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15 渡具知

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 概況

 渡具知は読谷村の南に位置し、東シナ海に流れ出る比謝川河口の北側にある。本集落(ムトゥムラ)とやや離れたところにある座間味屋取(ジャマンヤードゥイ)から成っている。本集落は東に字古堅と、座間味屋取が北に字楚辺と隣接している。旧渡具知港(比謝川河口)には明治二十九年に鹿児島、沖縄、基隆(キールン)間の海底電信線が陸揚げされ、海底電信陸揚所が造られていた。そこから海岸沿いの西に位置する泊城(トゥマイグスク)は景勝地で、夕方には美しい夕日が眺められ、夜になると那覇の明かりがうっすらと見えた。
 半農半漁ののどかな集落で、沖縄戦直前の世帯数は一二四戸、人口は六七六人であった(渡具知誌「戦争編」)。
 昭和十七年八月頃のある日の夕暮れ時、沖合いから渡具知港に進入する数隻の船があった。それを見ていた人々は驚愕したが、その中の一人が「テキヤアラニ」(敵ではないか)と叫んだ。息を殺して見つめているうちに近づいてきたのは、兵士たちを乗せた日本軍の上陸用舟艇であった。熊本から陸軍の海底電信局守備隊が派遣されたのだった。これが沖縄戦まえの渡具知への日本軍の駐屯の始まりであった。

 県外疎開

 渡具知からの本土疎開は、屋号※※の比嘉※※(高等科一年生)が長崎へ疎開しただけである。比嘉※※の一家は昭和十五年にハワイから帰り、米軍上陸を危惧していた父・※※は一人息子を疎開させた。

 戦時体制下の生活

 古堅国民学校六年生の女子児童たちは又吉※※、我謝※※の二人の教師から遊戯や歌などを習い、安谷屋※※引率で渡具知港に先に駐屯していた海底電信局守備隊を慰問した。
 北飛行場の建設が始まった昭和十九年頃の渡具知はたいへん景気が良かった。泊城北方のサンヤグヮー(小高い丘)には国場組のクラッシャー(粉砕機)が設置され、多くの字民が働いた。泊城周辺の岩石に発破を仕掛けて砕き、それをさらにクラッシャーに掛けてバラスにして、飛行場建設の現場に運んでいた。賃金労働で得た現金収入は字民を潤した。
 一時、海底電信局守備隊が引き揚げた時期があり、短期間ではあったが、渡具知在郷軍人会や青年会が見張り番(監視)をし、女子青年が炊き出しを行った。その傍ら、青年会が中心になって出征兵士の家の畑仕事を手伝うなどの奉仕作業もあった。しかし、次第に徴兵や徴用される人々が増え、一方守備隊が再配備されたので交替した。
 日増しに戦時体制が強化される中、警防団、国防婦人会が組織され、婦人会は服も規制されてモンペを着るようになった。防火訓練も昼、夜と行われ、各家庭では火叩き、消火用バケツ等を備えた。敵機来襲伝達訓練も警防団や青年団が行い、とてもハードなものであった。それは、各字の伝令員が嘉手納警察署に待機し、発令と同時に字事務所(ムラヤー)に自転車で伝達し、各家庭へと伝えた。
 国民貯蓄は強制ではなかったが、郵便局の簡易保険などへの加入が奨励された。昭和十八年の半ば頃からは灯火管制も強化されていく中、生活必需品は不足し、衣料・酒・石油等は切符制となった。煙草は朝早くから並んで買っていたが、箱単位ではなく本数単位で買うようにもなった。一方、飛行機の油の基になる「チャンダカシー」(植物名ヒマ)の種子が配られ植え付けた。同時に、電信局の守備隊以外にも日本軍が駐屯するということで衛生面の改良を指示され、フール(豚小屋)や便所等の改良を行った。

