読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

13 長浜

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 概況

 字長浜は、村内の北に位置し、長浜川で恩納村に隣接している。石灰岩丘陵に囲まれた窪地に集落があり、北は東支那海に面している。冬は海からの北風をまともにうけるので寒いが、夏はヤラジャー毛から吹く風が涼しい。長浜地内の大部分を占める台地地域には広大な農地を持っており、山、海、川等の自然の恵み豊かな地である。
 沖縄戦の頃の人口ははっきりしないが次の資料から推計することができる。沖縄戦までの長浜出身の戦死者を「平和の礎」刻銘者名簿から見ると、一般住民が一二四人、軍人軍属一〇五人、戦闘参加者二四人、不明六人で合計二五九人となっている。また、一九四六年九月現在の読谷村民各地区分散居住状況調(『村の歩み』)では、石川七九一人、中川五三人等、合計九〇八人となっている。生存者全員が調査地域に居住していたとはいえないし、また調査時点後に栄養失調などで死亡した人も「平和の礎」には刻まれていることも考えられるが、概ね合計すると一一六七人となる。この人口数は大正十年の「沖縄県中頭郡読谷山註記調書」の字長浜の人口一〇三九人に近い数値である。後述のように戦前、フィリピンに渡った人々が六〇人余おり、沖縄戦前の長浜の人口は概ね一一〇〇名程度であったと思われる。世帯数は、援護関係資料より作成したものによると、昭和十九年で一九七戸であった。

 出稼ぎ及び移民

 戦前の長浜ではフィリピンや南洋諸島への出稼ぎや移民が多かった。フィリピンでは、マニラ麻の栽培に従事した人々が多く、パラオ、サイパン、テニアンなどではサトウキビや芋を栽培していた。中には街に出て商いをする人もいた。
 フィリピンでは昭和七年二月十一日に、「在比字長濱親善同志會」が組織され、六〇名余の会員がいた。この会は、フィリピンにおける字長浜出身者の相互扶助的な組織であったが、その同志會會務録には「昭和十四年二月二十五日我が同志會より當字出征軍人慰問武運長久祈願の為め金弐拾参比(ペソ)也字に送りました。其の結果字民一同より去る正月拾五日に至りお礼感謝状来ました。其の有様は出征軍人に祈願旗壱枚宛渡されて居ます」(第九回記)と記され、フィリピンからの寄付で出征兵士の旗(幟)が作られ、贈られていたことがわかる。

 県外疎開

 出稼ぎや移民の多さとは逆に、県外疎開はほとんどいなかった。県外へ疎開するようにという村からの指導はあったが、仮に沖縄が戦場になったとしても、死ぬなら生まれ育った沖縄でというのが、その主な理由であった。また、家屋財産を捨てて疎開するに忍びなかったというのも理由の一つであった。

 戦時体制下の生活

 日中戦争が始まり戦争が拡大していくなか、昭和十五年あたりからは、タバコも小売り店への割当が制限され、購入希望者は暗いうちから並んで買っていた。
 昭和十七年になり衣類も切符制になったが、それ以前は那覇の問屋から原料(木綿糸)を仕入れて自宅で織っていた。昭和十八年頃からは統制経済がさらに厳しくなり、木綿糸も漁業者へ網作り用として漁協組合等へ特別配給されるようになった。一般には手に入りにくかったが、漁業組合に加入しているところでは、木綿糸を密かに着物の布地に織り変えている家もあった。発覚すると大変だが、庶民の知恵がそこにはあった。
 同じ頃から、青年団が中心になって、防空ずきんとモンペ姿になり、ムラヤー(字事務所)前で防火訓練(バケツリレー)、竹槍訓練等を行った。防空訓練の際には、長浜では「訓練空襲警報」の発令や解除の合図として、前述の在比字長濱親善同志會から昭和十二年頃に贈られたサイレンを用いて通報していた。
 男子の多くが徴兵や徴用で字内から少なくなっていくと、女子青年が中心になって、出征兵士の家のキビの植え付けなどの奉仕作業を行った。
 また、大本営発表で漢口陥落が伝えられたときには、字民総出で提灯行列をして祝うなど、耐乏生活のなかでも日本の勝利を信じる日々であった。

 日本軍の駐屯

  長浜集落内には日本軍の施設がほとんどなかったため、あまり兵隊を見かけなかった。また民家にもほとんど日本軍の駐屯はなかった。しかし、集落南の台地には、ダイナマイトで岩を爆破してから作った高射砲陣地があった。それは、アカムヤーに駐屯していた山部隊が構築したものであった。山部隊には北海道出身の兵隊が多かった。彼らの任務は、こうした高射砲等の陣地作りや壕掘りなどが主なものだったので、建設中には、食糧をもらいに民家にやって来る兵隊を見かけるぐらいであった。

