読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

8 高志保

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 概況

 字高志保は、座喜味城跡の西方に集落を形成し、北西に残波岬を望み、西方は東支那海に面し、南西に字波平の集落に隣接している。戸数は、昭和十九年当時約一九○戸、人口は約九五○人(高志保の「沿革」より)でほとんどが農家であった。大正九年より予算書に簿記方式を取り入れ、字の健全運営に役立て、同簿記方式の導入により住民全体に大きな刺激を与え、人材養成にも役立った。また、大城※※、知念※※、知花※※、大城※※らが中心になって、大正十年には産業組合が結成され、信用・販売・購買事業を行い、昭和十七年に村組合に統合されるまで地域の産業経済に大きく役立ち字の発展に寄与した。

 出征兵士と見送り

 昭和十二年七月、中国で蘆溝橋事件が勃発、日中戦争が始まり、この戦争に高志保からも比嘉※※、宮里※※、新垣※※、国吉※※の四人が応召し出征した。又二次目に比嘉※※、知花※※、知花※※、大城※※、大城※※、知花※※の六人も応召し出征した。戦争は長期にわたり、次々と多くの人々が出征していった。出征兵士の見送りには字事務所前に兵士と字民が集まり、区長の激励の挨拶のあと、日の丸の旗を先頭に掲げて太鼓を打ち鳴らし、軍歌を歌って嘉手納駅まで行進して見送った。青年団員は全員参加して見送った。戦況の悪化に伴いあとは見送りもしなくなった。

 村葬

 出征兵士の中には戦死または戦病死して帰らぬ人もいた。その遺族の方々は兵士が入隊した部隊や連隊に遺骨を迎えに行った。連隊では遺骨を納めた多くの箱が白い布で包まれ整然と安置された中で連隊葬が行われた。遺骨は「英霊」と呼ばれていた。連隊葬が終わると遺骨を受け取った。
 村葬は渡慶次尋常高等小学校と読谷山尋常高等小学校で行われた。村葬には村長を始め役場吏員、村会議員、各字の区長、婦人会長、在郷軍人会長など多くの村民が出席して盛大に行われた。「遺族は悲しまずに、英霊は名誉の戦死であり、戦没者が出た家は誉れの家、名誉の家と呼ばれ誇りと思え」というような挨拶もあった。
 高志保出身では、※※の知花※※、※※の比嘉※※、※※の知花※※、※※の大城※※などが村葬された。時は昭和十四年から十五年頃であった。村葬された遺族の中には、村の勧めにより靖国神社への参拝に行った者もいた。

 国防団体の組織活動

 昭和十二年に日中戦争が勃発し、その後は次のような団体が組織された。警防団、婦人会、隣組、青年団なども強化され各団体は活発に活動した。出征軍人の見送り、街頭での千人針作り、防空・防火訓練、竹槍訓練などが字の事務所前の広場やメーヌカーの南側の広場で行われた。又出征軍人の家庭の畑仕事も青年団が中心となり、畑に日の丸の旗を立てて奉仕作業が行われた。出征軍人の武運長久の祈願祭にはその家族、婦人会、青年団が中心になり、多くの字民も参加して日の丸の旗を持って喜名の観音堂や残波岬の拝所などで行われた。漢口陥落、南京陥落の際には提灯行列で祝った。主催は校区の各字の区長と青年団長であった。当時の渡慶次校の校長は天願※※先生で、参加者は主に青年団員と児童生徒であった。参加者は渡慶次校の運動場に集合して学校を出発して渡慶次校区の全字を一周した。校区一周が終わると高志保の人々は国吉屋取まで行った。当時は警防団員や青年団員はよく役場に集められ、銃後の守りについての話とか戦争に勝っているという報告など、団員の士気の高揚を促すような話が兵事主任からよく聞かされた。また、村長や区長、青年団長のいうことには絶対に服従したものであった。

 戦時体制下の生活

 昭和十二年、十三年頃には国防婦人会や警防団が強化され始めていたが、日常生活はそれほど戦争のひっ迫感はなかった。
 昭和十四年には「価格統制令」が発せられ、昭和十六年からは大方の物資が配給制になり、衣服は衣料切符で買い、米は米穀通帳で買うようになった。煙草を買うにも朝早くから店の前に並ばなければ買えない程物資は少なくなっていた。

