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5 「集団自決」

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 恩納村安富祖での「集団自決」

 『楚辺誌「戦争編」』では、楚辺の字民の一部が避難していた恩納村安富祖での「集団自決」を次のように記している。
 「当初《真末喜名口小》、《松田新屋》、《東喜名口》の三家族で、安冨祖のシラカチヤーという所に避難していたが、一か月後に《東喜名口》の家族は楚辺に戻って行った。その後、防衛隊に召集されていた《松田新屋》の長男が、面会にきたが、そのとき手榴弾を持ってきてあったとのこと。ある日、壕内で米軍の銃撃をうけてしまったことから、危機感を感じた二家族は、四月六日、《※※》の長男・※※を水汲みに行かせた後に、手榴弾で『集団自決』してしまった。そこでもまた、二家族一一人が犠牲となってしまったのである」(六四〇頁)。
 屋号「東喜名口」の家族が楚辺に戻った理由は、「おばあが病気で重体という連絡がきて、《東喜名口》の家族は楚辺に戻ることになったので、私も一緒に戻ることにした」。「他に那覇市泊出身の三人家族も一緒であった」(三八七頁)と照屋※※は証言している。話者は、同書で「自決」の日付を四月三日としているが、以下の調査でも日付を特定できなかった。
 この度、恩納村安富祖での調査を実施したところ、当時を知る当山※※(昭和五年生)からその頃の様子を聞くことができた。
 下の明治三十四年頃の地図(『恩納村誌』五四四〜五四五頁)によると、恩納小学校のすぐ北隣が「シラカチヤー」で、さらに道を挟んで北西隣に「ノロドンチ」「村屋」となっており、安富祖でも中心的な場所にシラカチヤーはあった。図中のBが、当山※※の実家であり、Cが「※※」の長男・※※が水を汲みに行かされた井戸のある「泊ヤ」である。沖縄戦当時、図中のDも「※※」の家族が住んでおり、当山はそこにいた。「集団自決」が起こったのは、図中のほぼEとFの地点である。それでは、以下に当山※※の証言を要約する。



『恩納村誌』昭和55年恩納村役場発行(544、545頁)


 「集団自決」があった壕があるところは、高武名原 (タカンナーバル)というところの山の中で、戦後、所有者から買い取った。タカンナーバルの後ろ(北東側)にナガミグヮーバルというのがあるが、そこの山もうちのものだからと、地主は買ってほしいと言ってきた。家族壕は竹藪の中に、谷部から横穴式に二つ並んで掘られてあったが、今は土砂で埋まっている。この山は沖縄戦の頃は、竹山で、山道がちゃんとあって馬も通った。
 うちのナガミグヮーバルの山は「杉山」で一、〇〇〇本ぐらいの杉が植えられていた。元の家(フカヌフジチ)の床も自分たちの山から切り出した杉で造った。その後ろが、トゥマイヤー(泊屋)と言われたところで、たぶん泊から来たんだろうね。そこの井戸に水汲みに行かされたんだね、生き残った防衛隊の人は。今私の長男が住んでいる二階建ての家(図中のD)が戦争中の私たちが住んでいた家で、家は道を挟んで二つあった。ナガミグヮーバルの杉山には、この辺の人たちがみんな竹や木の枝などを使って避難小屋を造って、避難した。避難小屋は一五ほどあった。避難壕も掘ってあったが、今残っているのは一つだけ。他はつぶれてしまって埋まっている。避難壕は、杉山の谷の方から横穴式に掘ったものだった。
※※が水汲みに行った「泊ヤ」の井戸
 シラカチヤーの人たちが「自殺」してはじめて読谷の人たちが来ていたということを知った。臭くてその場所を通れなくなったから、いきさつを聞いて知っただけ。読谷の人たちがいつ頃から来ていたかはわからない。「※※ちゃん」が水汲みにいっている間に家族は「自決」したということだけ。それ以上は知らない。眞榮田※※という人がいるが、彼は米軍の攻撃で腰から腹に抜ける銃創を負ったが、その「※※ちゃん」がたすけてくれたということだった。
 私たちは米軍上陸と同時に、恩納岳方面に逃げた。恩納岳に行く途中に上原(イーバル)という屋取があって、そこに避難していた。米軍が上陸して一〇日ほどで捕まえられて、石川に連れて行かれた。でも警備も手薄だったので、また石川岳から恩納岳を通って逃げてきた。
 安冨祖から、米軍は恩納岳に潜んでいる護郷隊への攻撃のため、戦車などで進んでいった。だから道はフクギもつぶされて広い道になった。安冨祖には暁部隊もいた。護郷隊は山にいて、台湾からの米を山に運んでいた。安冨祖集落から恩納岳に川沿いに進むと、滝があるが、そこが護郷隊の第一陣地で、そこで待ち伏せて、アメリカ兵も随分やられた。本部があったところは「アイヌクビ」(蟻の首)と言われるところで、そこには野戦病院もあったが、戦後行ってみたら、担架に乗せられたままの死体がいっぱいあった。護郷隊は、食糧は十分にあった。焼けない前の安冨祖集落の各家には米が積まれていた。米の倉庫にしていたのだ。浜に舟艇で乗り上げて、米を運んでいた。だから、山に逃げてからも、米を取りに部落に下りていった。
 「集団自決」した場所には、まだ三人の遺骨が残っていると聞いている。首里からコーサクヤーというところに、子守りとして来ていた女性がいたが、その女性にふたり子どもがあって、その母子三人の遺骨だと言われている。なぜ子守りの女性がシラカチヤーに来ていた読谷の人たちを頼ったのか。戦争になって、頼る人も居なくて、何となく頼っていって、隣り合って壕を掘って避難していたんじゃないか、と言うことだった。その女性は、家が貧しくて、「糸満売り」「ジュリ売り」の時代に「子守り」として売られてきているから、実家に頼れず、読谷の人たちを頼ったんだろうね(二〇〇一年七月十三日聞き取り)。
 『楚辺誌』では、「那覇市泊出身の三人家族」となっているが、当山の記憶では、首里出身だったという。

 安富祖での犠牲者

(※※)
照屋※※(明治六年生)
   ※※(明治二十八年生)
   ※※(明治三十六年生)
   ※※(大正十四年生)

(※※)
松田※※(明治三十一年生)
   ※※(明治三十六年生)
   ※※(昭和四年生)
   ※※(昭和十年生)
   ※※(昭和十三年生)
   ※※(不明)
   ※※(昭和十五年生)

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