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11 宇座

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 概況

 戦前の宇座は、「上り口説」や「下り口説」で有名な残波岬を背にした読谷の北端に位置する部落であった。南は儀間に、東は瀬名波に隣接し、西は広大な農耕地を隔てて東支那海に面し、北は残波岬の断崖絶壁である。残波岬周辺は豊富な漁場であるため、半農半漁の部落として栄えた。昭和二十年頃の宇座の戸数は約一七〇戸、人口は約八五〇人(『残波の里』=宇座誌=)。耕地は平坦な珊瑚石灰岩土壌で、当時主食であった芋作には適していた。しかし、宇座は沖縄戦で見る影もなく変わり果てた。さらに戦後一時期、残波岬が射爆場となり、海岸周辺の土地や旧部落のほとんどがボーロー飛行場として米軍用地に接収されたため、旧部落への移動が許されず、長浜後原と高志保北側に新部落を建設した。昭和五十一年に米軍用地が返還され、五十五年五月に復帰先地公共施設整備事業が導入された。その事業は五十九年七月竣工し、平成十一年一月末現在八八戸(三一二人)が新築移転している。

 戦時体制下の生活

 食糧や生活物資が欠乏し、灯火燃料の石油も乏しく、馬車のマシン油(オイル)、トゥブシ(松やにの付いた松の木の根の部分)などまで使用した。灯火管制も厳しくなり、ランプは外に明かりが漏れないように黒布で覆い、それ以外の火の気も注意深く扱った。衣料も不足するようになり、人絹衣料(ステープル・ファイバー等)すらくじ引き制であった。国民学校の上級生まで学業そっちのけで、対戦車壕や塹壕掘りの奉仕作業にかり出された。日用品もことごとく不足するようになり、マッチなどもなかなか手に入らず、火だねを灰の中で保存し、隣近所で分け合うような生活であった。
 そんな生活の中、英喜与久田(エイキユクダ)、次男前耕作(ジナンメーコーサク)の二家族は浦和丸で宮崎県北諸県郡(きたもろかたぐん)山之口に疎開した。

 幼稚園

 昭和十六年から十九年頃まで字事務所に幼稚園が開設された。約三年間に五人の女子青年が保母として雇用され、当山※※(旧姓※※)・山内※※(旧姓※※)・新垣※※・山内※※(旧姓※※)・古堅※※が子供達の指導に当たった。「結んで開いて」「お日様きらきら」などの唱歌の他に「入っていましょう防空壕」など戦時色の濃い歌も教えていた。昭和十八年頃、県庁から役人が来て幼稚園の運営状況を調査した。その功績が認められ、昭和十九年、当時の新垣※※区長(屋号※※)が県庁に招かれ、島田県知事より表彰状と金一〇〇円が字に贈呈された。

 出征兵士

山内※※氏壮行記念、のぼりは「宇座銃後奉公会」とある
 「支那事変」から昭和十九年にかけては、字民全員がメーヌマーチョーに集まり、出征する本人の挨拶などの後、上之毛(イーヌモー)(残波岬)の神々に出征兵士の無事帰還と武運長久を祈る祈願祭が催された。出征兵士が乗った船が残波岬沖にさしかかる頃には、旅送り毛(タビウクイモー)で婦人達が「だんじゅかりゆし」を歌いながら、松の葉を燃やし沖行く船を見送った。昭和十九年の後半からは戦雲急を告げ、字全体の祈願祭もなくなり、「元気で故郷に帰って下さい」という言葉すらタブーになった。読谷山国民学校で行われていた村葬もその頃にはすでに行われなくなっていた。

