読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

9 渡慶次

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 概況

 昭和二十年当時の区長玉城※※のメモによると戸数二二一、人口一〇八四人、一戸平均四・九人である。沖縄戦までの戦没者数は、「平和の礎」刻銘者数からみると、一般住民一一〇人、兵隊九七人、戦闘参加者九人、不明四人の合計二二〇人になっている(一九九九年一月現在)。
 米軍は上陸後ボーロー飛行場構築のため、集落の約半分の面積(中央部)をブルドーザーでならし、一部コーラルを採掘してあった。家屋は破壊または焼き払われ壊滅状態だったが、屋敷囲いの石垣や樹木は、三分の一程が原状のまま残っていた。

 県外疎開

 渡慶次からは一般疎開・学童疎開ともに県外への疎開者はいない。
 しかし、大阪の紡績工場での出稼ぎから帰る途中だった国吉※※(屋号※※、当時二十八歳)と与那覇※※(屋号※※、当時十九歳)は嘉義丸に乗船していて遭難した。嘉義丸は昭和十八年五月二十六日、奄美大島北方で米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没し、二人はその犠牲になった。

 戦時体制下の生活

 「支那事変」から「大東亜戦争」へと突入して行く中で、住民は苦しい生活を強いられた。
 次第に物資が不足して行く中で、米が配給制となり、当時字の佐事だった福地※※と与那覇※※の二人が月に一回位の割合で役場から米を荷馬車で運んで来て、共同売店で割当販売していた。その他に地下足袋・手ぬぐい・針・糸なども配給制になった。煙草は盛島商店で扱っていたが、一日の販売量が制限されていたのか、夜明け前から店の前にたくさんの人が並んでいた。衣料品を買うにも、衣料切符というものがあり、点数制だった。国民学校の学生服は嘉手納の安森商店が指定店でそこで買った。
 国は貯蓄の奨励をしており、貧しい懐をはたいて貯金をしたり、強制的だった国債の買い上げのために、隣保班(隣組)でお金を出しあったこともあったと当時の玉城区長は話していた。
 出征兵士が増えていくにつれ、その家族が中心になっての千人針や、女子青年を中心に慰問袋づくりなどがさかんに行われるようになった。また、日の丸や幟を立てて残波岬まで行き、東の神屋(アガリヌカミヌヤー)と西の神屋(イリヌカミヌヤー)で出征兵士の武運長久を祈願した。その後参加した一同が原っぱで車座になり、ウサンデーの神酒(オミキ)を飲んだ。この行事のある日、佐藤※※という人がそれまで見たこともなかったバイオリンで軍歌を演奏し歌っていたが、その時のバイオリンの物悲しい音色は、今でも印象に残っている。
 渡慶次校区の警防団長は山内※※だったが、召集されたため、儀間の新垣※※に替わり、米軍上陸前の昭和二十年三月二十五日まで務めた。
 警防団は各字の青年団活動と直結し、非常時に備えての各種の訓練の中心になった。竹槍訓練は男子青年を中心に月一回位の割合で警防団長の山内※※が指導した。国防婦人会、男女青年団、一般の人を含めて、火たたきを使った訓練やバケツリレーによる消火訓練も行われた。また、ホヤランプに黒い布をかけて明かりが屋外に漏れないようにする灯火管制訓練も行われた。
 働き盛りの若い男性は、兵隊として戦地へ、あるいは軍属や徴用などへと駆り立てられていった。残された年寄りと婦女子で食糧増産を図らなければならなかった。そのため雨が降り畑が潤うと芋植え付けの手伝いや子守などをするため、学校は休みになった。
 学校ではさとうきびのシンムシ(アオドウガネ幼虫・きびの中に入り込んで枯らす害虫)駆除のため、五年生以上の生徒が各字のきび畑に散って行き、シンムシを取り、それを瓶に入れて、学校へ持って行き量を競ったこともあった。また、高等科一、二年生の生徒を校庭に集合させ各字毎に整列し、校長の検閲訓辞後、分列行進をしたり、避難訓練などをした。見知らぬ人を見たらスパイかも知れないので、すぐに先生か巡査に通報するようにと、校長や担任の教師に言われていた。さらに、先生達は盛んに、天皇陛下のため、国のためだと言って兵志願を勧めており、高等科一年生だった大城※※、玉城※※、前田※※、玉城※※の四人(当時十三歳)も、青年達に混じって海軍に志願し、具志川村(現具志川市)にある国民学校で検査を受けた。このように、大人だけでなく児童・生徒の間にも戦時体制意識が浸透していった。