 日本軍の本格的な駐屯

 昭和十九年になると渡具知港沖合いに数千屯級の輸送船が停泊し、暁船舶隊(後に嘉手納製糖工場へ本部を置く)の上陸用舟艇が軍事物資の陸揚げをするようになった。年末から二十年にかけて輸送船の入港も激しくなり、朝鮮人軍夫(球部隊所属)数百名が西の浜から上陸し、サーターヤー(黒糖製造所)周辺にテントを張って駐屯し、荷揚げ作業などの重労働に従事させられていた。蒲加馬久里(カマーカバクイ)の東隣の空き地に炊事場が作られ、軍夫たちの飯場となっていた。井戸のある瓦葺きの家は日本軍守備隊の宿舎となった。
 日増しに舟艇は増え、続々と武装した沖縄守備隊数百人規模が上陸しては、軍用トラックで県内各地に配備された。浜辺に上陸する兵士の服装で寒い所から来たのか、暑い所から来たのか判別できた。ほとんどが防寒服を着て、毛布を背負っていて「満州」や「北支」あたりから来た部隊であることがわかった。
 字事務所(ムラヤー)には通信兵が駐屯し、手旗信号の教練所にもなった。
 港から北飛行場に通じる道路が拡張され屋敷の一部や畑などが接収された。昭和十九年九月十日、球部隊から命令が出て、屋号根屋(ニーヤ)(渡具知神殿を含む)、江田(イーダ)、亀江田(カミーイーダ)の三世帯が立ち退きさせられた。屋号根屋の立ち退きは字内ではかなりの騒ぎとなった。
 字内いたる所が弾薬や魚雷、爆弾などの集積所となり、東原一帯はガソリンの入ったドラム缶が集積され、将官の車も頻繁にやって来るようになった。しばらくすると、ほとんどの家屋敷に守備隊が駐屯し、字民は裏座などを居所、寝所とした。家に入れない兵隊たちは庭や空き地にテントを張り駐屯した。
特攻艇(上)と渡具知の秘匿壕入口
 昭和十九年、徴用された屋号※※(大湾※※宅)は山部隊の将校が一、二番座に滞在し、よく打ち合わせ会議が開催されていた。しかし、短期間で引き揚げ、後に山三四七四部隊荒瀬隊と入れ替わり、砲座を構築し、西海洋に向け警備していたが十二月六日南部へ撤退した。
 屋号誠輝湾小(セイキワングヮー)に宿舎をとる海軍陸戦隊の三上軍曹の指揮で兵隊、防衛隊、徴用された人達(渡具知・古堅・水釜)で特攻魚雷艇を入れる壕を掘る任務に就いたが、昭和十九年八月から翌年二月までかかった。
 亀作玉貫小(カメサクタマンチグヮー)、梅吉湾小(バイキチワングヮー)に駐屯していた大島隊(山部隊)は、敵の上陸を阻止しようと、徴発した丸太を西の海に打ち付け鉄条網を張り付ける作業をした。

 徴用

 年齢十七歳から四十五歳まで多くの人々が徴用された。昭和十九年からは、健康であれば六十歳の男性(安次嶺※※)から、国民学校の高等科二年(男子)まで徴用令がきた。児童たちは陣地構築に使用する松の皮剥ぎをさせられていたが、当字担当の大湾※※教諭が現場に行き、命令を取り消し児童たちを学校へ戻した。
 字民の主な徴用先は、北(読谷)・伊江島・八重山の各飛行場の設営や伊良皆・豊見城(誠部隊)の壕掘り、陣地構築等であった。従事日数は二週間くらいで交替した。八重山徴用では、久高※※(大正五年八月五日生)、江田※※(明治四十五年六月十日生)の二人の犠牲者がでた。

 供出

 供出は主に、芋・かずら・野菜・チンクヮー(かぼちゃ)などであった。当時の区長は波平※※(屋号※※)で、割り当て分を字事務所に集め、それを役場から供出係が取りに来ていた。その供出係が知念※※(屋号※※)で集めた供出物を各部隊へ届けた。後に要求も激しくなり、陣地構築に使う丸太(松材)、軍馬(四〇円位)も徴発された。軍の命令では受け入れないわけにもいかなかった。

