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14 楚辺

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 概況

 字楚辺は読谷村のやや南に位置し、東北に北(読谷)飛行場、西は東シナ海に面した、総面積二七七平方キロの集落である。
 昭和十九年現在、本土や海外在住を含めて戸数三八五戸、人口二、〇七五人(男一、〇五六人、女一、〇一九人)であった。前掲人口の内、沖縄在住は一、九一二人であった。
 字楚辺全体での沖縄戦での犠牲者は軍人・軍属、一般住民合計で四四九人である。内訳は、軍人・軍属で男一三九人、女二人の合計一四一人が死亡した。一般住民では、対馬丸での遭難、クラガーでの「入水(じゅすい)自決」(八人)、恩納村安富祖での「集団自決」(一一人)等での死亡者を含めて、男一四二人、女一六六人の合計三〇八人が亡くなった。犠牲者を世帯でみると、一人以上の死亡者を出した世帯は二二八戸で全体の五九・二%を占めている(『字楚辺誌「戦争編」』参照)。

 戦時体制下の生活

 昭和十二年に始まった日中戦争(「支那事変」)は長期戦の泥沼にはまり込む状態になり、ついに昭和十六年十二月八日、太平洋戦争に突入した。
 以来、国策による「一億一心、火の玉だ」を合言葉に戦時体制が強化されるようになり、我が字からも多くの出征兵士を送り出した。現役で入隊する者、予備役での召集、防衛隊など五体満足な男性はほとんど召集された。
 楚辺では、赤紙召集も現役入隊と同じように、有志で送別会を催し激励した。出発の日は字のアシビナーに集まり、七御嶽を拝み、武運長久を祈願した。ウガンヒラー(拝所)では、字民が万歳と軍歌で見送った後、「祝入隊」「祝応召」の幟旗を先頭に区長をはじめ字役員、婦人会役員、親類、知人らが嘉手納駅まで見送った。約五キロの道程を長い行列が続き、軍歌が歌われるなか、日の丸の小旗が振られ、歓呼の声に送られて出征した。
 しかし、昭和十九年の十・十空襲後の出征は、親類縁者の見送りもなく、すべて秘密裏に家族だけで送るようになった。しかも家から出るのは、晩の九時以降という異常事態であった。

 千人針

 召集されていく兵士たちのために千人針が作られた。千人針とはその名のように千人の婦人(女性)が一針ずつ縫玉(ぬいだま)を作って、武運長久を願い、出征する兵士に贈るものである。
 出征兵士の家族は、マッチ軸で朱色の型を千個押した手拭いほどの木綿布を準備する。沖縄では、出征兵士の姉妹がおなり神ということで、千人針づくりの中心となって、女性たちが多く集まる場所へ行き、針に糸を五、六回巻き付け、その糸を抜き、結んで貰った。
 「虎は千里走って、千里還る」という諺から縁起がよいとされ、寅年生まれの人は年の数だけ結ぶことができた。針を抜いて縫玉を作ったことから、針目ほどの小さい穴からでも抜け出して生還してほしいという願いが込められたのである。
 男たちを戦場へ送り出す女性たちには、言い知れぬ不安があり、彼らが無事であるようにという女性の願いを一針一針に託して結んだ。その布には、死(四)線を越えるというので五銭玉を、また苦(九)戦を越えるというので一〇銭玉を縫いつけたり、女性の毛髪や真綿を入れたりした。千人針は腹巻きやチョッキで、一般的には腹巻きが多く「武運長久」の文字を入れたりした。

 婦人会の活動

 戦争に勝つためにという目的のなかで、婦人会長や役員の方々は大変な激務であった。「国防婦人会」の会員になり、白いエプロンに「大日本国防婦人会」のタスキを掛けていろいろな行事や訓練に参加した。
 字のほとんどの男性が出征し、学校を卒業したばかりの少年達も軍需工場に徴用されて、若者達は少なくなっていた。字内に残った者は銃後の守りに当たり、今までにない重労働にも堪えなければならなかった。特に婦人会役員は、出征兵士の見送りやその家庭への奉仕作業も行った。さらに、陣地構築等の作業をしている球部隊兵士のためのアマガシ作り、湯茶の接待をした。

