第七章 慰霊の塔は語る
四 字民を祀る慰霊の塔
さくら之塔(喜名)
・所在地 喜名四六六番地の一
・建立年月日 一九五九年(昭和三十四)五月二五日
一九九二年(平成四)五月三〇日改築
・慰霊祭 五月三〇日
・合祀人数 一六七柱
・建立経過等 元は読谷山村役場敷地内にあって、日清・日露・支那事変で戦没した喜名出身の軍人の霊を祀ってあったが、一九五九年(昭和三十四)に字民の拠金で現在地へ建立。梯梧之塔と一緒に慰霊祭を行なっている。
碑文
やまざくら
あらしにちるも
はるくれば
いろかはたかく
さとにみなぎる
永和の塔(座喜味)
・所在地 座喜味一五五番地の一
・建立年月日 一九五一年(昭和二十六)八月十五日
一九八五(昭和六十)七月再建
十一月除幕式
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 一班三三柱・二班三二柱・三班二七柱・四班四八柱・五班二三柱 計一六三柱
・建立経過等 一九五一年(昭和二十六)に字民総出、青年会の協力で、恒久平和と戦没者の御霊供養のために永和の塔を建立した。その後、一九八三年(昭和五十八)頃から再建立の話が持ち上がり、翌八四年十月区民常会で再建立委員会メンバー一三人が承認された。
一九八五年(昭和六十)五月十八日に工事着工、七月二十八日に工事が完了した。十一月二十三日に除幕式及び慰霊祭を行った。
旧「永和の塔」
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慰霊之塔(伊良皆)
・所在地 伊良皆五七一番地
・建立年月日 一九五九年(昭和三十四)十一月十五日
一九九五年(平成七)六月刻銘碑再建立
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 旧軍人六四柱・軍属八柱・一般住民二五柱 計九七柱
改築後軍人六三柱・軍属九柱・一般住民一一二柱 計一八四柱
・建立経過等 戦争のために亡くなられた多くの犠牲者の霊を慰め、戦争の悲惨さを子孫に伝えたいということで建立した。建立当時の区長は伊波栄治氏、書記は伊波※※氏である。「慰霊之塔」の文字はノミやドライバーなどで彫った。最初の刻銘碑はセメントだったが、台風で倒れたため造り直した。旧刻銘碑には軍人・軍属と直接戦闘で亡くなった一般住民だけを彫ってあったが、戦災実態調査を行ったところ、新たに多くの戦没者が確認できたため、一九九五年(平成七)に刻銘碑を再建立した。
平和の塔(波平)
・所在地 波平二二二番地の一
・建立年月日 一九二八年(昭和三)九月 忠魂碑建立
一九五一年(昭和二十六)十二月
平和の塔建立
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 軍人一三四柱・軍属五八柱
一般住民一三五柱(チビチリガマでの犠牲者のうち二八柱を
一九八七年(昭和六十二)六月に追加刻銘)計三二七柱
・建立経過等 一九〇五年(明治三十八)の日露戦争における戦没者三人を合祀するため一九二八年(昭和三)に建立された忠魂碑は、「大東亜戦争」の戦禍を避けることができなかった。その弾痕痛ましく残存する忠魂碑に胸を痛め、当時の青年会の主唱により、太平洋戦争で殉難した諸氏の御霊を慰める慰霊塔建設の話が持ち上がり、一九五一年(昭和二十六)十一月の戸主会に提案、満場一致で承認されると同時に、建設委員一五人が選出され、建立に取り組んだ。字が資材工費の一部を負担し、一戸当たり二五円を負担、青年会が労務負担をした。十二月九日より青年会員を総動員して建設作業開始。十二月三十日に総工費二万二二〇八円で完成した。
字民の犠牲者を刻む
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「救命洞窟之碑」
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塔の名前は一般公募し、知花英康氏提案の「平和の塔」とした。永遠の平和を祈念するという思いが込められている。九死に一生を得て生きのびて命の尊さを知る者は、世界平和の建設に努力し、郷土の建設と人類社会の平和に貢献することが殉難者の御霊に対する責務であり、せめてもの慰めであろう。知花英康氏が詠んだ次の歌が刻まれている。
知花英康氏が読んだ歌を刻む
