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10 儀間

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 概況

 儀間集落は、北と東側を字渡慶次と接し、南は高志保と境をなす。戦前、集落中央の北側、渡慶次カタノー馬場入り口にある不動(フドゥー)からは集落全体が見おろせ、東シナ海に向かって緩やかに農地が広がっていた。集落中央には字事務所があり、その前の広場ではいろいろな集会が催された。部落の発祥は渡慶次地内の小集落が分離独立したといわれ、ウフカーも渡慶次と共同使用していた。ずっと以前から兄弟シマとして扱われており、現在でもその名残をとどめている。
 儀間の戸数・人口は、大正十年で一一二戸、五四六人(沖縄県中頭郡読谷山村註記調書)となっている。沖縄戦直前の戸数について、安仁屋※※は一一三戸であったと言い、町田※※は葬式の時に各戸から一銭の香典を集めて合計で一円七銭あったから戸数は一〇七戸だという。大正十年頃からさほど大きな変動が無かったことを窺わせている。そうしたことから、米軍上陸前の儀間の戸数は概ね一一〇戸ほどだったと思われる。
 また、戦没者を「平和の礎」刻銘者名簿からみると軍人六一人、戦闘協力者一二人、日赤看護婦一人、一般住民八〇人の合計一五四人となっている。

 戦時下の状況

拝所「フドゥー」で武運長久を祈り、その後記念撮影
 出征兵士の見送りは、昭和十六年頃まで行われた。事務所に字民が集まって、区長の激励を受け、本人が挨拶をして、不動(フドゥー)で武運長久を祈り、その後青年団は太鼓を叩き、軍歌を唄いながら嘉手納駅まで見送った。次第に戦争が激しくなるにつれ、出征兵士の数がスパイに知られる恐れがあるかも知れないとして、字全体での見送りはしないようになった。
 中には召集されて後、入隊後の検査で病気であることが分かり帰される者もいた。沖縄戦に突入すると徴兵検査で不合格とされた者も含めて残った男たちはほとんどが防衛召集された。
 儀間集落への日本軍の駐屯は昭和十九年頃からで、事務所やウフカーの前のサーターヤーに山部隊の約五〇人ほどがいた。ウフカーの隣の安仁屋家では兵士たちが集まり会議が開かれ、会食もそこで行われるようになった。
 日本軍と住民の関係は極めて良好で、時には各家庭で兵士たちを夕食に招きもてなした。その返礼に、甘味料やこんぺい糖などを分けてくれたりした。また、洗濯は字内の井戸のある家庭でやっていた。
 食糧の供出は強制されたものではなく、当時「大日本婦人会」と呼ばれた婦人会を中心に、みんなで兵隊さん達に出来るだけ援助して差し上げようというものであった。各家庭からは余った物を出すということで、供出で食糧事情が悪化するということはなかった。

 駐屯部隊の任務

 儀間に駐屯した山部隊は、ほとんどが東北や北海道の出身者であった。彼らの任務は、敵の戦車が通れないように対戦車壕を造るのが主なものであった。海岸辺りから少し内陸部に入ったところで、戦車の進行を妨げようとするものであった。都屋の採石場から大当、高志保の下からウーシンニー辺り(現北保育所)までなどで、各字からも動員され、さらに国民学校の児童たちも駆り出されて対戦車壕掘りをやらされた。また、高射砲の模型を造り、それを陣地に設置して、米軍に攻撃させようという「模擬陣地」の構築も行っていた。

 儀間陸上小運搬統制組合(荷馬車組合)

 儀間には三五、六台の荷馬車があって、※※の上地※※を組合長とする荷馬車組合(正式には、陸上小運搬統制組合で全ての荷馬車に鑑札があった)があった。これらの荷馬車は防空壕の資材に使う丸太や糧秣の運搬、さらには北(読谷)飛行場の建設に使われた。
 昭和十八年頃、日本軍は伊江島で必要な丸太を早急に手に入れようとした。そのために日本軍はいくつかの荷馬車組合を集め、今帰仁の学校に一週間ほど滞在させて、呉我山で丸太になる木を切り出し、それを競わせるかのように本部渡久地港まで運搬させた。儀間からも上地※※を班長とする組と町田※※を班長とする組とで交代して参加した。しかし、こうした労働への賃金はいっさい支払われなかった。
 糧秣の運搬は部隊が移動になるとその分を移動先に運ぶといったことだった。
 北飛行場建設では、回数券みたいなものを手渡され、運んだ回数や距離などの条件によって賃金が支払われた。当時としては、現金収入が入るということで大いに喜ばれ、牛を飼っているところも馬に切り替えていくほどであった。

 防衛隊召集

 儀間では昭和四年生も防衛隊に召集されている。他の字では昭和三年生までだといわれるが、当時の兵事担当者の帳簿の見間違いだと儀間では思われている。その昭和四年生を含めた防衛召集の最後は、昭和二十年三月六日である。儀間からは総勢二〇人ぐらいが召集されたが、そのうち四人は昭和四年生であった。役場に集合して、浦添の前田で隊に合流、その後激戦となった首里方面に向かった。昭和四年生での戦死者は玉城※※と山内※※の二人である。

