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5 「集団自決」

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 その他の「集団自決」

 長田の字概況では、屋号※※の山内※※と娘※※の「自決」を記している。米軍上陸のその日、長田の自宅にいた父※※のところへやんばるに避難していた娘※※が食料を貰いにきた。二人は、長田の壕内で豚をつぶし、担いで外に出ようとしたところに、突然米兵がパラシュートでたて続けに降下してきたため、恐怖におののいた父が娘を殺害し、自らも命を絶ったというものである。
 波平では、チビチリガマ以外に家族壕での「自決」事件も起こっている。当時、三歳の娘を連れて、母がいた波平の樽喜友名(タルーチョンナー)と共に行動していた比嘉※※(当時二十三歳)の証言を以下に要約する。
 米軍が上陸した四月一日、ナーカヌカーのところのくぼみに造ってあった家族壕から反対側斜面上の道を見ていたら米兵が歩いているのが見えた。夕方になって、このままでは危険だと思ってナカブクの壕に避難しようと家族壕を出た。一緒だったのは、義父、母、※※本人とその娘(当時三歳)、「※※」の大城※※(明治八年生)、※※(明治三十一年生)、※※(大正十年生)の七人であった。高志保から長浜へ通じる道を歩いていたら、急に射撃され父は弾が腹から背中に貫通する大けがをし、比嘉※※自身も左膝下(ふくらはぎ)を貫通するけがを負った。「※※」の大城※※大おじいはこの時撃たれてくぼみに落ちた。撃たれた場所は、「マヤージーグヮー」と呼ばれていた所の近くだった。これ以上進むことは出来ないと、それまで居た波平の家族壕に引き返すことにした。家族壕は、隣り合った近くの家族でそれぞれ掘ったが、「湾田西門」と「前ン当」と「樽喜友名」の三家族の壕は中で連絡通路が掘られつながっていた。その向かい側に「前ヌ前宇座」の壕もあった。夜になって、やっと家族壕にたどり着いたが、母が前ヌ前宇座の壕がなにやら騒がしい様子に気づき、中をのぞいた。すると、その壕の中では、日本兵であった知り合いが持ってきた手榴弾で「自決」しようとの話で、中をのぞいた母に一緒に中に入るかと誘ったという。私たちを誘いに戻った母は、状況を説明したが、義父は血が噴き出すほどの大けがで歩けないし、どうせ死ぬなら自分たちの壕で死のうということになり、母は前ヌ前宇座の壕に断りにいった。するとすでに手榴弾が爆発していて土煙や火薬の臭いがした。母は、中には最低でも四、五人の人がいたと言っていたが、それで亡くなったのだと思った。すぐに家族壕に戻った母は、湾田西門の家族も一緒に相談して、ねずみ取り用の毒を飲んで死のうと考えた。湾田西門にチュウブ入りの毒薬を取りに行って、それを飲むことになった。比嘉※※の娘(三歳)は、それを飲むことを拒んだ。※※の母は「おかあさんもおばあちゃんもいなくなって、一人で寂しい思いをするから、さー飲んで」と何度も飲まそうとした。今でもその時のことを思うとぞっとするという。それぞれに飲んだが、どういう訳かみな死ねなかった。※※自身は手足に少ししびれがあったが、途中でもどして致命傷にはならなかった。
 翌四月二日になって、三つつながれた真ん中の壕に※※の上原※※おばあがやってきた。シムクガマに避難していた彼女は、すでに米軍に収容されていた。家族壕からおばあを見ると、「波平の人たちは、みんな都屋に居るよ、いっしょ行こう」と言った。「友軍ねー」と※※が尋ねると「そうだよー」と言うので壕から出て見たら、アメリカ兵が一緒だった。それで驚いてまた壕に入った。すると米兵は、「デテコイ、デテコイ、コロサナイ」と手招きした。娘にチョコレートをあげようと、その米兵は自分で割って食べてみせた。逃げることもできず、上原のおばあと一緒に都屋に向かうことになった。大けがをした義父は、米兵がどこかの戸をはずしてきて担架にして運んでくれた。米兵の治療のおかげで助かった。
 前ヌ前宇座の壕で何人亡くなったかはわからないが、四月一日の夜の出来事であった。
 前ン当のおばあは家族にとっては命の恩人、いまでも本当に感謝している。あの時、上原のおばあが壕に来なければ、今の私たちはいないと何度も感謝の気持ちを語った(二〇〇一年七月末から八月初めに聞き取り。氏名、生年は戦災実態調査票から)。
 また、知花※※(昭和八年生)によると、その近く「湾田ガー」の所には北飛行場設営部隊が駐屯しており、近くに炊事場があった。前ヌ前宇座の壕は、その設営部隊が掘ったものであったという。
 詳細はわからないが、「平和の礎」の刻銘者資料で、「自決」として波平から申請されているのは次の人々である。「※※」の知花※※(明治三年生)、知花※※(明治五年生)、「※※」の知花※※(明治二十三年生)、知花※※(明治三十二年生)、「※※」の知花※※(明治二十二年生)、知花※※(大正十五年生)、知花※※(昭和十三年生)等となっている。

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