつぎからつぎへと攻撃した。集落内の民家は爆風でゆがんではいたが焼けたのは少なく、大きな被害はなかった。遠くは那覇市が火の海となって黒煙が立ちのぼり、火の玉がぽんぽんと上がるのが望見された。空襲後間もなく、家を失った那覇方面の人々が着の身着のまま、県道を北へ向かって行った。

 国頭への避難

 大湾の人々の避難先は、国頭村の字奥間と字与那であった。「沖縄戦戦災実態調査票」から見ると昭和二十年二月に松湾親雲上(マチャーワンペーチン)の家族が避難し、二月二十八日に源蔵外間(ゲンゾウフカマ)が大湾を出ている。同調査票からすると最後まで大湾に残ったのは古謝小(コジャグヮー)、知念(チニン)、酒屋石川小(サカヤイシチャーグヮー)、上門小(イージョーグヮー)等数家族である。また、いったん大湾からは避難したが楚辺や喜名、牧原など村内で米軍上陸後間もなく投降、または収容された家族が七世帯あるが、ほとんどの世帯は立ち退き命令を受けて、米軍による上陸前空襲が激しくなった三月末にあわてて国頭への避難を始めた。
 先に避難した松田※※の話によると、「二月二十八日日本軍のトラックで大湾を出発し名護の幸喜まで行き、その晩は親戚の家に泊まった。翌日の晩与那へ向け出発するところを、幸運にも再び日本軍のトラックに乗せてもらい、与那にあった読谷山村仮役場に着いた。翌日から与那の山中に設けられた避難場所に行き、半月ばかり過ごした。その後戦況の悪化で山の奥の方へ場所を変え、山越え谷越えの後、五月頃幸喜の避難場所で捕虜となり、宜野座の収容所へ送られた。最初避難するときには子どもの多い世帯から先に避難するようにと言われ、実家の祖母と一緒に避難した。荷物は後で取りに行くつもりでいたが、空襲がひどくなり戻れなかった。避難先での食事は、二回ほど米の配給があったが、その後は何もなく、自分たちで持っていった豆などを琉球ツワブキと混ぜて食べた」という。
 また、三月二十五日頃に国頭避難を始めた松田※※によると、「おばあちゃんもいたので馬車で奥間に避難した。字の人たちとは奥間で合流した。その後、奥間から二里ぐらい離れた山の中に避難した。米軍を見かけることもままあったが捕まらないように逃げていた。そうこうしているうちに、七月二十三日にはおばあちゃんが栄養失調で亡くなった。八月に入って米軍の山狩りで投降した」という。

 字民が収容された主な収容所とその生活

 『村の歩み』(一九五七年、読谷村役所発行、八〇頁)の第二二表「読谷村民各地区分散居住状況調(一九四六年九月)仲本政公氏提供」によると、大湾の人々の分散収容状況は、石川一六六人、宜野座七一人、久志六四人、漢那五二人、田井等三二人、中川二〇人、コザ一一人、前原九人の合計四二五人である。
 宜野座と石川で収容所生活を経験した松田※※によると、「宜野座の収容所で敗戦を知った。収容されるとその日から米や缶詰の配給が毎日あり、子ども達に食べさせられるので安心した。収容所では七〇人あまりの人々が雑魚寝できるような大きなテントで寝た。男たちは南部から送られてくるけが人などを運び、老人たちは穴掘りをし、死体をその穴に埋めていた。女、子どもは毎日運ばれてくるけが人や死人の中に知り合いや身内の者がいないかと心配しながら見回っていた。また、親と死別した子ども達を収容するテントでは、毎日のように子ども達が栄養失調やマラリアで死んでいった。自分も乳児を抱えていたが、本当に可哀想だったが、自分のことで手一杯でどうすることもできず、今でも忘れられない悲惨な状況であった」という。

 帰村と「慰霊塔」の建設

 一九四六年八月以降、読谷山村では建設隊を編成し村再建の第一歩を踏み出した。同年十一月頃より波平、高志保の一部地域に村民が帰住できるようになって、大湾の人々も随時波平に受け入れられた。その後一九四七年四月に大木に移動し、更に一九五一年にやっと古里大湾に戻ることができた。
 字民の生活が幾分か安定した頃、戦没者の霊を慰め、二度と沖縄戦のような体験をしないように、平和を誓うための「慰霊塔」建設の声が高まり、やがて建設に着手、一九五九年十二月十三日に完成を見た。当初は軍人軍属の四三柱を祀ったが、一九九八年一月七日、字民の全戦没者一四二柱を刻銘し、恒久平和を誓う慰霊の塔となった。
 沖縄県の「平和の礎」刻銘者名簿から見ると、沖縄戦までの戦没者は総数で一四二人。その内軍人軍属四八人、一般住民七四人、戦闘参加者九人、不明一一人となっている。(二〇〇一年八月現在)(宮城元信)

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