 国防団体の組織・活動

 警防団(団長大湾※※)を中心に消火訓練、敵機来襲伝達訓練、灯火管制、竹槍訓練が行われた。国防婦人会は出征兵士の見送り・慰問袋・千人針づくりなどをし、青年団(団長大湾※※)は警防団と活動を共にした。青年団は前組・中組・後組(屋取)と組織されていた。活動は事務所(ムラヤー)を拠点として行われたが、次第に出征する若者が増え、活動は停滞した。

 日本軍と字民との関わり

 大島隊(山部隊)は兵士間は厳格であったが、字民とは親しく付き合っていた。昭和十九年の八月「十五夜」には、字民に呼びかけ泊城北側の広場で盆踊りを催し、ご馳走を作り、日本酒やカンパンなどを振る舞い交流した。荒瀬隊(野砲隊)も、老人や子供たちにおにぎりやカンパンを与えて、明るく付き合っていた。
 蔵根(クランニー)を宿舎とした通信兵たちは、子供たちに受信発信を教えていた。
 朝鮮人軍夫たちは、軍紀厳しい中でもいろいろなことを教えてくれた。夜の明かりを灯す石油が不足がちであったが、ガソリンに塩を混ぜると石油になると言い、自ら混合の度合を教え、灯してみせた。その明かりは煙も出ず通常の石油より明るかった。さらに、玄米を持ってきてくれることもあった。
 このように、渡具知に駐屯する日本軍部隊と字民との関係は良かった。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日晴天の朝、いつものように朝食を済まして徴用作業へ出る準備や出勤する人々の様子がみられた。七時を少し回った頃、急に北(読谷)飛行場で爆弾の炸裂する音が続いた。字民はすぐに家を飛び出し、飛行場方面の様子を窺った。すると、東の空から低空し、西の海へ飛び去る黒色の飛行機が見えた。北飛行場では黒煙や土煙が舞い上がった。友軍機による早朝からの大演習だと叫ぶ者が居た。駐屯していた守備軍の兵士たちももの凄い演習だと言っていた。しかし、西の海で旋回して渡具知の上空を低空飛行し、中飛行場方面に向かう飛行機を見たとき、星のマークを確認した人々は口々に「敵機だ、空襲だ」と叫び自家用防空壕へと避難した。守備軍の兵士たちは、小銃や機関銃で低空飛行していく米軍機に発砲していた。
 この大空襲のさなか、渡具知の警防団長の大湾※※と青年団長の大湾※※の二人は、「敵機来襲」「実戦空襲警報発令」と連呼して部落中を駆け回っていた。
 幸いにも部落内での字民の犠牲者は出なかったが、徴用されていた江田※※が八重山海上で船ごと攻撃を受けて戦死した。また、荷役作業に従事していた朝鮮人軍夫の中にも、電信屋めがけて投下された爆弾で戦死した者がいた。

 出征兵士

 昭和十三年から十八年までは、字中の人がムラヤーに集まり、出征兵士の幟をたてて盛大に見送り式が行われた。式が終わると徒歩で嘉手納駅まで行き、汽車の窓から手を振る兵士が見えなくなるまで見送った。船出の日は、船送り毛(フナウクイモー)で火を焚き「だんじゅかりゆし」を唄い船送りをした。この様な華やかな見送りも昭和十八年十二月十六日に出征した大湾※※等までで、以降はひっそりと入隊した。沖縄から最後の海軍志願兵で出征した宮本※※もひっそりと出征した一人であった。

 村葬

 読谷山国民学校で村全体で村葬が行われた。当字出身者で村葬された方々は、大湾※※、我謝※※、仲村渠※※の三人であった。日本軍の駐屯、戦争激化に伴い、村葬は行われなくなった。

