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16 比謝

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 概況

 昭和十九年の比謝の世帯数は四九戸、人口は二五〇人であった(石嶺伝夫著『わが生り島 比謝村』)。集落内の住宅はほとんどが茅葺きで、瓦葺きは五軒しかなかった。屋敷の周辺にはガジマルや蓬莱竹、雑木などが植え付けられていて、集落全体がかなりの緑に包まれていた。

 戦時体制下の生活

 出征兵士の見送りは日中戦争の頃から昭和十八年頃まで頻繁に行われていた。婦人会は「大日本国防婦人会」のタスキを掛け、青年団は青年団服を着けて、軍歌を歌い行進しながら嘉手納駅へ行き、「ばんざい」をして送り出した。
 最初の戦死者は大城※※で、「支那事変」で亡くなった。遺骨が戻ってくると「村葬」が行われ、読谷山国民学校内(現在の運動広場北側)の「忠魂碑」前で小学生を含む多くの村民が参列して盛大に執り行われた。
 国民学校では授業のほかに竹槍訓練や手旗信号の訓練も行われていた。竹槍は自分達で竹を切り出してきて作った。一般の青年を対象に青年学校というのがあって、普通の教科の授業もあったが、昭和十七、八年頃からは教練が強化され軍事訓練中心のものとなっていった。
 日本軍が駐屯するようになるのは昭和十九年頃からで、当時の字事務所や近くの大湾の字事務所にも通信隊が駐屯していた。比謝西原にあった渡具知公民館(戦後)の下の墓で、理由は不明だが亡くなった兵士の火葬が行われたことがあった。
 住民は兵隊さんを敬い、日頃食べることのできない卵も供出した。芋、かずら等の供出もよくあった。村内の屠殺業兼肉販売店からは豚肉、牛肉なども供出されていた。個人で豚を屠殺することは禁じられており、正月用豚肉の確保には、警察に屠殺の許可を申請して行っていた。
 比謝の多くの人たちは徴用で大刀洗航空廠那覇分廠のもとで、比謝東の山の中での防空壕掘りに従事した。トンネルで壕と壕をつなぎ通行が出来るようにしたものであった。十・十空襲後は伊良皆から多くの日本兵がそれらの壕に移ってきた。
 青年団は「早朝作業」とか「奉仕作業」などで出征兵士の家の畑仕事を手伝うのが日課であった。そうした仕事はきつかったが集まりはよかった。
 軍属として北飛行場の事務員をしていた仲宗根※※は、そのまま島尻まで軍隊と行動を共にして六月に死亡した。

 緑の遮蔽(しゃへい)施設と避難壕

 比謝集落は前述のように木々に覆われていたため、北(読谷)飛行場の戦闘機の遮蔽施設として位置づけられていた。中には四人ほどが手をつないでやっと囲めるほどの巨木もいくつかあったので、緑に覆われていて戦闘機を隠しても上空からは見えないというのがその理由であった。実際に、現在の国道を喜名から伊良皆、比謝と誘導路として使い、十・十空襲の後であったが、一機の故障した飛行機を引っ張ってきて、翼や機体に引っかかる樹木の枝を切って誘導した。道も拡張され、比謝・大湾の中道は「誘導路」と呼ばれた。集落内には三箇所の駐機場があった。
 そんな巨木が多くあることから住民の避難壕は大きなガジマルの樹下に掘って作るところもあった。
<前略>
 第十九航空地区司令部命令 昭和二十年二月十四日
五、第五十六飛行場大隊長ハ沖縄北飛行場ノ土掩体ノ偽装ノ強化ト共ニ偽飛行機及大破機ヲ全部本日中ニ之ニ収容セシムベシ
 又伊良皆誘導路及遮蔽施設位置ノ偽装ヲ継続スベシ
七、北飛行場比謝附近ノ遮蔽施設之ニ伴フ誘導路ハ航空地区司令部新名中尉ノ区署ニ依リ本日中ニ之ヲ概成シ明日以後使用ニ供シ得ル如ク実施スベシ
等とみえる。(『第十九航空地区司令部命令・会報綴』 防衛庁研修所戦史室より。旧漢字は現代用語漢字に改めた。)