 十・十空襲

 十・十空襲の朝、儀間でも多くの人々が日本軍の演習だと思って木などに登り眺めていた。日本軍は強いと信じきっていたし、沖縄の上空まで敵機が襲ってくるなど、想像もできなかったのである。
 上地※※は、いつものように嘉手納の県立農林学校に通学の途中、チンジ(地名)のトロッコ道までやって来ていた。早朝からの演習かと東の空を眺めていたが、座喜味城からは黒い煙がたちのぼり、次々戦闘爆撃機が急降下していくが、よく見ると標識が日の丸ではない、そこで危険を感じて家に引き返したと言う。同じように、集落内でのんびり眺めていた人々も本物の空襲と分かってからは、急いで防空壕等に避難した。大和魂で闘い、常勝の日本軍のイメージが崩れた落胆は大きかった。儀間の集落内への爆弾投下はなかった。

 山原疎開

 渡慶次国民学校では、六年生までは疎開するぎりぎりまで普通に授業が続けられていたが、高等科は防空壕に使う松材の皮を剥ぐ仕事をやらされ、さらに高志保の対戦車壕や座喜味城東側の防空壕掘りにも動員される毎日であった。
 十・十空襲が終わってしばらくして、部落の人々は辺土名に疎開することが決まって、仲上地(ナカイーチ)等の九世帯程が最初に疎開した。おそらく村内でも最初の山原疎開であったと思う。その後も辺土名で借用する家の手配ができ次第順次疎開することになった。荷馬車があるところはそれを利用して荷物や歩けない人、赤ちゃんなどを乗せて山原に向かった。昭和二十年の三月半ば頃に部落内に残っていたのは、十五、六歳以上の男たちと、男手がなく山原に行っても生活苦が予想された人々等であった。また、海沿いの二本松の洞窟(海に近い自然の岩穴洞窟)の中に避難していて、山原への避難を知らず残ってしまった者もいた。
 警防団長の新垣※※は、三月二十日頃までも校区の駐在巡査と一緒になって避難するように呼びかけていた。彼は空襲警報が発令されると、危険を顧みずに、集落中を走って避難するように呼びかけ、また解除になるとそのことを走って伝える、そんなまじめな人であった。
 渡慶次(隣り部落)のような大きな地下壕があれば、遠く山原まで避難することもなかった。辺土名への避難はある程度強制的であった。向こうに行ってから食糧難や戦中・戦後のマラリア等でだいぶ犠牲者が出た。また、辺土名鏡地の米軍の部隊は砂浜に柵をめぐらせてあったから、夜間に砂を掘り返して中に入り芋などの食糧を取りに行って撃たれて死亡した人もいる。

 収容所生活

 北部方面の米軍は本部半島から上陸し、すぐに辺土名辺りまでを制圧した。儀間の人々は辺土名の集落から山中避難までは一緒に行動したが、米軍が辺土名まで来るに及んで、ほとんど家族単位での逃避行が続けられた。
 上地※※の家族は、戦闘が激しくなるにつけ山中をさまよい歩いたが、結局辺土名に引き返して投降した。家族と離れて一人奥の山中で捕まった兄の上地※※は、ゲートルを巻いていたため兵士と間違えられ、羽地田井等の収容所に入れられた。家族は姿の見えない※※を戦死したものと思いこんでいた。
 辺土名で保護された住民は仲尾次・真喜屋を経て今帰仁、石川へと移動している。住民の多くが石川をめざしたのは軍作業があって、仕事に出れば食糧がたくさん貰えたからであったという。
 町田※※によると、当時は「通行証」がないと自由に収容所間を移動することは出来なかったという。また、漢那の収容所から移動できずにずっと農業をさせられたと大嶺※※は語っている。一口に収容所生活といっても、同じものではなくそれぞれに違った体験をしたのであった。

 復興への思い

 儀間の人々が各収容所から村内へ帰住したのは、一九四六年の十一月以降で、高志保公民館北側の一角が割り当てられた。共同生活の中で、人々は儀間集落への復帰を願っていた。そして翌一九四七年十月十六日に瀬名波、渡慶次と共に儀間にも居住許可が下りた。人々は喜び勇んで部落での道路、用水池、井戸の復旧、家屋の建築などに取り組み移動を始めた。しかしながら、その喜びも束の間、一九四八年五月米軍からの立ち退き命令により、再度高志保へ移動しなければならなかった。
 一九五〇年一月に松田平昌読谷村長宛に提出された「読谷村儀間旧部落への移住御許可方に関する歎願書」には、「高志保部落だけにあまた部落住民が雑居し居る関係上衛生的にも悪く火災予防の見地、又は当区民の周知徹底指導の見地からしても大いなる悪条件に置かれ」ているとして移住許可を嘆願していたが、米軍が飛行場として儀間集落西側一帯を占領している状況にあり、移動は認められなかった。
 こうしたことから、儀間の復興は現公民館付近に人々が移動し始める一九五三年頃から本格化する。現在の公民館敷地は、まず公民館が必要だからと帰村当時の役員らが協議の上、現敷地を購入していたのである。
 また、当時校区の青年会長をしていた上地※※によると、渡慶次校区青年会での戦後最初の事業は六か字の戦没者を慰霊する「鎮守之塔」の建立であった。校区全体では約六〇〇人の方々が戦死しており、先ず慰霊の塔の建立が急務であると考え、各字の青年会の協力を得て一九五一年七月に完工し、戦死者の名簿を納めた。本来は各字でそれぞれ慰霊の塔を建立することが本意であったが、軍用地に取られ旧部落に復帰できないところもあり、とりあえず校区青年会で建てようということになった、と言う。建設場所は、一九四九年に現敷地に移転してきた渡慶次小学校内の南の角(現体育館のところ)であった。
 ちなみに、儀間の戦死者約一五〇人を祀る慰霊の塔は、一九五七年に旧事務所敷地内に建立された。(小橋川清弘)

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