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戦ひのぎせいとなりて
とこしえに
平和の神と あがめ祭らる
また、波平区では戦後五〇年事業としてシムクガマに「救命洞窟之碑」を建立した。
慰霊之碑(都屋)
・所在地 都屋四四一番地
・建立年月日 一九九六年(平成八)十二月三日
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀数 五五柱
・建立経過等 都屋海岸一帯は、米軍の上陸地点となり、家財道具はもとより一木一草に至るまで焼き尽くされ、地形も変わるなど、文字どおり焦土と化した。そして軍人軍属をはじめ一般住民を含めて五五人が犠牲となった。
戦後五〇年を節目に全ての戦没者を刻銘し、その御霊を慰め、世界平和を希求するため「慰霊之碑」を建立することにした。
具体的な経過は、一九九五年(平成七)七月坂本※※(旧姓古堅)らが発議し、同年八月十五日「遺族有志の会」で字全体の事業として建立したい旨区長へ陳情した。一九九六年(平成八)二月審議委員会にて「準備委員会」(仮称)設置を検討し、同年四月十一日「戸主会」にて全会一致にて建立を承認した。それに基づき慰霊之碑建立実行委員会(古堅※※委員長)のもと同年九月十五日に着工し、同年十二月三日に落成した。そして同月十五日除幕式及び落成式を挙行した。
戦没者名のあとに「鎮魂」と題して次のように刻まれている。
「慰霊之碑」に向かって右側にある漢詩碑
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むごき戦に身まかりし
ああ父母よいとし子よ
夫よ妻よはらからよ
さまよえる魂(たま)今いずこ
かえりきませよふるさとへ
生まれ育ちし都屋の地へ
われら反戦誓ひてぞ
ここにいしぶみ建ておきて
君が名刻みおきたれば
とわに鎮まり安らかに
眠りたまへや父祖ともに
なごみの波の音聞きながら
護永之塔(高志保)
・所在地 高志保二一七番地
・建立年月日 一九五七年(昭和三十二)夏
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 「支那事変」六柱・「大東亜戦争」九五柱・一般住民一五一柱 計二五二柱
・建立経過等 沖縄戦が終わり、ようやく生活が落ちついてきた一九五四年(昭和二十九)頃から、戦争で亡くなった方々の霊を慰めようということが区民の間から出てきた。それから一九五七年(昭和三十二)頃にかけて戸主会・遺族未亡人集会・高志保区遺族会等で慰霊之塔建立のことが話し合われるようになった。それをうけて遺族の方々に戦死者を申告してもらい、字予算で慰霊碑を建立した。碑名を揮毫したのは大城※※氏である。建立場所については色々論議されたが、出征軍人の見送り場所でもあった戦前の字事務所跡(現在地)に決まった。碑名については、みんなで永久に平和を護っていこうということで「護永之塔」とした。
慰霊祭から
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碑文
護永(ごえい)の御柱(みはしら)
永久(とこしえ)に祭(まち)て
世界国々(せかいくにぐに)の
平和御願(へいわうにげ)
祈祷
忠魂碑(渡慶次)
・所在地 渡慶次二二七番地の一
・建立年月日 一九一三年(大正二)十月在郷軍人会により建立
一九五〇年(昭和二十五)十二月「大東亜戦争」犠牲者刻銘碑建立
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 軍人六七柱・軍属三一柱・一般住民等二三柱 計一二一柱
・建立経過等 「碑誌」より
一九一三年(大正二)十月 在郷軍人会により建立
一九二九年(昭和四)十月改築
台風で破壊されたため石工池原蒲氏
碑の大字は当時渡慶次尋常小学校長の喜屋武保撰氏の筆
一九五〇年(昭和二十五) 台風で倒れる
右側の柱修繕 山城※※氏
一九五〇年(昭和二十五)十二月
「大東亜戦争」犠牲者刻銘碑建立
一九六六年(昭和四十一)六月 美化工事 健青会による
一九八四年(昭和五十九)六月 亜細亜大理石工芸社により改修
建立、修繕等の記録を記した「碑誌」
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「忠魂碑」頭部