 保護馬

 戦争で大役を果たす軍馬の予備馬として、農家で保護馬が飼育されるようになった。
 楚辺でもほとんどの農家が農耕用として馬を飼っていたが、そのうちの体格の良い馬は保護馬として登録を受けることになり、予備役兵同様に兵籍番号が付され、売買のときも役場に移籍届を出すよう義務づけられていた。有事に備えて楚辺ガニク浜や学校の運動場などで、頻繁に訓練が行われていた。
 字内には数頭の保護馬が登録されていて、軍から馬具や飼料などの支給を受けていた。昭和十八年には、楚辺ガニク浜で大がかりな調教訓練が行われ、県知事の早川元や軍の高官が多数臨席し査閲(さえつ)が行われた。その時は一般民も観覧を許可されたので、大勢の人垣ができたほどだった。当日楚辺婦人会は、名物の「スビポーポー」を作って一行を歓待した。

 物資配給

 戦況が緊迫するにつれて、非常時体制が敷かれ、物資も統制されるようになった。なかでも煙草は入荷量が少なく、たばこ屋の前には早朝から煙草を求める人の行列ができた。
 巻き煙草はばらにして、数本でも販売された。当字では主に刻み煙草が愛用されていた。その値段は、「なでしこ」四銭、「ききょう」五銭、「はぎ」七銭、「あやめ」一〇銭、「さつき」一二銭、「白梅」一五銭であった。
 その他に塩やマッチ、石油、石鹸も配給制となり、米と酒は通帳制、衣料品は切符制であった。
 以上の物資配給の実施については、まず村役場から物資配給の通達を受けると、字事務所では字内の世帯毎に作成された物資配給通帳に品名と数量を記入して字民に配布する。字民はその通帳を持って指定された売店で買う。また慶事や法事のある家庭では、役場に届け出て証明書をもらい、米や酒などの特配を受けることができた。

 供出と食糧事情

 昭和十八年から北飛行場建設が始められ、その周辺に日本軍が駐屯するようになった。建設労務者や兵隊たちの食糧を調達するために、農作物や豚肉の供出を強制された。
 この供出の割当については、各部隊から村長を通じて各字の区長へ通達され、価格もすべて軍部の決める通りで引き取られた。ちなみに楚辺で供出の対象となった農作物は甘藷、冬瓜、南瓜、大根、ゴボウ、インゲン豆などであった。当時の農家では、自給自足の時世であったが、このような供出制度により農家の食糧事情はいよいよ厳しくなった。何事においても「欲しがりません勝つまでは」と我慢することを強いられた時代であった。

 竹槍訓練

 「銃後の守り」を合言葉に、住民はひたすら勝利を信じて疑わなかった。皇民として「撃ちてし止まむ、進め一億火の玉となり、断固鬼畜米英に立ち向かうべし」と、滅私奉公の気運が高まるなかで、国土防衛のために竹槍訓練が実施されるようになった。
 村役場に各字の幹部を集めて竹槍の作り方講習と使い方の実地訓練が行われ、区長と警防団長が参加した。
 竹槍は直径約五センチ、竹の先端を斜めに切って鋭利にし、火に燻(いぶ)して堅くした。字での竹槍訓練は、各組で一〇人単位のグループをつくり、アシビナーのガジマルの木に芭蕉の幹を縄でしっかり結わえ、それを敵兵と見立て、気合いを入れて突き刺すのであった。