 徴用

 字内からの徴用は、八重山や本土に行った者がいた。三か月の予定で八重山に徴用された人々は、六か月余りも働かされ、船で帰る途中久米島南方で十・十空襲にあい、五人が犠牲となった。
 また、与那覇※※、福地※※、大城※※の三人は昭和十六、七年頃、普天間に集められ、県外徴用され、軍属として長崎県佐世保の海兵団に配属されて約一年間働いた。
 読谷飛行場建設には、県内各地から徴用人夫が集められていたが、渡慶次は男女を問わずほとんどの人が徴用ではなく、賃金を貰う労働者として働いていた。荷馬車を持っている人たちは稼ぎが良かった。

 供出

 日本軍への食糧品の供出は、役場からの通達で、役場を通して行うようになっていた。字事務所に集められた供出物は、役場へ運んで行きそこから各部隊へ分配された。ある時、将校が直接玉城区長宅を訪ねて来て供出を求めたが「供出は役場を通して行うようになっているので」と断ると、スパイ呼ばわりされていやな思いをしたという。また、供出はいつまで続くかわからないので、一回にたくさん供出するのではなく、少な目でも長く供出できるよう苦心したとも話していた。
 供出物は、芋・冬瓜・キャベツ・大根・人参・その他に豚・山羊などとなっている。ちなみに当時の玉城区長のメモ帳から抜粋すると、軍への供出豚代番号二八〜三九番までの一二頭分の金額として、それぞれ六○円、三五円、二五円、一八円、…合計三九二円、野菜と豚代金計四九二円四二銭とあり、供出物は軍が買い取っていたようである。その他に理髪店の鏡も供出した。この鏡は、壕を掘る際入り口に置いて壕の中へ太陽の光を反射させるために使われた。
 以前には、かんざしや装身具・鉦(カネ)など金属類の供出もあった。それらは役場から係の人が来て箱に詰めて持って行った。

 日本軍の駐屯

 渡慶次では昭和十九年の十・十空襲以降、球部隊が駐屯するようになった。宿泊は渡慶次国民学校が主で、民家への宿泊は少なかった。他に忠魂碑の北隣と儀間のサーターヤーにテントを張って駐屯していた。この兵隊達の主な仕事は陣地構築や壕掘りであった。渡慶次国民学校東側の機関砲陣地、高志保部落北側の対戦車壕、集落から海岸線に向けての塹壕(ざんごう)掘りなどの作業をしていた。児童・生徒もスコップやツルハシなどを持って壕掘りに動員された。また、低学年の児童は鎌で、壕の支柱用の松の木の皮剥ぎをした。
 安田※※宅には、長野県出身の井上大尉が宿泊していた。そこには五右衛門風呂があり、当番兵二人がいて、午後一時になると風呂を沸かしに来た。一般兵は勢頭(シードゥ)の前のサーターヤーでドラム缶風呂だった。友利(トモリ)では兵隊の食事をつくっていたが、加那玉城にも兵隊が来てシンメーナービ(大きな鍋)に飯を炊き、学校へ運んで行った。

