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12 瀬名波

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 概況

 字瀬名波は、村の北側に位置し、長浜部落に隣接している。部落は残波岬の付け根部分の台地に立地し、北側は長い海岸線になっている。沖縄戦当時、当部落を通って本島北部方面へ避難する人々もいた。
 戦前は戸数一〇〇戸余の部落で、ほとんどが農家であった。沖縄戦当時は、鏡地原(カガンジバル)の金城(カナグスク)に日本軍の陣地が構築されていた。また、終戦直後は、瀬名波ウガンに米軍の部隊が駐屯していた。一九五七年、日本軍の陣地の跡に米軍のナイキ基地が構築され、一九七〇年頃までは実弾射撃演習も頻繁に行われた。現在も一九四九年に建設された米軍の通信施設(瀬名波通信施設)があって、農地のほとんどはその施設区域内にある。

 日本軍の駐屯

 昭和十九年頃、渡慶次国民学校(現在の小学校)に兵隊が駐屯した。学校から現在の亀前堂(カミーメードー)の家あたり(戦前は畑だった)まで、テントを張って兵隊がいた。学校に兵隊が駐屯したので、勉強の場を失った児童たちは、各字の事務所や部落内の広場に追いやられた。当時の児童たちは、防空訓練・消火訓練や対戦車壕掘りなどの作業が主で、ほとんど勉強はしなかった。
 また、前述の鏡地原の金城に駐屯していた日本軍は山部隊で、高射砲陣地を構築していた。その部隊には、大阪や北海道出身の兵隊が多かった。北海道産の軍馬もたくさん持って来ていた。その馬は、沖縄産の馬よりはるかに大きかった。陣地構築のため、松やその他の木も軍が使用し、字民が勝手に切ることはできなくなった。
 西屋良(イリヤラ)の一番座に金城陣地の北林という将校が寝泊まりしていて、馬で送迎されていた。前ヌ屋良(メーヌヤラ)のアサギに気象関係を調査する兵隊が数名おり、軍用の自動車なども出入りしていた。班長は、小野※※という人で、他に山田・柿崎などの兵隊がいて、干潮時における長浜海の浜口の調査などをしていた。加那儀保(カナージーブ)は、軍の倉庫として使用されていたため、兵隊の出入りが多かった。上陸前の空襲の際、加那儀保の家屋は、爆弾が落ち焼失した。
 本字に駐屯していた日本軍は、米軍上陸以前には、全部南部の方に移動していた。

 日本軍と字民との関わり

 昭和十九年頃から、瀬名波一帯に山部隊をはじめ多くの兵隊が駐屯していた。北海道出身の兵隊が多く、その人達はおとなしくて、字民に防空壕の掘り方なども教えてくれた。青年会員や地域の人達と一緒になって語り合うこともあった。
 腹をすかした兵隊達は民家に来て食べ物を貰っていた。その現場を上官に見つかるとなぐられるので、字民はこっそりあげていた。兵隊はお返しにマッチなどを持って来た。
 女子青年や婦人会員は、兵隊さんに栄養をつけてもらおうと豆腐や芋などを持って慰問した。自分達は食べなくても兵隊にあげて、戦争に勝ってもらいたいというのが当時の字民の願いであった。金城(カナグスク)の部隊から餅をつくってくれとの依頼があって、つくってあげたこともある。
 軍隊が駐屯したために、部落民との間にトラブルが起こることもあった。当時、兵隊が夜遅くまで大声を出して部落内で遊んでいたので、「安眠できないからやめてくれ」と注意したところ、兵隊は激怒して「誰が沖縄を守っているか」と言って民家の庭のみかんの木を切り倒したことがあった。
 また、次の様なこともあった。部落内のある女子青年が、ハンマーを使って壕掘りをしている時、兵隊がそのハンマーを貸してくれと言った。「使っているので貸すことはできません」と言うと「何を言うか、小娘。つべこべ言わずによこせ」といきり立ったが、断って家に逃げ帰った。その日本兵は、刀を抜いて追いかけてきた。その状況を知らないおじいさんは、自分の娘を殺そうとしている兵隊に、「お茶でもどうぞ」と言ったので、その兵隊は益々激怒した。その時隣の叔父さんが帰ってきた。「ヌーガウヌ兵隊ヤヌーソーガ」と聞かれたので、状況を説明したら、「私の姪を殺すと言っているそうだが、どうして部落民に乱暴するか」と厳しく抗議すると、その兵隊は詫びて帰っていった。隣の叔父さんは、元騎兵隊で軍馬の検査係のような仕事をした威厳のある人であったので、大事には至らなかった。

 字民が避難した主な壕・ガマなど

 昭和十八、九年頃から、米軍の空襲に備えて、各家庭で、庭や岩陰などに防空壕を掘っていた。ところが昭和十九年の十・十空襲の頃から、各個人の防空壕では空襲に耐えることが出来ないことがわかると、各号(今の班)で自然のガマに手を加えて、共同の壕を掘った。そして、空襲や艦砲射撃の時はその壕に避難した。
 その共同の壕を次にあげる。

タカシの壕 瀬名波後原の長浜屋の北、平次前堂(ヘイジメードー)の後ろの所にある自然のガマで、それまではあまり知られてなかったが、入り口をあけて避難壕として利用した。