 防衛隊

 十六、七歳から四十五、六歳ぐらいまでの多くの方々が防衛召集された。板良敷※※(昭和四年生、当時十六歳)は、昭和十九年末護郷隊に志願し、首里に配属され後に南部戦線へ参加したが、その後消息不明となった。

 学徒隊

 渡具知からは大湾※※(屋号※※、女子師範)が昭和二十年三月ひめゆり学徒隊として従軍し、野戦病院篤志看護婦となったが、昭和二十年六月摩文仁で戦死した。板良敷※※(屋号※※、一高女)もひめゆり学徒隊として南部戦線へ従軍し、昭和二十年六月戦死した。
 男子は学徒隊編成ではなく志願兵として久高※※(屋号※※)は、国民学校高等科二年に在学中、昭和十九年十一月、陸軍少年戦車通信兵として名護秘密通信隊大本営直轄村山隊へ入隊。四月頃多野岳にて大激戦の末、五月に部隊は壊滅し、六月頃投降し捕虜となった。

 従軍看護婦

 知念※※(屋号※※)は、一高女を卒業後、日赤看護婦養成所で三年間学び、昭和十三年大阪日赤病院勤務。翌年北支天津に従軍看護婦として派遣された。十八年に小倉陸軍病院に勤務。二十年八月十五日終戦を迎え、十日後に解散になり、その後昭和三十二年に帰沖した。
 吉浜※※(屋号※※、大正十三年生)は、昭和十六年十二月従軍看護婦となり野戦病院で勤務し、昭和二十年四月首里方面で戦死した。
 大湾※※(屋号※※、大正十四年生)は、嘉手納製糖工場に務めていたが、昭和十八年頃から従軍看護婦として球部隊と行動を共にし、昭和二十年首里方面で戦死した。

 米軍上陸

 昭和二十年四月一日早朝、米軍は渡具知海岸や水釜海岸から一斉に上陸し、何の抵抗もなくその日のうちに北・中飛行場を占領した。渡具知に残っていた仲宗根※※(屋号※※)によると、
 「家族三人とハワイ帰りの比嘉※※さん父娘の合計五人でウガン山東の壕に避難していた。すさまじい島への艦砲射撃で壕は揺れ、爆弾の炸裂音が恐怖心をあおった。三月三十一日夜は不気味な静けさが辺りを包んだが、翌朝早く、壕内に米兵が懐中電灯をさして『デテコイ、デテコイ』と入ってきた。比嘉※※さんは『ヘルプミー』といって出たので一緒に外に出た。壕から連行され部落後方のトロッコ路に行く途中、大城※※さん夫婦も自家用防空壕から連行されてきた。部落内は廃虚と化し、かつての面影はなかった。その日のうちに西の浜から上陸用舟艇で楚辺馬場に収容された。比嘉※※さんは、その後も通訳として避難民の保護にあたっていた」
という。また、波平※※(屋号※※)によると、
 「サーターヤーグムイの朝鮮人軍夫たちが掘った横穴式壕に避難していた。四月一日朝騒然とする中、壕から出て海岸を見ると米軍が上陸してきた。初めて見る米軍上陸に震え驚き、我を忘れているところをそのまま保護された」という。その外に、保護された字民は次の人々である。城間※※・※※夫妻、波平※※、仲村渠※※、大湾※※、久高※※等。

 字民が避難した主な壕・ガマ

 最初、各家庭で掘った壕に避難していたが、十・十空襲後、警防団が中心になって東ウガン山付近とバクチャヤーガマ、ハーマグヮーのガマ等を字民の避難場所と定め、爆風除けなどを強固にして整備し、さらにヌール墓のように岩層が厚く丈夫なフィンチャー(掘り込み式の)墓に避難するようにした。壕が混雑してくると久得の壕に行った人達もいた。