 日本軍と字民との関わり

渡慶次国民学校と思われる。窓は吹き飛ばされたが校舎は残った
 軍隊は規律が厳しいので、なかなか自由行動は出来なかったと思うが、持ち場によっては自由の利く兵士もいて、懇意にしている家庭に行き食べ物をもらったりしていた。部隊の食事は充分にはないらしく、腹をすかしていた。食べ物のお礼に煙草や石鹸をもらった家庭もあったが、玉城区長宅には兵卒から下士官まで、数えきれない程の兵隊が出入りしていたが、何ももらったことはなかった。
 読谷飛行場建設の際、設営隊の係だった井澤曹長は、荷馬車による土砂などの運搬回数を割増してくれたりして渡慶次の人に便宜を図ってくれた。それで、儀間※※班長を中心に渡慶次の人夫達が井澤曹長を招待して山羊料理をご馳走したこともあった。昭和二十年三月頃、儀間※※と儀間※※の二家族は、井澤曹長が手配してくれた軍のトラックで国頭村辺土名に避難した。そんな関わりのあった井澤曹長が国頭の山中に逃げて来た時には、みんなで米を出し合って助けた。
 渡慶次に部隊が駐屯している間は、兵隊との間に大きなトラブルはなかった。

 十・十空襲

 午前八時頃、見慣れない飛行機が読谷飛行場方面を北から南へ急降下して、爆弾を投下したり機銃掃射をしていた。それを見ていた人々は、最初演習だと思っていた。そのうち地上から高射砲や機関砲での反撃が始まったので、敵の飛行機だとわかった。低空飛行していく時の星のマークを見て、間違いなく敵の飛行機だと確認した。飛行場を襲っている敵機は、まるで巣をつつかれた蜂が飛び交っているようなありさまだった。
 部落内に被害は全くなく飛行場や軍事施設を攻撃目標にしたようで、読谷飛行場や那覇方面は一日中黒煙が立ち上がっていた。午後四時頃空襲は止み、被害状況がわかってきた。北飛行場建設に従事していた仲村渠※※と渡口※※は、防空壕で避難中に爆弾の直撃を受けて死亡した。那覇の善興堂医院に入院していた※※の※※(母)とその看護に行っていた※※(四女)が死亡し、同じく那覇市内で※※の※※・※※・※※が空襲により死亡した。また前述の八重山徴用の帰途、久米島南方二十浬海上で船が撃沈され死亡した五名を加えて、渡慶次出身者十二名が亡くなった。
 その日、那覇で空襲に遭い、夜通し歩いて自宅に戻った安田※※は次のように話している。
 「大空襲の前日、波の上の沖縄ホテルに日本軍の高官が大勢集まっていた。物々しくてそのホテルには近寄れない状態で、近い内に何かがあるんじゃないかと、当時波の上に下宿していた宜保※※(水産学校三年)が話していた。那覇では午前中は那覇港と小禄飛行場を中心に攻撃されていたが、午後からは市内も焼夷弾で焼かれた。当時県庁にあった横穴式の三つの壕と武徳殿の地下の壕では、大勢の避難民でひしめきあっていた。五時半頃警官が来て、ここにいたら窒息してしまうから出ろと言って、追い出された。それから軽便鉄道の線路を辿って嘉手納に向かった。嘉手納には午前一時頃着いた。そこでは無灯火の日本軍の車が弾薬を積んで走っていた。兵士に、民間人は歩くなと言われたが、那覇で焼け出されたことを話したら誘導してくれた。午前三時頃渡慶次の自宅についたが、誰もいなかったので、壕に行ってみたら、みんなそこにいた」。