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碑の歌は神谷※※氏が一九六六年(昭和四十一)六月に詠じ碑に刻む
「忠魂碑」正面に刻まれた碑文
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碑文
同胞(はらから)を護りて
逝(ゆ)きし
御霊(みたま)をば
まつりて
永久(とわ)に
平和願はむ
永魂之塔(儀間)
・所在地 儀間一四五番地
・建立年月日 一九五七年(昭和三十二)十一月八日
一九九五年(平成七)六月二十三日改築
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 旧軍人四二柱・軍属一六柱・一般住民五四柱
計一一二柱改築後計一四九柱(「平和の礎」刻銘対象者追加)
・建立経過等 一九五七年(昭和三十二)に字予算より拠出して「永魂之塔」を建立したが、三八年の歳月を経て老朽化し損傷が甚だしかったことと、終戦五〇年の節目にあたり、今一度恒久平和への誓いを強めるため改築することになった。石碑の石は山内※※氏の寄贈、文字は山城※※氏の直筆である。
戦没者の刻銘については「平和の礎」の刻銘対象者とした。
旧永魂之塔碑文
うちよせる浜の真砂(まさご)は
つきるとも
ねむるみ霊は
永久(とわ)に尊し
宇座守の塔(宇座)
・所在地 長浜一七四四番地の一及び一七四五番地
・建立年月日 一九六五年(昭和四十)八月十五日
一九八七年(昭和六十二)六月二十三日
刻銘板改修
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 第一次世界大戦 軍人一柱・日中戦争軍人一柱
太平洋戦争(軍人五二柱・軍属二六柱・戦闘参加者九柱
一般住民五〇柱) 計一三九柱
・建立経過等 ヤーガーで死亡した三一柱の遺骨を収集し、一九五〇年(昭和二十五)三月二十九日ヤーガーの上に「慰霊塔」建立。それとともに戦場で戦死した兵士の御霊を招き鎮めるために「招魂之碑」を建立。新しい集落に一段落後、旧集落にあった二つの塔を統合した形で、区民の物心両面の援助と協力のもと「宇座守の塔」を建立した。碑名揮毫者は山内※※氏、建立当時の区長は山内※※氏である。宇座守の塔の主な建立経過は次の通りである。
一九六五年(昭和四十)
二月二十二日 建設委員会発足
六月二十三日 着工(戦後二〇周年事業)
八月十五日 完成。総工費二二四五ドル九一セント
九月十九日 除幕式並びに合祀祭
永和之塔(瀬名波)
・所在地 瀬名波一三八番地
・建立年月日 一九六九年(昭和四十四)九月
一九九八年(平成十)六月一部改修
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 日露戦争一柱・「大東亜戦争」七四柱(陸軍六二柱・
陸軍軍属六柱・海軍軍属六柱)計七五柱
改修後一般住民六〇柱追加。計一三五柱
・建立経過等 建立当時の区長は松田※※氏、遺族会長当山※※氏。
「平和の礎」調査により、一般住民六〇人の犠牲が判明。一九九八年(平成十)六月、遺族会と字とでその人々を刻銘するため刻銘板を改修した。
真砂之塔(長浜)
・所在地 長浜二三三番地の二
・建立年月日 一九五九年(昭和三十四)六月
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 一〇四柱
・建立経過等 字民から寄付を募り、青年会が中心になって建立した。建立当時の区長は長浜※※氏、書記は津波※※氏、青年会長は与久田※※氏。碑名揮毫者は與久田※※氏。
1960年6月の慰霊祭から
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慰霊之塔(楚辺)
・所在地 楚辺一九二三番地
・建立年月日 一九六〇年(昭和三十五)十一月十五日
一九九四年(平成六)六月二十三日刻銘板と歌碑工事
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 旧 三四五柱
改築後 四三三柱
