第七章 慰霊の塔は語る


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三 読谷村内の慰霊の塔などの建立

 読谷村内には、二〇〇三年六月現在、一八の字に慰霊塔が建立されている。建立されてない字の関係者によると、米軍に土地を接収されるなどして、未だに旧集落への移住が果されず、戦没者の「安住の地」が得られないからだというのがその理由であった。
 慰霊塔が複数建立された集落もある。例えば、喜名集落には、「さくら之塔」と「梯梧之塔」がある。前者は、字民戦没者の慰霊塔だが、後者は、喜名集落への帰郷が許可された一九四八年(昭和二十三)に、集落東方の山地に散乱していた(軍民の)遺骨を、字民が収骨し、約七〇〇柱を祀って慰霊塔を建立したものである。
 波平では、集落内の広場の一角に「平和の塔」を建立して戦没者を祀ってあるが、「集団自決」で悲憤の犠牲者を多数出した「チビチリガマ」に、遺族らが、深い鎮魂の祈りと永遠の平和への願いを込めて、壕(ガマ)の入口両側にモニュメントと記念碑を建立した。シムクガマには、約一〇〇〇人の人命を救った比嘉※※、比嘉※※両氏をたたえた「救命洞窟之碑」もある。
シムクガマ入口と「救命洞窟之碑」
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 慰霊の塔のうち戦前からのものが残っているのは、字渡慶次の「忠魂碑」だけである。この碑も、沖縄戦の砲火をくぐって、満身創痍(まんしんそうい)であった。字民は、古老に確かめるなどして、懸命に修復につとめ今日に至っている。
 この一基を除くと、全ての慰霊の塔が、沖縄戦終了後、すなわち、字民が旧集落あるいは、現集落に移住の後、建立されたものである。
 また、旧読谷山国民学校(現運動広場北角)には、一九三五年(昭和十)十月に建立された「忠魂碑」が形骸をとどめ残存している。この「忠魂碑」前では、戦前「村葬」も行なわれていた。「忠魂碑」はもともと戦死者の霊を慰めるためのものであったが、軍国主義のもとで、かえって国民を死に追いやるために利用されてしまった。そうした背景からか訪れる人もなく、今はひっそりとそこに立っているだけなのである。
運動広場造成工事の際に現在の所に移設された「忠魂碑」
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 それから、渡慶次小学校には各字の慰霊塔がまだできない頃に、校区青年会の自主的な活動により「鎮守(しずもり)の塔」が一九五一年(昭和二十六)七月に建立された。校区全体の戦没者を慰霊するとの趣旨で取り組まれた運動であった。現在の体育館が建つ敷地内にあったが、各字で慰霊塔が建立され、御霊が各字慰霊塔に分祀されるようになり、塔はその役目を終えた。
 塔名は「さくら之塔」(喜名)、「永和の塔」(座喜味)、「平和の塔」(波平)、「護永之塔」(高志保)、「永魂之塔」(儀間)、「宇座守の塔」(宇座)、「永和之塔」(瀬名波)、「真砂之塔」(長浜)と種々である。慰霊之塔または慰霊塔が、伊良皆、楚辺、大湾の三か字であり、慰霊之碑または慰霊碑と刻んでいるのは、渡具知、大木、比謝矼、都屋、古堅、比謝の六か字である。渡慶次は先述のように戦前からの名称「忠魂碑」のままである。
 それぞれの塔には、字民の戦没者に対する深い哀悼の意を込めた祈りの詩句(碑文)が刻まれている。
渡慶次小学校の児童たちの記念撮影場所としても利用された「鎮守の塔」
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 そしてこれらの塔は、集落内の小高い丘や広場の一角、あるいは樹木の生い茂ったところに建立されている。字民は常々聖域の草刈りなどの清掃につとめ、その時々に香華(こうげ)を手向けている。そして毎年、六月二十三日の慰霊の日には、関係者はもちろんのこと旧字民も各地から参列し、字民総出で慰霊祭を行っている(喜名区は五月三十日に開催)。慰霊祭では、読経を捧げ、鎮魂の詩句を口づさみ、平和への誓いを再確認するなどして、人々は戦没者へ哀悼の誠をささげている。
 次に村内各字の慰霊の塔を掲載し、続いて関連するその他の慰霊碑を紹介する。
参考文献
『沖縄の証言』沖縄タイムス社
『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社
『沖縄県史 沖縄戦通史』
『沖縄 日米最後の戦闘』米国陸軍省編 外間正四郎訳 光人社NF文庫
『慰霊の塔』大田昌秀著 那覇出版社
『平和な未来を見つめて』読谷村役場
『沖縄の慰霊塔・碑』沖縄県生活福祉部援護課編集
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