 出征兵士

 出征兵士のいる家の門の東側には階級と氏名と「武運長久」と書かれた幟が立っていたので、一目でわかった。出征兵士の見送りの際は、字事務所前に字民が集合し、忠魂碑前での武運長久の祈願後、友利商店前で挨拶と万歳三唱をした。字民はそこで見送り、青年団は弁当持参で嘉手納駅まで見送った。途中役場では比嘉幸太郎村長が「応召兵諸君万歳」と唱えて激励した。出征兵士の見送りも昭和十六、七年頃まではとてもさかんだったが、その後、若者が少なくなる中で、次第にひっそりと行われるようになった。
 出征兵士のほとんどは、挨拶の中で「国のために死ぬ覚悟であります」と言っていたが、全校生徒を前にして式台で挨拶した山城※※(屋号※※)は違っていた。「私は敵の弾に当たっても当たらない。斬っても斬られない。撃たれても死なない」と大きな声で言っていたのが、とても印象に残っている。軍国主義の風潮の中、どうしてそんな言葉が出たのか不思議だった。
 戦死した兵士の遺骨の引き取りは、陸軍は都城、海軍は佐世保となっていた。上等兵大城※※、兵長与那覇※※、海軍軍属与那覇※※、三氏の村葬はそれぞれ時期は異なるが、盛大かつしめやかに執り行われた。知花清村長の時代で、村内全校の四年生以上の児童・生徒が参加し、読谷山国民学校で行われた。花輪が飾られ、連隊区司令部からも高官が来て、葬式というより大きなイベントのようで羨ましい位だった。渡慶次出身者で、最後の村葬になったのは、昭和十八年九月二十八日戦病死の棚原※※(海軍)で、それは渡慶次国民学校で行われた。

 防衛隊及び軍属

 十五、六歳〜四十四、五歳までの男性は全員防衛隊に召集されたが、区長・書記は免除されていた。ほとんどの人が召集期日を覚えていないが、昭和十九年の暮れから二十年の三月までの間である。儀間※※(屋号※※)の夫※※は二十年三月六日に浦添で入隊した。
 神谷※※、大城※※の二人は、在学中に他の人達と共に大刀洗陸軍航空廠那覇分廠に志願し、昭和十九年四月十五日与那原で入隊、那覇と福岡で合計三か月の訓練を受けた後、二人は台湾へ派遣され、軍属として航空関係の仕事をした。一緒に入隊した人で台湾に派遣されず、沖縄勤務になった人もいる。
 後に喜名でも志願受付が行われ、一〇人が軍属志願し軍と行動を共にし七名が犠牲となった。昭和五年生も志願したが、学校を卒業してから来なさいと帰された。

 学徒隊関係

 渡慶次から上級学校に通っていた人は、宜保※※(水産三年)、安田※※(農林三年)、大城※※(農林二年)、安田※※(二中二年)、比嘉※※(二中二年)、玉城※※(工業二年)の六人である。その中で宜保※※は鉄血勤皇隊に参加し、戦死した。その他の人達は三月二十三日からの空襲のため鉄血勤皇隊結成に間に合わなかったなどの理由で幸いにも免れた。なお、女子学徒隊員や従軍看護婦はいない。
 「三月二十六日に一中で鉄血勤皇隊の結成式を行うことになっており、その前に家族の元へ面会に帰された。三月二十三日から始まった空襲のため一中へ集合することが出来なかった。国頭に避難生活中、戦争が済んだら軍法会議にかけられて死刑になるだろうと、そのことが頭の中から片時も離れなかった」(安田※※談)。
 「二中鉄血勤皇隊を編成するので金武国民学校に集結せよ、との知らせがあり、比嘉※※と二人でそこへ向かう途中、伊波国民学校の近くで先輩に出会った。先輩の話によると、二日後に毛布一枚と米・味噌・塩などを持って集結せよということだったので読谷へ戻った。しかし二十三日から始まった空襲のために集結することは出来なかった。二中の同年である二年生二〇八人中、通信隊員になった八〇人のうち七二人が戦死した。三年生五四人、四年生一九人、五年生二一人に比べても二年生の戦死者が多い」(安田※※談)。

 炊事婦

 渡慶次国民学校に駐屯していた球部隊の兵士たちの食事を作るために、与那覇※※、棚原※※、大城※※の三人が炊事婦として働いていた。午前四時頃から仕事にかかり一日中働きづめだった。この球部隊の移動先は、知念村の久手堅だった。炊事婦たちは一緒に行ってくれと桐山軍曹に頼まれたが断った。

