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5 「集団自決」

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 楚辺クラガーでの入水「自決」

楚辺クラガー入口
 米軍基地のトリイ通信施設内にある楚辺クラガー(暗川)は、雑木林に囲まれた昼なお暗い洞穴内の湧水である。「暗川」の名もそこからついた。
 古堅小学校から南西へ約一五〇メートル、黙認耕作地の中で無気味なほど静かに湧水を溜め霊気を漂わせている。
 一九九九年楚辺区民が周囲を石垣で囲い、クラガーの入口から中へ向かって整備してある。戦前から今日までずっと拝所となっている。伝説によると約五〇〇年前に発見され、明治の中ごろまで楚辺唯一の飲料用水源だったため、楚辺区民にはまさに命の水であり、それだけ尊い存在として拝まれていたからだ。
 クラガーは約二〇〇〇平方メートルのくぼ地内にあり、くぼ地からさらに二〇メートルほど地下に降りた所に水を満々と貯めている。約七〇の石段を下りてやっと水辺にたどりつくが、そこは暗闇の世界に近い。農業用のポンプの音がなければ無気味さは一層増すに違いない。
 水を貯めている洞穴の形状、面積ははっきりしないが、一帯に詳しい比嘉※※によると、深いところで約一メートル二〇〜三〇センチ、浅い所で約一メートルはあるという。
 「集団自決」はそこで起こった。
 クラガーは楚辺の指定避難所であったため、水辺近くに避難していた人々のうち八人が「入水自決」をして犠牲になったといわれる。
 『楚辺誌「戦争編」』によると「米軍が上陸した四月一日にはすでに、クラガーの上まで米軍は侵入し、クラガーに避難していた人たちは恐怖のどん底に落とされてしまった。『デテコイ、デテコイ』という米軍の呼びかけに応じて、一部の人たちは出て行ったが、『殺される』と再びクラガーに戻ってきた人もいた。そうしているうちに、壕内で息をひそめ恐怖に脅えていた避難民は窮地に追い込まれ、『アメリカーに殺されるよりは、自分たちで……』と、次の八人が『入水自決』し、犠牲となってしまったのである」(六三九頁)とある。

 楚辺クラガーでの犠牲者

(※※)
比嘉※※(明治十年生)

(※※)
桃原※※(明治三十六年生)
   ※※(昭和四年生)
   ※※(昭和六年生)
   ※※(昭和十八年生)

(※※)
比嘉※※(昭和十三年生)

(※※)
山内※※(明治三十二年生)
   ※※(昭和十六年生)

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