 北飛行場の建設

 昭和十八年の初期に、楚辺では東上原、中上原、西上原一帯に赤い旗がいくつか立てられていた。最初は字の役員や地主も旗の意味が全くわからなかったが、幾日か過ぎてから、人づてに飛行場建設の境界を示すものだと知った。
 当時の村役場吏員は「飛行場建設予定地の境界を示すための、旗立て作業をしている人たちの説明により飛行場建設が明らかになった」と語った。それに加えて作業の責任者は「読谷山に飛行場を建設すると軍の方から通達があった。飛行場に関することは軍の極秘事項である。どんなことがあっても口外してはいけない……、そのことはよく肝に銘じて面倒なことにならないようにして欲しい」と注意した。
 昭和十八年六月頃には、境界目印の赤い旗は最初の位置から再三移され、最終的には三六〇町歩(一〇八万坪)になるとのことだった。旗が立てられてから一週間後には、一部の家屋立ち退き予定者や地主等に説明がなされた。説明会とは名目だけで、二人の軍人によって、「この飛行場予定地は土質といい広さからいっても最適地である。先祖代々から受け継いだ土地であり、愛着もあろうが、我が国がこの戦争に勝利するための国法に基づいた計画であるから二言はない。こういう次第であるから諸君の土地を国家に捧げてもらいたい」と通達された。土地代に関する話は一言もなく、質問の時間もなかった。
 飛行場建設工事は国場組が請け負い、村内の荷馬車は輸送組合として組織されて飛行場建設に動員された。村内の荷馬車台数は約三〇〇台、村外から徴用で来た約一〇〇台と合わせて約四〇〇台の荷馬車が第一工区で働いていた。一台一回の運搬賃が二五銭から三〇銭で、すべての荷馬車が受け取りで、工事は急を要していた。また村外から徴用されてきた人夫の宿は村内の民家等に割り振られた。こうした徴用人夫は最盛期には七〇〇〇人を越え、時給は五〇銭ほどであった。
 建設工事は滑走路工事から始まった。まず石を敷き並べ、その上に石粉(イシグー)を敷き固めて仕上げたが、これらの資材の運搬は主に荷馬車であり、また滑走路用の石材採掘や地均しなどの作業については、ほとんど人夫の労働によって行われた。このようにして北飛行場は建設されたのである。

 日本軍の駐留

 昭和十八年十月頃、軍服姿の立花※※陸軍中尉が楚辺字事務所に来所し区長と面談した。その時「北飛行場守備のために、球一二五二六機関砲部隊が陣地を構築する。そのために大勢の兵隊が来るので、字内の大きい民家を拝借したい」との申し入れがあった。
 区長は直ちに申し入れを承諾し、早速立花中尉と共に字内の瓦葺きの大きい家を訪ねて了解を得た。その戸数は五〇軒余に及んだ。その二週間後には赤犬子御嶽附近に球一二五二六機関砲部隊、間もなくウガンヒラー(東原)に球一二四二五高射砲部隊が、それぞれ陣地を構築するに及んで字内の民家には大勢の兵隊が駐留するようになり、いよいよ戦時一色の情勢になっていった。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日の早朝、突然もの凄い爆発音が北飛行場の方面から響いてきたが、当初住民は演習だと思い、屋根の上などにのぼって見ていた。すると黒い不気味な戦闘機が頭上をかすめて飛び去っていった。それから数分すると今度は数機編隊で何度も旋回を繰り返しながら飛行場を爆撃していたので、そのすさまじい状況から米軍機による空襲であることがわかった。字民はいきなりの敵機来襲に驚き、右往左往、着の身着のままで最寄りの防空壕へ駆け込み、身をふるわせながら一日中息をころして避難していた。その日の空襲で飛行場では二人の字民が犠牲となった。また字内にも焼夷弾が投下されて、二軒の民家が全焼した。こうしたことから字内は騒然となり、一挙に大きな不安に陥ってしまった。

 本土疎開

 昭和十九年七月、サイパンが「玉砕」してからは、沖縄県でも宮崎、熊本、大分などへの本土疎開を実施するようになった。楚辺からも、沖縄戦での戦火を免れるため一〇七人(男四五人、女六二人)が本土疎開したが、無事に着いたのは宮崎県へ四七人(男一九人、女二八人)、熊本県へ五人(男四人、女一人)の合計五二人である。
 読谷山村出身者七四人も乗った対馬丸は、昭和十九年八月二十二日、午後十時十二分、鹿児島県悪石島沖で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受け沈没した。楚辺からは、児童一四人(男七人、女七人)、一般住民四一人(男一五人、女二六人)の合計五五人が死亡した。また、対馬丸遭難から生還した字民はわずかに五人である。