 防空訓練と提灯行列

 防空訓練は各字から一人の伝令が出て、嘉手納警察署に弁当を持って集合し、そこで待機して訓練の合図を待った。各字の事務所などでは数人が同じように待機していて、合図が出ると嘉手納警察署に待機していた伝令が走って部落に伝え、部落での待機組が村中を走って伝えた。伝令は「佐鎮管区沖縄地区全地区訓練警戒警報発令」の通報を受けていたが、佐鎮管区は佐世保鎮守府管轄内ということで、沖縄地区全地区に訓練警戒警報が発令されたという意味である。彼らは、縮めて「訓練空襲警報発令」などと言うこともあった。自転車があるところは、それで伝令していたから、ないところからは羨ましがられた。他に灯火管制があって黒い布でランプを覆ったりした。
 漢口陥落、南京陥落、シンガポール陥落の際には、人々は学校に集まって提灯に火を灯して、各部落をまわった。シンガポール陥落の時には戦勝祝賀ということで鞠も幾つか配給されたが、それはシンガポールからはゴムの原料が取れるからだということであった。

 十・十空襲

 ここでは、何名かの個人体験から十・十空襲の様子をみることにしよう。
 長嶺※※(昭和三年生・屋号※※)
 「その日もいつもと同じように早朝から東の山に草刈に行っていた。太陽が少し昇った頃、五、六機の戦闘機が機銃掃射しながら東から西に向かって飛んで行くのが見えた。よく見ると星のマークが付いており敵機にまちがいないとすぐに引き返した。戦闘機は北飛行場方面に爆弾を落とし、その度に黒煙が上がった。今の国道沿いの比謝と大湾の境あたりに比嘉商店というのがあり、そこまで来るとタバコを買おうと一〇名ほどが列を作っていた。敵機襲来を伝えたが、相手にしてくれなかった。急いで家に帰り、その後は兼島(屋号)の木の上に昇って飛行場方面が爆撃されるのを見ていた。しばらくすると、比謝部落の上空を旋回するようになり、恐くなって防空壕に入った。旋回する敵機に部落の近くから発砲するようなことはなかった。また比謝部落内には爆弾は落とされなかった」。

 伊佐※※(昭和四年生・屋号※※)
 「私は喜名にいて、那覇分廠の車に乗って恩納村に丸太を取りに行こうとしていた。最初は演習だと思って見ていたが、飛行場がどんどん焼かれていくものだから、これは戦争だと思って、喜名東の防空壕に逃げ込んだ。喜名東の山中にはたくさんの防空壕があった。私が飛び込んだ防空壕には友軍の弾薬がたくさんあった。しばらくすると空襲が止んだので、家族が避難していると思われる比謝東の防空壕に移動した。屋敷内には防空壕はなく、東側の林の中のガジマルの樹下に班毎に掘ってあった。それらはかなり広いもので、そこでずっと空襲が終わるまで避難していた」。

 佐久川※※(大正十四年生・屋号※※)
 「私は徴用で船に乗っていた。その日は大東島沖にいた。九隻で船団を組み、南大東島に二五ミリの二連砲と機関砲や食糧、弾薬といった積み荷を島に降ろそうとしているところであった。そのうち護衛艦一隻にいきなり敵機の攻撃が命中した。船団の司令官からは、各艦自由行動して退避せよ、何時何分に何処に集まれといった命令が出された。各艦は蜂の巣をつついたようにバラバラになって逃げた。沖縄方面への攻撃が早かったことは後で聞いた。午前十一時頃には敵機は大東島方面までも来ていた」。

