第七章 慰霊の塔は語る


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五 その他の慰霊碑

チビチリガマ世代を結ぶ平和の像及び記念碑


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・所在地   波平一一三六番地の二
・建立年月日 一九八七年四月二日除幕
       一九九五年四月二日再建
・慰霊祭   四月二日
・刻銘者数  八五人
・建立経過等  チビチリガマ遺族会では、二度とチビチリガマの悲劇を繰り返してはならないとの思いと、チビチリガマで亡くなった人々の慟哭を忘れず、次の世代へ伝えようとモニュメントの制作を発議した。そして、一九八六年十二月から翌八七年三月末までに「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を、波平の小公園(チンマーサー)で彫刻家※※氏と遺族、児童生徒らとともに制作。その後チビチリガマ入口横に制作した「平和の像」を設置して、一九八七年四月二日除幕式を行なった。
碑文
 チビチリガマから世界へ平和の祈りを
 
 一九四五年四月一日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米兵はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌二日、チビチリガマへ避難していた住民約一四〇名中、八十三名が「集団自決」をした。尊い命を喪った。
 あれから三十八年後、やっと真相が明らかになった。その結果、八十三名のうち約六割が十八歳以下の子供たちであった。その他、二名が米兵の手によって犠牲になった。
 「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ。」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。
 遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から七ヵ月後、十一月八日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
 全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから七年余が経過し、平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄戦終結五〇周年にあたり、ふたたび国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここにこの碑を建立する。
一九九五年四月二日 チビチリガマ遺族会
「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」記念碑全景
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「チビチリガマの歌」
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古堅国民学校対馬丸遭難学童慰霊碑(古堅小学校)


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・所在地   楚辺九九九番地の一
・建立年月日 一九九〇年(平成二)八月二十二日
・慰霊祭   特定日なし
・合祀人数  一五人
・建立経過等  一九八三年(昭和五十八)十二月十六日、対馬丸遭難学童遺族会(新里※※会長=当時)は、古堅小学校(渡久山※※校長=当時)を訪れ、一本の桜の苗木を植え、傍らに大名小学校六年上間※※君の「対馬丸」と題した詩を書いた札を立てた。同校の前身古堅国民学校の児童も対馬丸と運命をともにしていたのである。
 その後、渡久山校長は、折につけ児童たちに桜の木の由来と対馬丸の悲劇について話してきたが、いつしか木製の立て札は腐食がはなはだしくなり、字も判読できない状態になってしまった。それで、渡久山校長の退職に際して、後任者とも相談の上、石碑を建立することにした。完成は、一九九〇年(平成二)の夏休み期間中の八月二十二日であった。台座には遭難した児童たちの氏名と学年を刻んだ黒御影石がはめ込まれ、白大理石には
「痛恨
 春めぐり
 花は咲けども
 悪石(あくせき)の
 水底(みなそこ)の子ら
 あの齢のまま」  (渡久山朝章作)
 が上間※※書で刻まれている。「慰霊桜」は成長し、夏の強い日差しの中、やわらかい木陰を作り、石碑を見守っている。
なお、上間※※君の詩「対馬丸」は次のとおりである。
 船は沈んでゆく。
 子どもたちをのせて沈んでゆく。
 命といっしょに沈んでゆく。
 
 船は魚雷にこわされた。
 子どもの夢もこわされた。
 平和もいっしょにこわされた。
 
 船はどこへ行ったのだろう。
 子どもたちはどこへ行ったのだろう。
 幸せはどこへいったのだろう。
 
 船をのみこんだ海はなに知らぬ顔をして、
 今日もキラキラ輝いている。
 子どもたちの悲しい叫び声も、
 聞こえなかったふりして、
 波はユラユラゆれている。
校門から校舎に向けて進むと左側の花園の中にあり、さくらの木が優しい陰をつくる
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犠牲者の氏名を刻む
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梯梧之塔


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・所在地   喜名四六六番地の二
・建立年月日 一九四八年(昭和二十三)五月
       一九五六年(昭和三十一年)七月十五日(移築)
       一九九二年(平成四)五月三十日(再建)
・慰霊祭   五月三十日
・合祀人数  七百余柱
・建立経過等 梯梧之塔沿革
 一九四八年(昭和二十三)五月喜名部落移動なるや区長松田※※氏は部落東方山地に散乱せる沖縄戦戦没勇士の遺骨を見るに忍びず区長代理漢那※※氏青年会長平良※※氏と図り、監視松田※※氏照屋※※氏高良※※氏外数名の援助と青年会全員の協力により遺骨を蒐集し近くにある洞窟に安置し慰霊の碑を立てたので有ります。
 南国情緒豊かな梯梧の木を植えたことにより、郵便局長金城※※氏は梯梧之塔と命名しました。
 ところが、その場所は立入禁止区域の為、参拝に不自由をきたしたので、一九五六年(昭和三十一)七月区長玉城※※氏は駐在巡査、内間※※氏、外各位の協力のもと広く浄財を集め数万円の建設資金により七月十五日この梯梧之塔は竣工したのであります。
 尚、又吉※※氏は、この地に梯梧之塔、さくらの塔を建立する趣旨に快く賛同され、同氏の土地を提供するなど絶大なご協力を賜りました。
 建立年月日 一九五六年七月十五日
 建設委員 喜名区長 玉城※※
        書記 饒波※※
     村議会議員 玉城※※
       同   松田※※
      駐在巡査 内間※※
      青年会長 屋良※※
      成人会長 石嶺※※
      婦人会長 翁長※※
      有志代表 喜友名※※
      有志代表 石嶺※※
 再建
 これまでの梯梧之塔は、戦後資材の乏しい時代に造られた関係で、その損傷が甚だしく陥没の恐れありと感じた行政区長は、審議員会に図り其の同意を得て再建に乗り出した。
 区民外多数のご協力を得て此の度半永久的に立派な梯梧之塔を完成させることが出来ました。
 完成年月日 一九九二年五月三十日
 建立委員 区長 宇根※※
      書記 翁長※※
      会計 長浜※※
      喜名区審議委員会
      喜名区建設委員会
沖縄戦
無名戦没勇士七百余柱の霊
歌文
 さきほこる
  はなびらちらし
   でいごじゅに
 くれないそめて
  なつはきにけり

調査協力

 各字公民館
 新崎※※(字比謝矼)  伊波※※(字伊良皆)、
 伊波※※、知名※※、新垣※※(字古堅)
 大城※※(字高志保) 松田※※(字楚辺)

参考資料

 『字大木慰霊碑建立記念誌』大木公民館
 「慰霊碑建立経過報告」渡具知公民館
 『永和の塔再建立記念誌』座喜味公民館
 「儀間永魂之塔改築資料」儀間公民館
 『残波の里―宇座誌―』宇座区公民館
 「高志保区審議録」高志保公民館
 『渡慶次の歩み』渡慶次公民館
 『波平の歩み』波平公民館
 『喜名誌』喜名公民館
 『都屋誌』都屋公民館
 『都屋慰霊之碑建立落成記念誌』都屋公民館
 『平和な未来を見つめて』
   読谷村・沖縄戦終結五〇周年記念事業記念誌
   読谷村役場発行
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