 徴用

 長浜からも北(読谷)飛行場の設営のため、たくさんの人が徴用された。最初は賃金をもらっていたが、後からは賃金は支払われなかった。字民は何班かに分けられ、二週間ぐらいで交替した。北飛行場以外では伊江島飛行場や八重山飛行場の設営にも徴用された。八重山徴用では三か月の期間を終え、帰る途中「十・十空襲」に遭遇し、船ごと撃沈され長浜出身者四人が死亡した。亡くなったのは、山内※※(大正二年一月二十日生)、津波※※(明治三十七年一月十日生)、新垣※※(大正六年三月十日生)、津波※※(大正二年七月十日生)である。また本土の紡績工場に出稼ぎに行き、そこから徴用された人もいる。

 供出

 日本軍への供出の割当は村から字を通して行われた。芋・もやしなどの他、長浜は田んぼがあったので米も供出した。その他には豚や料理用の鍋なども供出した。供出物は国防婦人会の幹部が部隊に届けていた。国防婦人会では供出の他にも食べ物をもって行くなど、日本軍の慰問にも努めた。

 日本軍と字民との関わり

 日本軍の駐屯はほとんどなかったので、日本兵との関わりはあまりなかった。たまにお腹をすかせた兵隊がやってきて食べ物を求めたので、自分の夫や息子、あるいは孫がどこかで世話になっているかも知れないと思い、字民は親切に対応していた。

 十・十空襲

 演習と思っていたが、飛行場が激しく攻撃されたので、空襲だとわかった。カンジャーヤーガマとウフガマに字中の人が避難した。この空襲で屋号諸見里の家が全焼した。

 出征兵士

 サーターヤー毛の所でバンザイして見送った。青年団員などは、嘉手納の駅まで歩いて見送り、家族は那覇まで行った。最初の頃は字民総出で華やかに見送りしていたが、だんだん質素になっていった。

 防衛隊・学徒隊

 防衛隊は十七歳〜四十四、五歳まで(昭和三年生から明治三十四年生くらい)の人が召集され、亡くなった人が多い。学徒隊・従軍看護婦などはいない。

 字民が避難した主な壕・ガマ

カンジャーヤーガマ入口、壕内は左右に空間があり、右側が広い
 上陸前の空襲の時はウフガマとカンジャーヤーガマに避難した。国頭方面に行った人よりも長浜に残った人が多かった。ウフガマに避難した人は全員助かったが、カンジャーヤーガマではなかなか投降せずにガス弾を投げ込まれて亡くなった人がいる。
 概況調査に参加した仲村渠※※らの証言によると
 「上陸の日(四月一日)ガマの前で米兵が『カマーン、カマーン、デテコイ、コロサナイ、デテコイ』と言っているのを『カマー』と名前を呼んでいると思った。とても恐かったが、ウフンミのおじいさんを先頭にして出ていった。ウフンミのおじいさんは『ワンカラ インジラヒー ワランチャー』と言って出た。続いて出てみると鉄砲を担いだ米兵達が前からも後ろからもついて来て、屋号長門の家に集められた。波平・上地・都屋・宇加地の人達もいた。翌朝からは毎朝点呼があった。長浜には米軍のMPがたくさんいて、その中には日本語が上手な将校もいた。その将校が『僕ハ海軍ノ将校デス。食ベ物アル。着物アル。心配スルナ。家ガアル人ハ銘々ノ家ニ帰リナサイ』と言って、人数を確認すると家に帰してくれた。米兵はとても親切にしてくれた。食べ物や水などをくれたが、毒が入っていると思って、最初は誰も食べなかった。米兵が食べてみせたので、それからはみんな食べるようになった。
 ガマの中では、着衣にシラミやノミが異常発生し大変だった。二つのガマから収容された人達は、喜名や座喜味の日本軍の壕に食糧などを取りに行った。その壕には食糧がたくさん残っており、食べ物には困らなかったが、その近くには日本兵や住民の死体などがたくさんあった」という(仲村渠※※以外の概況調査の参加者は、新崎※※=※※、山内※※=※※、当真※※=※※、我如古※※=※※、津波※※=※※)。