 字民が避難した主な壕・ガマなど

 渡慶次集落の中央部の地下に一〇〇〇人くらい収容できる自然壕があり、渡慶次の人達はほとんどそこへ避難した。出入口は、山内(ヤマチ)・仲川上小(ナカカーカングヮー)・ヒゾ福地(ヒゾーフクジ)・大屋(ウフヤ)・山前門(ヤマーメージョー)・蔵元(クラムトゥ)の六か所から掘ってあった。岩盤の厚さが五、六メートルもあったので、砲弾や爆弾の直撃をうけても大丈夫だった。下原(シチャバル)屋取の人達は二本松(二本の松があったのでそう呼んだ。海岸近くの場所)の下のガマに避難した。また、国頭に避難することができず、米軍が上陸し、収容されるまで壕から壕へ転々と移動した家族もあった。
 米軍上陸直後、近くまで米兵が来ていると誰かが言ったので、前勢頭小(メーシードゥグヮー)の壕にいた仲村渠※※と知花※※の二人は、竹槍を取り出し、米兵を殺してくると言って、壕を飛び出そうとしたが、皆に呼び止められ命拾いをした。

 字民の主な避難先・避難経路

 昭和二十年二月中旬頃、疎開指定地の国頭村桃原へ向け、第一陣として加那玉城をはじめとする八世帯が荷馬車一四台に分乗して出発した。山田を経て、現在の国道五十八号を西海岸線沿いに北上、羽地の国民学校で一泊した。その時地元の婦人会から握り飯をもらった。二日目の午後明るいうちに桃原に到着した。金城※※桃原区長(※※)が、家の割り振りなどをしてくれた。その後第二陣は辺土名へ疎開した。
 一方地元では、昭和二十年三月二十三日の大空襲で、字民は皆壕へかけ込んだ。翌二十四日も大空襲があり、それまでは飛行場や軍事施設が目標だった爆撃が、住民地域にも及んだ。爆弾の炸裂音や機銃掃射の音で、恐怖心に襲われ生きた心地がしなかった。その日の空襲で真佐川上(マサーカーカン)と徳勢頭(トカーシードゥ)の家が全焼し、渡慶次でも初めて空襲による家屋への被害が出た。宇座の方では、かなりの爆弾を投下され大被害を被っていた。
 二十五日も朝から空襲があり、日中は皆壕に避難した。青年や国民学校の上級生が各避難壕への伝令役になった。空襲が終わった五時頃、西の海には、海面を被いつくす程無数の米軍艦船が集結しており、不気味な光景だった。
 その頃、駐在の比嘉巡査と警防団長の新垣※※が壕を訪れ、「ここは間もなく艦砲射撃が始まり米軍が上陸するので、住民は早く国頭へ避難するように」との軍よりの避難命令を伝えた。間もなく壕の中はパニック状態になった。多くの人が大急ぎで食糧や衣類をまとめた。そして、荷馬車のあるところはそれに積み込み、ないところは棒でかつぎ、或いは頭に乗せて、夕方から晩にかけて山原へ向かった。郵便局長の幸地某は、「国頭へ行く人は預金をおろして持って行くように」と言っていたが、みんなそんな余裕はなかった。長浜を通り山田へ出ると、中南部からの避難者が道一杯に広がり、ただ黙々と北へ歩いていた。昼間は敵機の機銃掃射を受けるので、夜間だけ歩き続け、二日目の明け方に桃原や辺土名に着いた。中には、近くの恩納村までしか避難できない人々もいた。
 歩けない人や病人がいる家庭などは、どうせ死ぬなら自分が生まれ育った所が良いと、避難せず渡慶次に残った人々もいた。中には、終戦を知らずに八か月間もガマに隠れ続けた人達がいた。最初に儀間の※※の玉城※※が発見し、皆に知らせ、十二月頃山内※※が説得して壕から連れ出したが、長期間太陽光線に当たっていないために、色が青白く、この世の人間とは思えない程であった。
 国頭に避難した人達は、集落の近くの壕の中で避難生活を送っていたが、四月八日頃敵が間もなくやって来るとの情報が入り、一斉に山へ上がった。そこには県が地元(国頭村)に発注して建てた避難小屋があり、それに入った。場所は与那覇岳の中腹あたりで桃原から四キロメートルほど登った所だった。米軍の上陸後はほとんどの人が飢えと戦いながら、山中をさまよった。食糧を求めて集落へ降りた時に、米兵に見つかって収容されたりして、久志・宜野座などの東海岸線沿いにその多くが収容された。
 桃原では、四月中旬になって、米軍は近くに陣地を構えていた。玉城区長は桃原の金城区長の許可を得て、危険を冒して、お寺に保管されていた避難民用の米を夜半山中に運び上げ皆に分配した。玉城区長のメモによると、「米十九袋、二十九家族、一八三名に一人宛五升」となっている。
 桃原に避難していた人達は、夜は食糧探しに山を降り、明け方に上って行くという生活を繰り返した。宜野座・石川方面には米軍の配給食糧が豊富にあるとのことだったのでそこへ向かった人々もいた。
 七月下旬米軍は、山中へ掃討戦をかけてくるようになり、山中の避難小屋を焼き払うようになった。奥間の避難小屋の人達が前日山を降りたと聞き、こちらも協議の結果全員で山を降りることに決まり、皆でおそるおそる山を降り、収容された。昭和二十年七月二十三日午後のことであった。

