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5 「集団自決」

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右手上の林の中に家族壕はあった

戦後土砂崩れで埋まってしまった家族壕の方に手を合わせる当山※※さん

 

 クーニー山壕での「集団自決」

 伊良皆部落の東にあるクーニー山壕は、今では地形が変わり所在ははっきりしないが、現在の嘉手納弾薬庫内にあった。
 クーニー山壕は旧日本軍が掘った壕で、松の木でしっかりと枠が組まれ、中はかなりの広さがあった。戦火が激しくなり、日本軍が壕を捨て退却したため、住民がわずかばかりの家財道具を持って入ってきた。それが「集団自決」という悲劇につながるとはだれも予想しなかったであろう。
 悲劇を予感させたのは米軍が本島に上陸した翌日の一九四五年四月二日の出来事だった。
 壕の中には伊良皆区民を中心に楚辺、比謝、大湾の住民らも加わっていた。その住民らが不幸だったのは、壕内に部隊からはぐれた日本兵が二人いたことだった。
 四月二日の夕方、クーニー山壕も米軍に発見され、米兵は壕内探索に入って来た。生存者の証言によると、米兵は攻撃のようすはなかったという。
 そんな中、突然日本兵の一人が銃を発射、米兵一人を射殺した。米軍はすぐに退却、壕内は重苦しい空気に包まれたままその日が過ぎた。
 翌日は、壕の周辺は米軍によって放火され、壕内にも放火用に使ったとみられる油の臭いがたちこめた。生存者の一人は「壕から出ると、山は全部焼かれていた」と後に証言している。
 壕内が修羅場と化したのは午前十時半ごろだったという。日本兵が「死にたいのは集まれ」と大声で叫び、十数名が集まったとたん手榴弾が爆発した。死者は住民一四人、兵士二人だったとされる。壕内は暗くて広かったため、何人が避難していたか判別できない状態だったことを考えると、死者はもっといたかも知れない。犠牲者の一人上地※※は、このほど新しく判明した。
 犠牲者や遺族の悲劇は戦後も続いている。一帯が米軍に接収されフェンスが張りめぐらされたため、収骨もできずに野ざらし状態にあるからだ。
 収骨話が出たのは一九八三年二月だが、米軍基地ということもあり厚生省もなかなか重い腰をあげなかった。ようやく一九八九年十一月二十九日から同省による「沖縄戦戦没者遺骨収集」が行われた。しかし、遺族の願いむなしく、一柱の遺骨も収集できずに作業は終了した。いまだに全容が解明されぬままであり、遺族らは二重の悲しみを背負い続けている。

 クーニー山壕での犠牲者

(二〇〇一年七月末現在判明分)
呉屋※※(明治三十年生)伊良皆・※※
伊波※※(大正十三年生)伊良皆・※※
伊波※※(昭和十七年生)伊良皆・※※
松田※※(大正七年生)伊良皆・※※
松田※※(昭和十六年生)伊良皆・※※
松田※※(昭和四年生)伊良皆・※※
松田※※(明治三十三年生)伊良皆・※※
比嘉※※(昭和七年生)伊良皆・※※
比嘉※※(明治二十九年生)伊良皆・※※
伊波※※(大正二年生)伊良皆・※※
松田※※(明治八年生)伊良皆・※※
松田※※(明治三十七年生)伊良皆・※※
当山※※(慶応二年生)伊良皆・※※
上地※※(大正十四年生)伊良皆・※※
比嘉※※(大正六年生)波平・※※
松田※※(慶応三年生)楚辺・※※
(犠牲者名簿資料提供・伊波※※)

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