 県外疎開

 県から村に、村から字へと県外疎開が奨励されていたが、行く人は少なかった。村の婦人会の集会の時にも疎開の話があったが、沖縄を離れて疎開するということはほとんど考えられなかった。わずかに、屋号※※の松田※※と子供二人、さらに保育園の保母をしていた松田※※と子供二人の二世帯が昭和十九年に割当を受けて熊本に疎開した。その後、屋号※※の松田※※が八幡市(現北九州市)に出稼ぎに行っていたので、熊本にいた妻と子供たちはそこへ移った。

 徴用

 県外への徴用としては、※※の比嘉※※が長崎造船所(軍需工場)に、昭和二年生まれの奥原※※、比嘉※※、玉城※※の三人が、昭和十七年四月に兵庫県川西航空会社(軍需工場)の採用に応募し、整備士の訓練員としてそこへ赴いた。奥原※※(旧姓※※、当時十四歳)は女子挺身隊として昭和十九年七月に静岡県の軍需工場に行った。また、八重山徴用に比嘉※※、知花※※がいたが、その他にも県内各地で飛行場造りなどに十五歳くらいから三十代までの多くの人々が徴用された。

 日本軍の駐屯

 昭和十八年夏頃から高志保にも東原、與比原一帯に山部隊の太田隊が駐屯するようになった。北海道出身の兵隊が多く、満州から来たということだった。この部隊には沖縄出身の現役兵も数人が現地入隊していた。兵舎は山野の谷間に茅葺きで作られていた。北原中尉、大久保伍長、大野上等兵などは住民にも好意的であった。また外にも現在のJAゆいな農協支所や郵便局あたりは当時原野であったので、ここにもテント張りの仮兵舎があって兵隊が駐屯していた。兵隊達は陣地構築が主な仕事のように思われた。東原のイーバル毛(アカムヤーのあたり、座喜味城跡の手前)の傾斜を利用して陣地を作ってあった。また、山の谷間には防空壕や糧秣壕などが掘られていた(現在も残っている)。苗代原には機関砲陣地がサーターヤーの石を使って構築され、東原の通称ベンケイ墓前の谷間にも作ってあった。陣地構築の際にはお茶や黒砂糖を持っていった。防空壕、糧秣壕、陣地構築に使用する枠木は、現地の山野一帯の松の木を勝手に切り倒して使っていた。当時は所有権者(地主)でも軍隊には盾を突けなかった。民家に兵隊が泊まっていたのは、後奥原(クシウクバル)の家と※※の国吉※※の家であった。国吉の家には昭和十九年の末頃から米軍の上陸直前まで速射砲隊一個小隊約五十人位が居た。その生存者とは、現在でも交流が続いている。森奥原(ムイウクバル)の家は慰安所として強制的に接収され、朝鮮人慰安婦が二、三人いた。部隊の大部分は昭和十九年十一月頃(十・十空襲後)島尻に移動したが、座喜味城あたりの兵隊は残っていた。

 供出

 「欲しがりません勝つまでは」という標語があり、芋や野菜・豆類・味噌・豚などいろんな物資を供出した。役場から字の区長に供出の割当があり、区長から字民への呼びかけで、めいめいで字の事務所に持っていった。それを字の役員が役場に持っていき役場は各部隊に納めた。婦人会はぜんざいやゆしどうふを作って差し入れたりした。日本軍は長期戦の構えで持ってきた食糧(米・缶詰)などは倉庫や壕に貯蔵して、現地の住民からの供出により食糧を補った。

 日本軍と字民との関わり

 区民が兵隊に食べ物や芋・木芋葛(タピオカ)で作った餅などをあげるとお礼に缶詰や煙草・薪(陣地構築の時に使い残した松の木や葉)などをひっそりくれたりしていた。また煙草と黒糖を交換したりもした。兵隊達も勤務の合間に子供達と遊ぶのを楽しみにしており、子供達を陣地に呼んだり見せたりしていた。息子や夫が出征している家には特によくしてくれたように思う。兵隊達のうち特に若い兵隊たちは、夕暮れ時に民家をまわり、芋や食べ物類をもらっていた。遅くなると上官に叱られるといっていた。