 日本軍の駐屯

 昭和十九年頃から宇座に兵隊が駐屯するようになった。北海道出身の兵隊が多く、馬も北海道馬がいた。残波岬の近くには高射砲陣地があり球部隊の兵隊が駐屯していたが、その員数はわからなかった。婦人会では、屋号桃原などで山内※※ら四、五人で炊出しをし、それを残波岬で陣地構築していた山部隊にもって行ったこともあった。
 一般兵は残波岬の近くに駐屯し、下士官たちは字事務所、東山内(アガリヤマチ)、山戸前門(ヤマトゥメージョー)などに駐屯していた。東桃原(アガリトーバル)は将校の宿舎になっていた。山戸前門にいた兵隊達は波平(現読谷保育所のあたり)に移動したので、そこに芋を持って行った。兵隊達は交通壕(連絡壕)や塹壕掘りなどが主な仕事だったが、昭和十九年の末頃になると崎原の松林をたくさん切り倒し、米軍の上陸を阻止するためとして、その松材を宇座イノー(礁池)に打ち込んだ。高射砲隊は他地区へ移動したが、いつ頃どこへ移動したかは定かでない。

 供出

 主な供出物は芋・大豆・モヤシ・粟・糯黍(モチキビ)などで、字事務所に各自が持参し、それを軍が収集に来た。床屋の鏡も供出したが、それは壕掘りの時に、壕の入り口に置いて外の光を反射させて中を照らすのに使うということであった。以前には、貴金属等(かんざし、金時計、その他の装身具)も供出した。

 日本軍と字民との関わり

 供出以外にも手作りの豆腐や海で取れた物を持って行ったり、家の風呂を提供したりした。それぞれの家によく来る兵隊がいて、字の人達は食べ物などをあげた。出征した夫や息子が、この兵隊達と同じように、どこかでひもじい思いをしているのではないかという思いから、兵隊には親切にし、軍に協力した。当時は兵隊をあがめ大切にするのは当たり前であり、字事務所で演芸会なども催されるなど、兵隊と字民の間で大きなトラブルはなかった。

 十・十空襲

 十・十空襲は、役場や軍からの通報もなく、住民は友軍の飛行機と錯覚し、空襲を受けて初めて敵機だと気づく始末であった。ほとんどの字民が自家用の小さな防空壕でおびえながらその一日を過ごした。一方、北(読谷)飛行場建設工事に働きに出ていた字民九人がこの空襲で死亡した。青年達は棺の迎えや夜を徹しての葬式などに携わり、字中が深い悲しみに包まれた。

 徴用

 昭和十八年から二十年頃にかけてさかんに徴用が行われるようになった。主な徴用先は北(読谷)飛行場・屋良飛行場・伊江島飛行場などであった。読谷飛行場には、子供と老人を除いて総動員体制の状態で行われ、前述の字民九人も徴用されていた読谷飛行場での犠牲者であった。また、伊江島には三十歳以上の漁師や石工などが徴用されていたが、後には若い人達も徴用されるようになった。伊江島に徴用されたカミー月木(ギッチ)・当山・東門(アガリジョー)・前横目(メーユクミ)・新屋(ミーヤー)・勇一山内(ユウイチヤマチ)・新屋古堅小(ミーヤーフルギングヮー)・樽鎖子(タルーサーシ)の八人が犠牲になった。

 防衛隊

 昭和十九年後半から二十年三月上旬にかけて、十七歳以上(一部十六歳も含む)四十五歳までの健康な男性はほとんどが防衛隊として召集された。十七、八歳の青年達は、召集されるのは当然と思い、その後展開される悲惨な沖縄戦のことなど予想だにせず、戦争が終わったらすぐ帰れるものと思いこんでいた。馬車をもっているものは馬車と共に、伊江島や中南部全域に召集されて行き、多くの人が帰らぬ人となった。

 学徒隊・従軍看護婦

 宇座から学徒隊として出征した人はいないが、※※の棚原※※(当時二十六歳)と※※の当山※※(当時十九歳)の二人が従軍看護婦となった。棚原※※は嘉手納にある大山病院の看護婦だったが、その後那覇分廠の看護婦となり戦死、当山※※も戦死した。

