第七章 慰霊の塔は語る
宮城傳


<-第六章 次頁->

一 沖縄戦と戦没者

 一九四四年(昭和十九)十月十日、午前七時、アメリカ第三十八機動部隊の空母から発進したグラマン、カーチス艦載機は、前後五回にわたり、沖縄諸島に来襲、読谷(北)、嘉手納(中)、伊江島、那覇(南)等の各飛行場を猛爆、更に、那覇軍港及び他軍施設等を集中的に空爆した。この日県都那覇は、その九〇%が焼失した。
 日本側の人的損害は、この日だけで軍民合せて五四八人といわれる。
 読谷山村民も読谷飛行場空襲のあおりを受け、喜名や座喜味の集落が爆撃され、村内で初めて三〇人余の犠牲者を出した。
 その後、B29等による高空からの偵察飛行等のほか、本島への空襲は断続的に行なわれ、一月三日、一月二十一日、一月二十二日、三月一日、三月二十三日と続き、いよいよ上陸前の大空襲、艦砲射撃へと突入していった。
 その間村役場では、二月に国頭村奥間に臨時役所を設置して、避難して来る村民への対応準備を図っていた。
 村民は、県や村の北部避難(疎開)勧告を受け、ぼつぼつ重い腰を上げ始めてはいたが、そのほとんどが縁故疎開にとどまり、多くの住民は村内の自宅に残り、空襲警報発令時に、集落近くの自然壕や、庭に構築した防空壕に避難するという生活をくり返していた。村内には楚辺暗川、チビチリガマ、シムクガマ…等々、大勢の人間を収容できる自然洞窟(壕)が多く散在しており、自宅と洞窟等を往来する生活を営んでいたのであった。
 米軍は、一九四五年(昭和二十)三月二十六日まず慶良間諸島を制圧、翌二十七日には渡嘉敷島をも奪い、万全の体勢を整えて後、いよいよ四月一日払暁(四時六分)本島西海を埋め尽した大艦船団の砲門を一斉に開き、十万発以上の砲弾を本島中部西海岸に打ち込んだ。
 そしてニミッツ提督麾下総勢一八万三千の上陸軍は、八時三十分、北谷村、読谷山村の海岸に殺到した。しかし米軍は、ほとんど銃砲弾の反撃をも受けず無血上陸に成功した。
 米軍は、海岸に橋頭堡を築くと、進撃を開始し午前中に、北及び中飛行場を占拠、四日には、「石川、仲泊」間四キロの地峡を横断して東海岸に到達し、本島を南北に分断した。
 さて、米軍上陸後、沖縄地上戦は、延々三か月に及び、この間「鉄の暴風」が荒れ狂い、六月二十三日、第三十二軍司令長官牛島満中将、参謀長長勇中将の自刃(じじん)で、日本軍の組織的抵抗は終わった。
 その後も、主に南部に於いて散発的に戦闘は継続され、六月三十日に至ってようやく米軍は、掃蕩戦(そうとうせん)の完了を発表した。しかし、本島北部地域へ避難していた一般住民(県民)は、山中をさまよい狙撃兵に撃たれ、あるいは飢えと病魔にさいなまれ死んでいった者も多かった。
 沖縄戦の犠牲者は、実に二四万四一三六人(正規軍六万五九〇八人・防衛隊二万八二二八人・戦闘協力者五万五二四六人・一般住民九万四七四六人・米軍一万二五二〇人)に及んだ(大田昌秀著『これが沖縄戦だ』)。
 一方村内の動きをみると、村民は三月二十三日、二十四日の大空襲後、米軍上陸が目睫(もくしょう)の間に迫っていることを覚り、北部への避難を本気で考えるようになった。それでもまだ、村内に留まった人々は多かった。
 村内での戦没者の状況は、激化した艦砲射撃により三月二十七日に北飛行場周辺の座喜味で七人、渡具知など海岸線沿いで二人、二十八日には同じく渡具知で一人、二十九日宇座のヤーガー(自然洞窟)では三一人、渡具知で三人などが犠牲となった。米軍が上陸した四月一日には波平で三〇人、楚辺、比謝矼および比謝川上流で二八人、喜名および伊良皆の山中で七人などが犠牲になった。四月二日にはさらに増えて、チビチリガマでの「集団自決」による犠牲者を含め約一三〇人が死亡している。また、米軍上陸前にも、疎開船対馬丸が米軍潜水艦に撃沈された際、村民から多数の犠牲者を出していた。
 そして、戦争が終わってみると読谷村民の犠牲者は三九〇〇人余にのぼっていた(「平和の礎」調査より)。
<-第六章 次頁->