 住民の県内避難状況

 昭和二十年一月から、あの黒い艦載機が再び沖縄に襲いかかって来たので、落ち着いて野良仕事に従事することができなくなっていった。三月一日には大空襲があり、その後は頻繁に空襲されるようになり、住民はクラガーやウカーに避難し、家と避難場所を往き来する日が続くようになった。
 戦況はますます悪化するばかりで、混沌とするなかで現地召集が行われ、また十七歳から四十五歳までの男子のほとんどが防衛召集されたので、残る住民は戦火を避けるために、疎開や避難について一層真剣に取り組むようになった。
 楚辺の避難指定先は国頭村奥間であった。三月上旬からは国頭へ避難する字民が増えたが、字では当初数台の荷馬車を配置して字民の避難援助に当たらせていた。住民のなかには、友軍の勝利を信じて避難しない人もいるし、三月下旬になっても老人や婦女子だけの世帯などのかなり多数の住民がクラガーやウカーに残っていた。
 いよいよ三月二十五日になって、球一二五二六機関砲部隊の村上少佐から全字民に対して避難命令が出された。それでも避難を決断できず居残る住民もいたが、区長と駐在巡査は字民の安全を守る立場から、遂に強制避難を言い渡した。
 字民の多くは乳幼児を抱え、老人を伴っての緊急避難であったので、そう遠くへ避難することができない家族もあった。そうした人々は字喜名の東の山やクボウ山、北谷村の久得、美里村の楚南・山城、恩納村の前兼久方面などへ避難した。歩ける者、荷馬車のある家族は約三晩を要してやっとの思いで、国頭村奥間へたどり着くことができた。米軍上陸前夜、最後の任務を果たした上地※※区長は、自らも避難するために、大急ぎで荷馬車を準備し不安と恐怖感に堪えながら楚辺を後にした。
 避難民を受け入れるために、奥間の小川沿いには草葺きの避難小屋が約二〇メートル間隔で建てられており、一棟に二家族が居住するようになっていた。当初は食糧の配給もあったが、避難民の数が多くなるにつれて、その食糧もだんだん乏しくなり、所持金のある間は農家で米や芋、味噌、塩などの購入もできたが、やがて大事な衣類や貴重品などすべてが食糧に変わってしまった。
 いつしかこの静かな山村にも米軍機が飛来するようになり、米兵が出没し、砲撃が加えられるようになってきた。身の危険を感じた住民は歩けない乳飲み子や老人を背負い、子供たちの手を引いて、山中をさまよいながら転々と避難場所を変えていった。降りしきる雨の中を辺土名や半地、比地へ行く者、また大湿帯、有銘方面へ避難する者もいた。途中歩くことができず道端に置き去りにされた老人たちが、そばを通る人に水をせがみ、まとわりついてくる哀れな姿が随所に見られた。
 避難民のほとんどが国頭村の山奥に集中したので、農作物もたちまち食べ尽くされ、長い道のりを歩いて食糧を探しに駆けずり回ったが見つからず、腹をすかせて待っている家族の元へその日の内には帰れないこともあった。背に腹はかえられないので、せっかく引いてきた馬を潰し、その肉も食料とした。また蛙、バッタ、川えび、芋蔓、蘇鉄、田草、ふき、樹木の新芽、木の実など、食べられる物は何でも口にし、塩の代わりに海水を使って食事を作り飢えを凌いだが、栄養失調になる人が増え、乳飲み子は母乳の欠乏から死亡する者も増えてきた。日が経過するにつれ餓死する者、マラリアで倒れる者が続出したが、それでも死の彷徨(ほうこう)はさらに続けられた。当初は、民家や畜舎に身を寄せ雨露を凌いだが、山中の避難行では行く当てもないまま、人々は豪雨の中、放心状態で歩き続けた。蚊や虱(シラミ)に悩まされ、中にはハブに咬まれる者まで出る始末で、このような惨憺(さんたん)たる状態に涙さえ出なかった。「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」と考えるようになり、人々は疲れ果てた体に鞭打ち、山を下り次第に南下しながらとぼとぼ歩き続けた。そして、ついに投降する者が増えていった。