 字民が収容された主な収容所

 渡慶次で捕虜になった人々は、事務所や当下庫理(トーチャグイ)に一週間位収容され、その後トラックで石川・金武・宜野座などへ送られた。
 辺土名地区の収容所に最後まで残っていた身動きのとれない九家族は、玉城区長が正式な手続きを取り、十一月下旬頃、食糧運搬に行くトラックで石川に移した。
 国頭へ避難した人達は、食糧を求めて山中を南へ向けて歩いているうちに捕虜となり、久志や宜野座へ収容された。また、国頭まで避難したあと、山中を歩き続け渡慶次まで戻って来て、六月頃捕虜になり、石川・コザ・前原地区などへ収容された人達もいる。

 帰村状況

 昭和二十一年(一九四六)八月、読谷への移住が許可され、建設隊を組織し、復興に着手したが、しばらくして中止命令が出て引き揚げた。九月に再び許可が出て、村再建に励んだ。同年九月現在の渡慶次字民の地区別居住者数は次の通りである。石川五八三人、コザ二三人、前原一五人、中川五三人、漢那九八人、宜野座二〇八人、久志一七人、田井等一三人、合計一〇一〇人(『渡慶次の歩み』より)。十一月第一次村民受け入れを開始、辺土名・田井等・久志地区など遠方から順次移動させ、波平・高志保に仮住まいをした。
 昭和二十二年(一九四七)十一月、渡慶次への移住が許可され、戦争に追われて三か年も転々とした仮住まいから逃れて、やっと自分の屋敷へ家を建て、これから郷土再建へと意欲を燃やした。ところが、翌二十三年五月米軍から再度立ち退き命令が出て、住民は悔しい思いでせっかく建てた家も捨てて、瀬名波や高志保へ再び仮住まいを強いられた。四年後の昭和二十七年再度移住許可が出て移住を始め、ほとんどの人は旧集落へ戻った。しかし、石川やその他の地域へ住み留まった人もいる。

 慰霊の塔について

 慰霊の塔は「忠魂碑」として大正二年(一九一三)当時の在郷軍人会三〇余人の協力により建立され、「日露戦争」で戦死した三人の御霊を祀ったのがはじまりである。昭和二十五年(一九五〇)十二月には、日中戦争から太平洋戦争にいたるまでに戦死した軍人・軍属・戦闘協力者・一般の犠牲者名も刻み整備した。毎年六月二十三日午後四時より、字主催、遺族会後援の慰霊祭を行い、御霊の供養と恒久平和を祈念している。(玉城秀昭)

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