 字民が避難した主な避難先・避難経路等

 長浜の避難指定地は国頭村伊地だったが、恩納村の仲泊に行った人もいた。馬車をもっている人は、家財道具や食糧をたくさん積んでいくことができた。早い人は二月頃避難し、しばらくは伊地の部落にいたが、米軍が上陸したという情報で山奥へ避難した。米軍が読谷から上陸したということを聞き、読谷に残っている家族や親戚はみんな殺されたと思っていた。ところが読谷に残り、米軍上陸後すぐに収容された人達は保護され、食糧に困ることもなかった。それに比べると国頭に行った人達は、食糧にも困り、栄養失調やマラリアにかかり苦しんだ。食べるものはツハブキ、ヒゴ、ショウロクサギ(クサジナ)の若葉を海水で味付けして食べたが、だんだん食べる物がなくなると、持っていた着物を地元の人に芋や芋くずと交換してもらい食料にした。古里に戻ろうと国頭方面から読谷に向かう途中で砲弾や銃弾を受けて亡くなった人もいた。

 字民が収容された主な収容所

 長浜で保護された人々は、長浜に一〇日から二〇日ほど居た。その間は麦刈や田植え等もした。その後米軍のトラック(GMC)で石川や金武に移された。トラックごとに行き先が違っていたようで、別々のトラックに乗ったために家族がバラバラになることもあった。ほとんどの人は石川に収容され、食べ物もたくさんあった。金武に収容された人は一か月ほどで漢那や中川あたりに移動になった。若い男の人はコザ(キャンプコザ、嘉間良)に収容された。それぞれの収容所に約二年ほど居た。
 『村の歩み』(一九五七年、読谷村役所発行)の第二二表 読谷村民各地区分散居住状況調(一九四六年九月)仲本政公氏提供によると、長浜の人たちの分散状況は、石川(七九一人)、中川(五三人)、漢那(三八人)、コザ(一一人)、久志(五人)、田井等(四人)、辺土名(三人)、前原(三人)の合計九〇八人である。

 部落への帰還状況

 終戦直後長浜部落には米軍が駐屯し、アスファルト工場も造られていた。米軍の空襲で破壊された家もあったが、ほとんどの家は残っていた。字民が石川などに移されて後、戦火を免れた家も工場建設のため取り壊された。最後まで残っていた家は、前仲門(メーナカジョー)、新屋樽我如古(ミーヤータルーガニク)であった。そうしたことから、字内への帰住はできず、高志保地内のアカムヤーやそこに近い(長浜の)大石原に規格住宅を造り、一軒に二世帯が同居していた。壁はドラム缶を切り開いたものを利用していた。ドラム缶はガソリンが入って野積みにされていたが、夜にガソリンを抜き、朝早く取りに行った。そこでの生活が三、四年続いた。
 一九四九年十一月に提出された「長浜居住許可請願書」によると、字民は高志保区に七八戸(三四〇人)高志保後原及び東原に一四八戸(六八二人)石川市に三〇戸(九六人)と散在していた。
 長浜集落は、一九四六年八月六日付の公文第三一八号で居住許可地域であったにもかかわらず、米八二二部隊がアスファルト製造のために駐屯していたため帰住することができなかった。
 一九四九年四月に至り、同部隊がアスファルト工場を撤去したので、前記の請願書を提出し、移動許可を願った。
 この請願書を受けて、翌一九五〇年三月十五日、長浜集落への移住許可がおり、青年会が中心となって字民の茅葺き住家をイーマールー(茅を持ち寄り、労力を提供しあうこと)で作った。そして一九五一年に移動完了祝い(「移動スージ」と言った)を催した。当時の区長は知花※※で、事務所前に「カバ」(テント布地)を張って字民総出で盛大な祝いを行った。

 慰霊の塔

 慰霊の塔(真砂之塔)は、昭和三十四年に青年会が中心になって、字民から寄付を募って建立した。当時の区長は長浜※※、書記は津波※※、青年会長は与久田※※、同副会長は当山※※であった。当時は各字とも「新生沖縄」の建設をめざしていろんな面で青年会が活躍していた時代であった。

 その他

 津波※※の話によると
 「米軍上陸後、屋号森当真(ムイトーマ)に特攻機(鹿屋から飛んできた『隼』)が墜落した。搭乗員はソンダという兵士だった。同じく鹿屋から北飛行場に向け飛んできた飛行機が海上で撃ち落とされたが、一人が助かりビル橋(現恩納村字美留)から上陸した。軍服を着替えさせ匿うことにした。その兵士にソンダという人の話をすると知っていた。先に突撃したという。それから石川に収容され作業にも出るようになっていたが、日本兵であることがわかり、連れて行かれた」という(この兵士の体験記は、下巻に所収)。(新垣昇)

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