 「集団死」事件

 一般住民が集団で犠牲となったのは、前述の対馬丸遭難事件の他に次のようなことがあった。

 クラガーでの「入水自決」

 四月一日朝に上陸した米軍はすぐに、楚辺住民の避難指定壕のクラガーの上まで侵攻し、そこに避難していた人々を恐怖のどん底に陥れた。米兵の「デテコイ デテコイ」という呼びかけに応じて、一部の人たちは壕を出たが、殺されると思いこんで、壕から出ることができず再び壕の奥に戻った人々もいた。壕内で息をひそめて恐怖に脅えていた避難民は窮地に追い込まれ、「アメリカーに殺されるよりは、自分たちで……」と八人が湧水池に入水し、死亡した。

 恩納村安富祖での手榴弾による「集団自決」

 昭和二十年二月頃、屋号真末喜名口小、松田新屋、東喜名口の三家族は、恩納村安富祖の瀬良垣屋(シラカチヤー)という所に一緒に避難していた。一か月ほど経った頃、その内の東喜名口のおばあが病気で重体という連絡がきて、東喜名口の家族は楚辺に戻った。その後、松田新屋の長男が防衛隊から家族面会にやってきた。彼は手榴弾を持っていた。米軍上陸後、壕内で米軍の銃撃を受け、危機感をもっていた二家族(真末喜名口小と松田新屋)は、四月六日松田新屋の長男を水汲みに行かせた後、手榴弾で「自決」してしまった。そこには、他に那覇市泊出身のある家族も一緒にいたという。

 他に、美里村山城ユナタ山の壕で、米兵の機関銃攻撃により四人が一度に死亡した。さらに、金武の寺の壕に避難していた人たちは「どうせ死ぬなら自分のシマで」と壕を出て読谷に向かった。伊芸辺りにさしかかったとき、気分が悪くなって休んでいたあるおばあが立ち上がったとたんに、ハガマの蓋を落としてしまった。その音に気付いた近くにいた米兵の銃撃で数人が一挙に犠牲になる事件が起こった。また、村内では伊良皆の壕内に避難中、米兵の銃撃で四人、喜名の壕でも二人が死亡した。

 収容所時代

楚辺臨時収容所での親子(1945年4月4日)
 昭和二十年四月一日未明から、沖縄本島に艦砲射撃を浴びせながら、数個師団の部隊が読谷山村の西海岸や北谷村の海岸から上陸してきた。その直後に、楚辺に居た人々は早くも米軍に捕らえられ収容された者も多かった。上陸当初、楚辺にも仮収容所が米軍によって設置され、多数の難民が収容されていた。早い時期に米軍に収容された人々は、飢えとマラリアの被害から免れることができた。
 難民の収容所は全島各地に設置された。その代表的なものに田井等収容所、惣慶(スーキ)収容所、漢那収容所、中川収容所、石川収容所、越来収容所、嘉間良収容所、金武湾収容所、百名収容所などがあった。
 楚辺から国頭へ避難した字民は、田井等、惣慶、漢那、中川、石川などの収容所にそれぞれ収容されることになったが、大多数は石川収容所に収容されていた。
 戦災実態調査票から楚辺の人々が最初に捕らわれた場所をみると、北部では国頭二三戸、大宜味一戸、東一戸、金武二一戸、久志一八戸、名護六戸、羽地五戸となっている。近隣では恩納四一戸、美里一三戸、具志川一戸、北谷一戸、中城一戸である。村内では楚辺で二〇戸、他字で四三戸の合計で六三戸となり、全体の三二・三%を占めてその割合が高くなっている。これは避難命令は出されたものの、自分のシマを捨てることができずに、村内に留まった人たちが多かったことを示している。

