第七章 慰霊の塔は語る


<-前頁 次頁->

二 県下の慰霊の塔建立の動き

 一九四六年一月、真和志村民は、古里への移住許可が下りる前、沖縄戦終焉の地となった摩文仁の米軍野営地近くに移され、テント暮らしを余儀なくされた。
 この頃、沖縄戦終焉の地摩文仁の丘周辺には、幾千幾百の遺体(骨)が風雨に晒され、散乱していた。真和志村長金城和信氏は、村民と共に、しぶる関係者を説得して、収骨納骨の決意をして軍政府に数度も足を運んだ。ようやく収骨の許可をとり、村民約一〇〇人の収骨隊を編成して収骨に当った。ちなみに、金城村長は、愛娘二人をひめゆり学徒隊で失った。
 こうして、収骨作業を進める傍ら、納骨所を建てるための資材の提供を米軍に要請し、セメントなどを入手した。さらに米軍の古寝台を鉄筋代わりに使ったりして同年二月末までに納骨所を完成させた。そこが今日の「魂魄の塔」である。
 金城村長は、次にひめゆり学徒隊終焉の壕を探り当て、収骨収納して、傍らに「ひめゆりの塔」(一九四六年四月)を建立、更に海岸近くにある壕から鉄血勤皇隊(健児隊)の収骨をなし、壕奥に収納の後、壕入口をふさぎ、「健児之塔」(沖縄師範学校)の碑を建立した。この三基の慰霊塔が、沖縄戦後の慰霊塔建立の嚆矢(こうし)と言われる。
 沖縄戦に於いては、軍民合わせて二四万余の尊い人命が失われた。
 一九五七年(昭和三十二)、日本政府は沖縄県(当時の琉球政府)に委託して、戦没者中央納骨堂(所)を建立(同年七月十日)し、各地で収集した戦没者遺骨を納骨した。そして、一九七九年(昭和五十四)厚生省が国立沖縄戦没者墓苑を建設し、戦没者約一八万柱を転骨、合祀した。
 沖縄県は、一九七八年(昭和五十三)、戦没者の鎮魂と平和希求の象徴として、沖縄戦終焉の地である摩文仁が丘に、沖縄平和祈念堂を建設した。堂は、高さ四五メートルの荘厳な七面体白亜角錐ドームである。そして、堂内に、山田真山画伯が一八年の歳月をかけ、精魂こめて制作した高さ一二メートルの平和祈念像(座像菩薩)を安置した。更に、堂周辺の広大な地域を平和公園に指定し、人類への恒久平和の発信地とした。
 沖縄県は、戦後五〇年の節目に、「平和の礎」の制作に着手した。「平和の礎」は、広義には「慰霊塔」建立の集大成である。これは「世界の恒久平和を願い、国籍や軍人非軍人の区別なく、沖縄戦で亡くなられた全ての人々の氏名を刻んだ平和の礎」であり、「訪れる者に平和の尊さを感じさせ、安らぎと憩いをもたらす場」にするとの建立趣旨で、一九九五年六月二十三日内外から大勢の関係者が集って、除幕式を挙行した。
 摩文仁の広大な平和公園内に延々と建つ「平和の礎」には沖縄戦等で戦没した二三七、九六九柱(二〇〇〇年六月現在)の氏名が碑銘されている。
 現在、沖縄県内の全ての市町村に慰霊塔が建立されている。市町村民がこぞって集まり定期的に慰霊祭を行う慰霊塔だけでも三三〇基(県生活福祉援護課)を超えるという。
 その他に、官公庁関係、師範学校、男女中等学校等関係者の建立した慰霊塔、それから遺族会や戦友学友が浄財を出し合って建立した慰霊塔が沖縄南部を主として沖縄各地の戦跡に数多くある。
 日本軍関係の慰霊塔は、四六都道府県別に建立されている。
 建立地は、糸満市摩文仁に三一基、糸満市米須に一〇基、糸満市国吉に一基、具志頭村に二基、そして浦添市仲間に一基、宜野湾市嘉数に一基(県生活福祉課調査)である。
 建立地は、多くの犠牲者を出した沖縄本島南部に集中している。中でも沖縄戦終焉の地、本島最南端糸満市摩文仁が圧倒的に多い。合祀した戦没者は、京都府(京都の塔)他八県は、沖縄戦戦没者のみを祀ってあるが、他の都道府県は、沖縄戦及び南方諸地域での戦没者を合祀してある。
 さて、摩文仁が丘を登ってゆくと、突然視界が開け、海に突き出た頂上に、ひときわ際目立って、牛島満司令長官等の霊を祀った「黎明之塔」が周りを睥睨(へいげい)するかのように、突兀(とつこつ)として立っている。この地は、牛島司令長官が自刃(じじん)した地下壕の頂上付近に当り、海抜九〇メートルほどの断崖上である。
 この「黎明之塔」に至るなだらかな丘陵に、頂上に至る道をはさむようにして都道府県別の「慰霊之塔」が建立されている。
 それらの塔には、遺族の人達を中心に多くの参拝者が、一年を通して絶えることがない。
<-前頁 次頁->