イリムティの壕 瀬名波原の西前堂の近くにあり、人がやっと立って歩くことが出来る程の自然のガマを更に深く掘った壕であった。主に四号(今の四班)の人達が入った。

イェーヌガマ入口(西側)、写真左手奥に進むと海に面した入口もある
瀬名波ガーのガマ 瀬名波ガーには二つの壕があった。その一つはイェーヌガマといって、自然のガマを利用したもので主に上川平(イーカービラ)の人達が利用していた。その他渡慶次・宇座など隣部落の人達も入っていた。もう一つは、瀬名波ガーの手前にあったもので、魚類の骨や貝殻を捨てていた自然のガマ(「アバシヌンジ」と呼んでいた)を掘り返してつくった壕である。その壕は下川平(シチャカービラ)の人達とその親戚の人達が入っていた。その壕の真上に爆弾が落ちたが大丈夫で、中に入っていた人達は命拾いした。そこは現在米人住宅が建っている。
 その他、瀬名波の海岸線沿いには多くの自然壕があり、字民や他の部落の人々も利用していた。

 字民の主な避難先・避難経路

 沖縄戦が近づくと、軍の命令で字民は国頭に疎開するようになった。瀬名波の避難指定地は国頭村の与那部落であった。指定地の与那部落まで疎開した人達は数日かかってたどり着いた。与那部落では、部落の人々が避難小屋を準備してあったので助かった。
 疎開命令が出た最初の頃は、疎開する人は少なかったが、空襲が激しくなり、艦砲射撃が始まると、国頭に避難する人が激増した。空襲の終わる夕方になると、馬車に食糧をはじめ多くの物資を積み込んで山原へ山原へと大勢の人が移動していった。
 山原に避難した人達は、手持ちの食糧が少なくなると、連れていった馬を次々に潰して食べたが、それでも食糧が不足して困った。そこで、桑の葉・クサギナサシクサ・ヘゴの芯・ソテツの幹や実などを食べて生き延びた。
 避難中、栄養失調・マラリアなどの病気で死亡した人も多く、また、艦砲弾の破片や銃弾などによる犠牲者も何人か出た。山原の山中では、家族全員で逃げ隠れすることが出来なくなり、お年寄りや病人には後で迎えに来るからと言って、家族がバラバラの行動を取らざるを得なくなった状況にまで追い込まれた。読谷から山原に移動する人、逆に山原から読谷の方へ移動する人もいた。このように情報が入り乱れて、混乱した状況が起こった。
 子供の多い家族、身体障害者のいる家庭などは避難することができず、瀬名波や川平のガマに隠れていた。

 字民が収容された主な収容所

 地元に残った人達は四月の初めに保護され、そのまま瀬名波と川平に収容された。別に米軍の指示もなく、各自の家で暮らすことができた。その間、食糧不足や生命の危険もあまりなかった。食糧は各家庭のものと、字内の豚や山羊などを潰して食べた。また時には米兵が車からお菓子や缶詰の入ったケースを投げ与えた。
 瀬名波に留まっていた人達は、一か月ほどしてから、金武の収容所に移され、さらに漢那収容所へと移された。川平に留まっていた人達は石川の収容所に移された。
 山原に避難した人達は、いろいろなケースがあった。山の中で保護され、羽地・田井等・漢那・中川等に収容された。収容先では、食糧が少なく困った。

 字の特徴的なできごと

 戦争中の住民への軍の指導は、竹槍でも米兵を殺すことができるので、場合によっては住民でも竹槍を持って戦えとのことであった。そこで瀬名波ガーの壕では米兵が上陸して来たら抵抗するつもりで、壕の入り口にイジュン(タコや魚をとる銛(モリ))を数本準備してあった。幸いに米軍はそこに来なかったので命拾いをした。
 昭和十九年頃、川平で日本軍の射撃演習があった。川平から長浜口に向けての大砲の発射演習で、危険だということで川平の人は瀬名波に避難させられたが、発射した実弾はたったの三発であった。今考えると物資も少なく貧弱な演習であった。
 十・十空襲後、B29の偵察やその他、空襲が頻繁にあったので、年寄りは壕まで走るのが大変だということで、二、三日壕で寝泊まりしていた。すると巡査が来て「なぜ空襲でもないのにそこにいるか。早く家に帰りなさい」と怒られ、びっくりして自分の家に帰った。空襲も恐いが、当時の巡査も非常に恐かった。
 空襲で攻撃された日本兵の遺体が瀬名波の海岸に流れ着いた。その遺体は、字民によって畑に埋葬され(八体ぐらい)、戦後収骨された。また、機銃でやられたらしい血だらけの手漕ぎボートやガソリンの入ったドラム缶なども漂着した。戦争が激しくなってからは、空襲などで死んだ魚が打ち上げられ、浜辺を埋めつくし悪臭を漂わせたこともあった。
 昭和二十年三月二十九日か三十日頃長浜口に米軍の艦船が入って来て、読谷飛行場あたりにすごい攻撃があった。攻撃は一日中続き、日本軍が一、二発撃つと米軍の艦船からは何倍も撃ち返された。
 瀬名波に収容されている時、日本軍による夜間攻撃があった。日本軍の飛行機は二、三機飛来して来たが、米軍の猛反撃にあい、むなしく海上に撃ち落とされた。
 終戦後、収容先から瀬名波に戻って来てからも不発弾やダイナマイトなどの事故により、死傷者が出ることがあった。(屋良朝一)

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