 石嶺※※(昭和八年生・屋号※※)
 「その日はとても良い天気で、朝学校に行く準備をしてランドセルを背負って出ようとした直後でした。飛行機の音が聞こえてくるので、あの頃は飛行機なんかあまり見ないし、あれと思っていると爆発音があっちこっちから響いてきました。飛行場方面からは黒煙が上がってくるし、爆発音もひどくなるので家族と一緒に自宅の防空壕に入りました。すると隣近所の人たちもうちの防空壕に入って来ました。うちの防空壕は、大きなガジマルの根っこ近くに、かなり広く掘られていたので窮屈ということはありませんでした。その日は一日中そこにいました。その後も空襲は予想されましたので、長田川上流のヤチミーグスクの近くの自然の岩穴に避難する場所を準備しました。そこは昔の墓で、骨壷などを外に出し、ハブなどが入り込まないように消毒してゴザ等を前もって持ち込んでおき、その後の空襲ではそこに避難しました。他の家族も同じように近くの自然の岩穴に避難場所を確保していました。昼間空襲があるとそこに隠れて、夜になって空襲が止むと家に帰るということを何度か繰り返しました」。

 移ってきた慰安所

 伊良皆の北側の三角兵舎は十・十空襲でほとんどが破壊された。そこには那覇分廠もあったが、破壊されて比謝の東(亀地橋=ときわ橋付近)に日本軍と共に移ってきた。同時に長屋式茅葺きの慰安所も引っ越してきた。場所は、現在の国道比謝交差点から北東に約五〇〇メートルほど行ったところの大湾亀地原の窪地にあった。そこには三〇名ほどの朝鮮人慰安婦がいた。比謝の字事務所に駐屯した通信兵たちもときたま「今日は慰安の日」といって、身支度をして出かけていた。

 疎開・山原避難

 学童疎開は昭和十九年七月頃から始まり、比謝からはその年の八月に伏見丸で仲村渠※※、又吉※※(一般疎開)、又吉※※の三人が宮崎県の加久籐村加久籐国民学校に疎開した。帰ってきたのは昭和二十一年十一月上旬であった。
 山原への避難は昭和二十年二月以降からであった。比謝の避難先は国頭村の浜と奥間であった。比謝にも荷馬車が幾つかあったので、それに家財道具や食糧を積み、歩けない人を乗せて何度か往復するが、途中で馬の餌がなくなり倒れてしまうという事件も起こった。避難についての説明会は区長さんを中心にしっかり行われていたが、比謝の全世帯が山原に避難したわけではなく、東の山の中で投降した人たちもいる。
 米軍上陸後は、一緒に避難した人々も家族ごとにばらばらに行動して、生き残った人は最終的には投降して保護された。
 地元に残った人々はいち早く保護されて、まず旧楚辺集落に集められ、そこで一月半ぐらい暮らした。その間に、読谷飛行場に日本軍の義烈空挺隊が突撃するという事件もあった。とにかく日米双方からの攻撃があり、それらの空襲で亡くなった人もいた。その後は、危険だからということで全員石川に移された。中には金武へ行き、その後さらに宜野座に向かった人々がいたが、途中で漢那に収容施設を作っているから、そこへ行きなさいということで漢那に収容された人々もいた。

 古里へ

 帰村が許されて、比謝の人々も昭和二十一年十一月頃から順次古里に戻ってきた。最初は波平に居住し翌年五月頃から大木に移った。大木では規格住宅の屋根はカバで覆ったものも多く生活は大変ながら、比謝への復帰を切に願っていた。昭和二十六年五月に比謝、大湾、伊良皆地域がやっと居住許可となり、住宅整備が進むにつれ次第に再移動し今日に至っている。
 しかしながら、終戦直後の生活では、人々はアメリカ軍からの配給食糧の不足分を畑でさがしてきた芋やソテツから取ったでんぷん等で補い、飢えをしのぐという苦しい生活であった。(小橋川清弘)

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