 十・十空襲

 十月十日は朝から晴天であった。兵隊達が字の事務所前で早朝からの軍事訓練をしているとき、読谷飛行場に米軍機の空襲が始まった。部落の上空に米軍機が飛んで来たが、部落には爆撃はなかった。字民は各家庭で掘った防空壕に隠れていたが、夕方空襲が終わったので波平のイングェーガマに避難した者もいた。その夜、字の在郷軍人会に読谷飛行場の滑走路の修理をしにくるようにとの命令があったが、皆別々に避難していて、連絡がとれず行けなかった。初の大空襲で戦争の恐ろしさを知った。読谷飛行場は一日中空襲があったが高志保の集落には被害はなかった。

 字民が避難した主なガマなど

 字内には大きなガマがないので波平のイングェーガマや日本軍が掘った與比原の壕、長浜のナカブク、波平のシムクガマなどにめいめいで避難した。なかでも長浜のナカブクに避難した人が多い。壕の中で赤ちゃんが泣くと中に人がいることが知られるという理由で赤ちゃんがいる人はいやがられて壕から追い出される人もいた。

 防衛隊

 防衛隊の最高齢は四十五歳(明治三十四年生)で屋号※※の比嘉※※、屋号カンジャーヤーの宮里※などで、最年少は十五歳(昭和三年生)であったが多くの人が島尻や中部、本部あたりにいった。南部に行った人に戦没者が多い。防衛隊員には手榴弾を配付された者もいたが、一つは自決用だと言われていた。また、隊員の中にはあまりの恐怖で発狂し、弾雨の中に飛び出す者もいた。比嘉※※は防衛隊に召集されダイナマイトを抱いて戦車に飛び込むように命令されたが、幸い敵の戦車が来なかったので助かったという。大城※※(昭和四年生)は、航空整備士の訓練生として中飛行場に派遣され、その後南部方面で戦死し、比嘉※※(昭和元年生)は現地召集され南部方面で戦死した。大城※※(昭和三年生)は恩納村の安富祖国民学校に護郷隊として召集された。

 字民の主な避難先・避難経路

 国頭村奥間が主だが、謝名城・半地・比地・喜如嘉などに行った人もいる。昭和二十年二月十七日から二十二日の間に国頭方面に避難するように村から住民に伝達があったが、ほとんどの字民は三月下旬に、艦砲射撃に追われるように避難した。知花清村長(マサ知花)の家族他数世帯は二月十七日に村役場手配のトラックで率先して行った。早い時期に避難した人達は国頭の奥間に行った。しばらく民家にいたが、その後国頭にも米軍が追撃してきたので山中の避難小屋に移ってさらに山奥に逃げた。

 字民が収容された主な収容所

 村内で収容された人は都屋に約一週間ぐらいいて、後に石川・金武あたりに移された。国頭あたりに行った字民は久志・漢那・金武・中川・石川にほとんどの人が収容されたが、遅い人々は八月十五日頃まで山中をさまよった。

 家屋の戦災状況

 高志保では、米軍の道路建設などのため戦争が終わってから壊された家も多かった。戦後戻った時にほぼ完全な状態で家が残っていたのは新屋新垣・上ヌ前宇座・恩納・後奥原・新屋安富祖などの一〇戸ほどで、その家々は戦後復興のため結成された村建設隊員の宿舎に使用された。また、字事務所前の道路とサーターヤー北端の苗代原には大きな爆弾が投下されたのか、大きな弾痕があった。

 字への復帰状況

米軍空撮写真から見た日本兵捕虜収容所(写真中央)
 悲惨な大戦が終結すると米軍から波平と高志保の一部に居住が許可された。一九四六年八月には村建設隊によって、戦禍で荒廃した地に建設が進められた。お陰で一九四六年十一月に第一次の移動で一部の字民が約二か年ぶりに字に復帰した。ほとんどの字民も一九四八年四月までには復帰した。

 慰霊の塔について

 護永の塔は昭和三十二年夏に建立された。軍人・軍属一〇一名、一般人一五一名、合計二五二名の霊が合祀されている。毎年六月二十三日に慰霊祭が行われている。未刻銘が数名いる。

 その他

 当時の区長だった比嘉※※は国頭に避難する時も字の土地図面(戸籍簿はボロボロだったので持っていかなかった)を持っていった。戦後の土地調査の時はその図面を基にしたが、現存しない。当時字の書記をしていた比嘉※※は国頭に避難する時に字の会計簿と予算書を持っていった。これらは現在も公民館に保管されている。
 高志保陀良原には日本兵捕虜の収容所があった。(大城英三郎)

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