 字民が避難した主な壕・ガマ等

 前述の通り十・十空襲の際は、屋敷内などに掘った自家用防空壕に避難したが、その後の空襲はそこでは凌げなくなり、左記のガマに避難するようになった。

 ヤーガーのガマ

悲劇のガマ、ヤーガー入口
 自然洞窟で全長約六〇メートル、入口の高さ約三メートル、部落の後方に位置し、多い時には二〇〇人以上が避難した。

 スヌヘークガマ

 自然洞窟で全長六〇メートル余。部落西方より海岸へ降りる降口原(ウリグチバル)にある。

 浜小のガマ

 東の神之屋(アガリヌカミヌヤー)の東側、大焼原にある。ヤーガーのガマ崩壊後たくさんの字民が避難し、多くの生命が救われた。

 カーブヤーガマ(恩納村山田在)

 国頭へ避難する予定の字民が、上陸直前の混乱の中で通行が困難となり、同ガマが途中の避難場所となった。
 昭和二十年になると戦況は日一日と悪化し、残波岬周辺ではB29、B24が偵察のため飛来し、安心して農作業や漁もできない状況になっていった。そのような不安な日々の中で遂に三月二十三日の大空襲に見舞われ、宇座のほとんどの家屋が灰燼(かいじん)に帰した。その日、スヌヘークガマの上部や後当山(クシトーヤマ)の後ろなどに大型爆弾も投下された。字民は四散し、ヤーガーやスヌヘーク、浜小などのガマや墓など部落周辺に避難した。夜になると、大きな不安に襲われながら国頭目指して避難を始める人等で騒然としていた。翌二十四日も大空襲があり、宇座海岸沖にはアメリカの艦船が蝟集(いしゅう)し、艦砲射撃が始まった。二十九日ヤーガーの上に艦砲弾が命中し、巨岩が崩壊して二四人が圧死した。四月一日アメリカ軍が上陸するが、残波岬方面では三月三十一日に既に偵察兵の一部が上陸していたとの証言もある。

 字民の主な避難先・避難経路・避難中の生活等

 三月二十三日の大空襲は宇座にも大変な打撃を与え、その日は字民の離散の日にもなった。部落に留まらず、本島北部に避難を始めた人々は担げるだけの黒砂糖や食糧を担いで避難指定先の国頭村辺土名や伊地を目指して歩き始めた。恩納村、名護、大宜味村、塩屋経由で八〇キロメートル余の道のりであった。
 やがて食糧が尽き、三か月余の飢えとの闘いが始まった。芋からカンダバー、ツワブキなどを食べ尽くし、蘇鉄やヘゴを食べて飢えを凌いだが、栄養失調で死亡する子供や老人が多かった。
 終戦後の収容先に墓が多いのもそれを物語っている。しかし、私達が永遠に忘れられないのは山原の人々の親切な心である。彼らが作った芋や全ての農作物で多くの尊い生命が救われた。

 字民が収容された主な収容所

 宇座周辺のガマにそのまま避難して残っていた人々は、米軍上陸の翌日までにはそのほとんどが保護され、都屋に連行され収容された。都屋に四日間程いて、その後宇座に帰され、焼け残った家に二、三家族が一緒になって生活し、二週間ほどは畑仕事などをしながら、留まっていた。四月二十日突然金武に連行され、その後銀原・中川・漢那・石川などに収容された。それらの収容先から遠く読谷まで芋掘りに通い、家族の食糧を補った。

 字への復帰状況

 昭和二十一年八月、各地に散って収容生活を送っていた読谷村民に対し、波平・高志保への居住許可がおりた。建設隊が組織され、住宅の建設に着手し、十一月から村民の受け入れが開始された。ところが宇座部落は、ボーローポイント飛行場を造るために潰され、さらに残波岬も米軍機の実弾射撃演習場等になり、故郷への復帰ができなかったが、村内へ戻るというだけでもその頃は幸せだった。各地に散っていた宇座の人々も次々に高志保に集まってきて、だんだん字意識が芽生え戦後初代区長に山内※※を選出し、戦後字民の統括にあたった。(仲宗根盛敏)

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