 字民の主な避難先・避難経路

 渡具知は村役場より国頭村与那に避難するよう指定されていた。昭和二十年三月中旬、乳児を抱える母子家庭は先駆けて避難した。当時は、与那の集落内の民家が割り当てられ、配給物資(食糧)もあった。
 米軍の上陸前空襲が激しく続いていた三月二十五日、知念※※(避難係・供出係)が各壕をまわり立ち退き命令を伝えに来た。字民は急いで家に帰り準備を済ませ、国頭へ向かう人、親戚を頼って胡差、具志川へ向かう人などで騒然とした。二十八日頃までにはほとんどの人々が避難先に向かった。しかし、年老いて歩けない人、負傷者を出した家族等は残った。
 国頭に行く人々は喜名から山田を通り、西海岸線に沿って羽地、辺土名そして与那へ行った。与那がいっぱいとなり、奥間に避難した人々もいた。与那では字民一緒だったが、米軍の侵攻により山中に避難してからはバラバラとなった。
 四月下旬頃になると食糧も乏しくなり、栄養失調や心身共に疲れはて、年寄りの中から亡くなる人が出てきた。避難する際に頼りにした馬も潰して食糧にせざるを得なかった。馬肉を持ち、山中の逃避行を続けたが、いちばん恐かったのは「トンボ」(米軍の偵察機)が飛来するときで、すぐに艦砲弾が飛んでくるので、とにかく一目散に逃げた。避難係の知念※※は、役所から鉄兜や背嚢はいのうを支給されていたため、兵隊と間違えられて与那で米兵に射殺された(四月十八日)。他にも米兵に射殺された者がいる。
 渡具知に帰れば食糧があるかもしれないと、山中を南へ向かう人々も多かった。夜は木の葉で夜露を防ぐだけの小屋を作り、雨になると岩陰へ隠れた。ありとあらゆる草木を食べ飢餓をしのいだが、子供たちはやせ細り、年寄りは歩けなくなった。たまりかねて白旗を掲げ投降する者が多くなっていった。

 字民が収容された主な収容所

 『村の歩み』(一九五七年、読谷村役所発行)の第二二表 読谷村民各地区分散居住状況調(一九四六年九月)仲本政公氏提供によると、渡具知の人々の各収容所ごとの分散状況は、石川(二六三人)、宜野座(八九人)、辺土名(四一人)、久志(三六人)、田井等(二二人)、漢那(一九人)、コザ(一六人)、前原(一五人)、中川(四人)の合計五〇五人である。

 字への復帰状況

 各地に収容されていた字民は昭和二十一年十一月、波平に一部帰村した。それと相前後して楚辺と大木に居住許可が下りたので、その後字民はこぞって各収容所から楚辺、大木地区に移転した。そして、同年渡具知区事務所を設置し(区長池原※※)、戦後の字行政がスタートした。間近に生まれ島を前にして帰郷を願う日々を送っていたところ、昭和二十六年五月居住許可が下り、六年余ぶりに渡具知に復帰した。二十七年九月には移動完了祝賀会を済ませ、喜び勇んで戦後の本格的な部落復興に励んでいるところへ、突然二十八年一月、米軍からの立ち退き命令が伝えられた。三月には立ち退き中止の請願書を提出するなどの運動をしたが、四月、米国民政府は布令第一○九号「土地収用令」を公布し、土地の強制接収を図った。やむなく、翌二十九年比謝後原へ移住した。

 その他

 渡具知から国防挺身隊として軍事工場等に行った男女の挺身隊がいた。大湾※※(昭和五年生)は、国民学校卒業と同時(昭和十九年)に挺身隊として神奈川県の川崎製鉄所で勤務し、昭和二十一年に沖縄に引き揚げ家族と再会した。
 女子挺身隊としては、饒波※※(大正十五年生)が昭和十六年頃滋賀県の軍需工場(飛行機製造)に勤務し、昭和二十一年引き揚げた。他に、東京の北品川重工業で飛行機の部品製造に携わった喜瀬※※(昭和二年生)等がいる。(宮城静雄)

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