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5 「集団自決」

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 背景

 沖縄戦は、極言すれば天皇制を守る戦いだといわれるように、非戦闘員すなわち一般住民の「集団自決」も「皇土防衛」「国体護持」作戦の犠牲といえる。
 明治以降、富国強兵の道をまっしぐらに歩んできた日本は、天皇を「神聖にして侵すべからず」と神格化し、国民には、自らの生命を喜んで天皇に捧げるといういわゆる皇民化教育を徹底してきた。
 沖縄では、方言廃止、標準語励行を強要し、方言札まで作って日本化=皇民化教育を実施した。当時は日本軍は「沖縄は民度が低く、殉国思想もなく信用できない」との偏見を抱いていたため、そうでない証(あかし)を示そうと皇民化教育を一層厳しくした。
 だが、軍部はその効果に疑問を持ったのか、皇土防衛のために総力戦を展開するに当たって「軍官民共生共死の一体化」方針を打ち出し、全県民を戦時協力体制へ導いた。日本軍の戦闘員の死者よりも非戦闘員である一般住民の戦没者が多いのも、そんな沖縄「捨て石作戦」の結果である。
 「軍官民共生共死の一体化」方針とは、「軍官民」(軍人、公務員、民間人)すなわち沖縄にいる全ての人は、日本軍と共に生きるか死ぬかのどちらかの道しかないということであり、追い詰められた日本軍が選択したのは、住民も一緒に「共生」していこうということではなく、「共死」へ導くというものであった。こうしたことからこの「集団死」事件における人々の「死」は、あくまでも社会的に強制されたものであるということができる。
 しかも追い詰められた日本軍は、住民スパイ視、そして虐殺、食糧の略奪、避難壕からの住民追い出し、マラリア有病地への住民の強制移動をしただけでなく、住民が米軍の捕虜になった場合の日本軍の秘密がもれるのを恐れて、住民が肉親、友人、知人同士で殺しあうよう誘導し、命令した。「集団自決」はまさにそうした社会的状況と軍の方針の結果であり、軍事的他殺といえよう。
 県下で「集団自決」が起きた現場のほとんどに日本軍がいたことを考えると、「自決」者たちは進めば米軍、とどまれば日本軍という極限状態に置かれ、結局は自らの命を絶たざるを得なくなり、犠牲者を増やしたことこそが沖縄戦の最大の特徴である。

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