 戦後の部落

水をあげようとする米兵と恐ろしさで顔を上げることができない住民(1945年4月1日撮影)
 楚辺人(スビンチュ)は戦後の昭和二十一年十二月、読谷村の復帰移動計画に基づき、字波平に次々帰村した。間もなく楚辺地域が開放されたので、戦火をくぐり抜けた字民が、昭和二十二年四月、字を離れること二か年にして、懐かしい生まれ島に帰ることができた。
 しかし、帰ってみると元の住家は一棟も残っていなかった。屋敷林も石垣も井戸もため池も、道路も大方が潰されていた。由緒ある暗川(クラガー)も砂利で埋められ、さらにかつての広大な農耕地には米軍の物資集積所やエンジニア部隊があって、見る影もなくなっていた。
 人々はこの焦土と化した生まれ島を見て一時呆然となったが、戦火をくぐり抜けてきたあの僥倖(ぎょうこう)を思い、たくましく生きる勇気を奮い起こし、新しい島建てに取り組んだ。
 戦さ世んしまち みるく世んやがて
 嘆くなよしんか 命どぅ宝
と詠まれた琉歌が歌われた。それから翌昭和二十三年には、元の敷地にトタン葺きの字事務所を建築し、区長他役員を選任して字行政を復活させた。

 立ち退き移動と新部落の建設

 戦争のため焦土と化した現状を見て一時落胆した字民も、自分の部落に帰ったことを喜びとして、「戦災復興」のスローガンのもとたくましく働き続ける中に三か年の歳月が過ぎた。見渡す限りのススキも刈り取られ、荒れ地も開墾され、農業収入も増えて生活も向上しつつあった。青年会では「倶楽部」を建設して活発な運営をめざそうと建築中だった。そこへ昭和二十六年五月十七日、米国民政府土地係官後藤※※により立退命令の通達がもたらされた。
 この通報を受けた字民は一瞬のうちに動揺混乱した。その後頻繁に集会がもたれた。かろうじて戦争でも生き残り新たな生活を始めた矢先、祖先伝来のこの土地を立ち退くことは人間最大の不幸を招くことになるとの結論を得て、立ち退きに応じないことを決め、口頭や文書により何回となく陳情を続けた。しかしながら何等の朗報もなく、軍側ではいよいよ強制測量を実施し、十二月からは字の東側で工事が着工されたので、これ以上の抵抗は無駄だと考え、米軍側が提示した移動条件の検討に取りかかることになった。
 昭和二十七年一月、字では移動対策委員会を設け、総務部、土地調査部、住宅調査部、飲料水・光熱調査部、農作物調査部、人口調査部、食糧調査部の七部を設けて、専門的に検討して実施計画を作ることにした。
 軍側からは、
(一)移動費として一戸当たり一万円(八三ドル)前払いする。
(二)輸送面は軍が斡旋する。
(三)移動地に水道を敷設する。
(四)米軍が使わないところは耕作させる。
という提案が示されたので、字民は仕方なくこれを受け入れ、吉川原、溝端原一帯を移動地に決定した。そして土地調査部によって測量が行われ、一戸につき一〇〇坪を目処に区分けし、抽選で各自の宅地を決めた。こうして宅地の造成、家屋の建設が始まり、二月二十三日から移動を開始した。
 移動実施にあたっては、対策委員会の計画に基づく共同作業によって順序よく行われ、輸送面はすべて民政府土地係官の采配で沖縄運送株式会社が担当し、同年五月二十八日までの三か月余で新しい部落への移動を完了した。
 その後新しい集落での字民活動も落ち着き、字出身戦没者の霊を字で祀ろうと慰霊塔建立の話が起こり、字民の協力で昭和三十五年十一月十五日にユーバンタの上に「慰霊之塔」を完成させた。(池原昌徳)

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