・建立経過等 字の慰霊之塔ができるまでは、奥武山で行われていた県の慰霊祭に参加していた。楚辺出身戦没者の霊を字で祀ろうという話が出てきたので、審議会にかけて予算(千ドル)を計上した。一九六〇年(昭和三十五)頃は字で慰霊之塔を建立しているところは少なかった。どんな塔にするかを決めるため、当時の遺族会長・区長・青年会長らが村外の慰霊之塔視察を行なった。建立場所についてはいくつかの案が出たが、ユーバンタに決定した。その後、班ごとの割当で人夫を出し、労力の提供をしてもらうなど字民の協力で塔は建立された。建立当時の区長は松田※※氏である。建立後も敷地を整えたり、傷んだところを修繕・改修するなどの管理を行なっている。一九九二年(平成四)には慰霊之塔の三三回忌を行い、慰霊之塔敷地で奉納舞踊などを行なった。また、亀裂が生じていたことと、調査により新たに戦没者名が確認できたため、一九九四年に刻銘板と歌碑の改修を行なった。
歌文
くにのため
あだなすなみに
みをとして
いそべにねむる
みたまとうとし
「慰霊之塔」の正面に刻まれた「歌文」
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慰霊祭で焼香する遺族・関係者
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慰霊之碑(渡具知)
・所在地 渡具知二四六番地の二
・建立年月日 一九九五年(平成七)十二月二十八日除幕
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 一九八柱
・建立経過等 一九九五年(平成七)三月の評議委員会で戦後五〇年事業として慰霊碑建立と字誌(戦争編)に取り組むことが話し合われ、六月「字渡具知戦後五十年事業実行委員会」が結成された。刻銘名簿整理等建立準備期間を経て、十一月八日に工事着工し十二月二十八日に除幕式が行われた。
碑文
慰霊之碑建立
終戦五十年を節目に戦争で亡くなった戦没者の皆様方の貴い犠牲を無にすることなく、かけがえのない恒久平和を願い、心から追悼の意を表し、今日の平和と、繁栄、豊かな生活が出来るのもすべて戦争で亡くなった方々の犠牲の上に築かれている事を、区民一同ひと時も忘れる事はできません。
慰霊之碑に皆様方の氏名、屋号を刻印し、永久に渡具知区の守り神として奉り、二度と戦争をおこしてはならないと誓い、世界の恒久平和を念じ、あの悲惨な戦争を後世に、正しく伝えるため、慰霊之碑を公民館敷地内に建設した。
記 建設委員会
一九九五年十二月吉日建立
区民一同
「碑文」と「慰霊之碑」全景
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慰霊之碑(比謝)
・所在地 比謝八九番地の二
・建立年月日 二〇〇三年(平成十五)六月二十三日除幕
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 五八柱(一般、軍人等含む)
・建立経過等 二〇〇一年(平成十三)、比謝区では比謝祭祀場建立委員会を立ち上げ、老朽化が進んだ御神屋の改修とともに、沖縄戦で亡くなった人々への哀悼の意を表すため、さらには二度とあの悲惨な沖縄戦のような戦禍が起こらないようにと慰霊碑も同時に建立すべく動き出した。
折しも二〇〇一年(平成十三)は比謝出身で「佐久川いも」の新品種を育成した佐久川清助氏の生誕一五〇年にあたり、読谷村では記念碑の改修やシンポジウムなど各種の記念事業が展開されることになった。
こうした事業の一環として、二〇〇三年(平成十五)六月、比謝スポレク公園(二〇〇一年三月完成)の隣地(字大湾有地)を譲り受け、懸案であった慰霊碑を建立した。
建立された「慰霊之碑」には、戦場であるいは避難途中に飢えや戦火に倒れた〇歳から八十二歳までの五八人の比謝区民が刻銘されている。
慰霊塔(大湾)
・所在地 大湾五八五番地及び五八六番地
・建立年月日 一九五九年(昭和三十四)十二月十三日
一九七六年(昭和五十一)八月十九日移設
一九九八年(平成十)一月七日戦没者名板取替
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 軍人及び軍属計四三柱
追加刻銘後、計一四二柱
・建立経過等 戦後、字大湾の人々が古里大湾に戻ることが出来たのは、一九五一年(昭和二十六)になってからであった。字民の生活が幾分安定してきた頃、戦没者の霊を慰め、二度と沖縄戦のような惨禍に見舞われることがないようにとの思いと、恒久平和を誓うため慰霊の塔を建設しようとの声が高まり、一九五九年(昭和三十四)十二月十三日に完成を見た。
最初に建立した一九五九年(昭和三十四)から一九六五年(昭和四十)までは、建立日に慰霊祭を開催していたが、一九六六年(昭和四十一)から「慰霊の日」と定められた六月二十三日に行なわれている。
大湾区民運動場建設により、丘の頂上部から運動場の北東部へ移設、本体の大きさ、構造は建立当時のままである。刻銘板は、建立当時は白セメント製で、軍人軍属の四三柱を刻み祀ってあったが、移設時(一九七六年八月)に黒御影石へ変更(刻銘者数は同じ)した。一九九八年(平成十)、「平和の礎」刻銘者調査により新たに判明した犠牲者九九人の氏名を追加刻銘し、合計一四二柱を祀り、慰霊祭を行なっている。
雨の中、焼香する遺族
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建立、移設等の記録を記した碑
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字民全体での慰霊祭
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慰霊之碑(古堅)
・所在地 古堅三三番地(古堅ウガン内)
・建立年月日 二〇〇二年(平成十四)六月二十三日
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 軍人及び軍属四八人
一般八〇人、計一二八人
・建立経過等 敗戦後、大木地域への帰村から旧公民館周辺の古堅地域の開放によりそこへ移り、復興に取り組んだ。一九六一年(昭和三十六)には旧公民館ができ、しばらくして慰霊塔建設の議論がでたが、いろいろな事由で先延べになった。
その後、一九九九年(平成十一)三月末に現在の公民館が完成し、懸案であった慰霊塔の建立が新垣※※(東新垣)らから提起された。そして、二〇〇一年(平成十三)八月頃から新垣※※、伊波※※、伊波※※、奥原※※らを中心に字内で慰霊塔建立に向けた署名運動を行った。その結果多くの字民の賛同署名を得て、同年十月二日に字の評議委員会に諮り、同年十月五日の戸主会で建設が承認され、場所は古堅ウガン内と決定された。
その後、建設委員会によって字民の戦没者の確認作業が続けられ、二〇〇二年(平成十四)四月十日、軍人軍属・一般住民の戦没者名簿が確定された。
二〇〇二年(平成十四)四月一日、池原※※によって慰霊碑の設計図及び模型が完成した。そして同年四月二十七日に起工式が執り行われ、六月二十三日の慰霊の日の完成を目指し工事が進められた。
「慰霊之碑」の揮毫は新垣※※氏である。
「慰霊之碑」除幕の瞬間
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最初の慰霊祭に参加したみなさん
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「追悼のことば」を述べる伊波※※さん
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慰霊碑(大木)
・所在地 大木三七九番地
・建立年月日 一九八一年(昭和五十六)三月二十七日建立
四月十九日除幕式
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 軍人・軍属計四五柱
・建立経過等 再び悲惨な戦争が起こらないよう、世界の恒久平和を祈願し建立した。
建立のことば
去る世界大戦中戦歿された幾多の御霊にたいし限りなき思慕の情を寄せ供養するため徳武佐の丘の聖地を選び遺族関係者並に区民の真心によってここに慰霊の碑を建立す
御霊の永久に
安らかならんことを祈る
昭和五十六年三月二十七日
大木遺族会
区民一同
慰霊碑(比謝矼)
・所在地 大湾三番地
・建立年月日 一九九五年(平成七)六月二十三日建立
同日除幕式
・慰霊祭 六月二十三日
・合祀人数 一〇六柱
・建立経過等 建立の際の区長は新里※※氏、建立実行委員は渡久山※※氏・与座※※氏・新崎※※氏・岳原※※氏・比嘉※※氏・宮城※※氏
碑文
いとし我が子よ我が父母よ
夫よ妻よ同胞(はらから)よ
お帰りくださいふるさとへ
永遠に鎮まり安らかに
お眠りください 比謝矼に