第六章 証言記録
航空兵及び関係者の証言


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特攻隊員の日記 ― 長沼※※ ―

 東京都の在住の鈴木※※が、特攻隊員だった叔父長沼※※の日記の一部を届けてくれた。長沼※※は一九四五年(昭和二十)五月四日に嘉手納沖で特攻戦死した。二十一歳だったという。
 長沼※※が戦時中綴っていたこの日記は、※※の父が遺品として所持していたものだった。そこには特攻兵としての赤裸々な胸のうちの思いとともに、読谷山村の北飛行場での日々が書きとめられていた。
 長沼※※は、一九四三年(昭和十八)に学徒動員で札幌師範学校から陸軍大刀洗飛行学校の分校郡山(韓国)に入学した。フィリピンで教育飛行訓練を受ける予定であったが、戦況が悪化したため訓練を待たずに愛知県小牧に駐屯中の飛行第十九戦隊に配属された。
 飛行第十九戦隊の慰霊の碑(京都霊山観音)によると、同隊は一九四三年(昭和十八)十二月に飛燕戦闘隊として北伊勢にて編成されている。翌四四年六月にフィリピンに派遣され、十月には「捷一号」作戦でレイテ方面へ出動している。レイテでの特攻援護や艦船攻撃などで「操縦士が消耗」したため、十九戦隊はいったん日本へ帰投した。愛知県小牧で中京地区の防空に従事しつつ、人員を増やすなどしており、長沼※※が入隊したのはこの頃である。
 同隊は一九四五年(昭和二十)一月、再度南方へ進出することになり、長沼※※も一月十八日に宮崎県新田原飛行場を飛び立った。おそらく、ルソン島リンガエン湾の敵艦船に特攻攻撃に参加する予定だったのだと思われるが、給油と飛行機の整備のために読谷山(北)飛行場を経由した際、飛行機「三式戦闘機 飛燕」が故障したためと天候不順によって、二週間足止めされて当初の戦闘に参加できなかったようである。
 長沼※※が北飛行場に足止めされた一月十八日から二月一日までの日記を以下に掲載する。尚、読みやすさを考慮して一部を省略、解説を加えてある。
一九四五年(昭和二十)一月十八日
 愈々内地とお別れ
 
 新田原を出発し、約一時間後作動油漏れを発見す。途中、雨に会いたるも七機無事に着く。(飛行時間三時間十分)
 内地を去るに当たり、感慨無量なるものあり。この目で再び見ること無きこの祖国の土の色、山の形すべてサラバ。青き河の流れ、白き嶺峰、父母静かに眠ります祖国を後にす。
 皇国存亡の秋、男児何ぞ恋々とすべきか。往かんのみ。
 海行かば水漬く屍、空往かば、雲染める屍。声高らかに歌へども、爆音に消されゆく。「リンガエン」か「レイテ」か、うらみは深しアメリカよ。敵として不十分なる「グラマン」よ。
 兄も姉も叔父も伯母もすべて幸福たれば、己一個の命など云々すべきにあらず。
 人の子として生をうけ、祖国永遠の別れと思へば、涙なきにあらず。
 沖縄の星、またたきて、余の心に歩を合す。
 那覇飛行場に着陸せるも昔日の俤(おもかげ)なく壊滅し、整備これなく北飛行場に前進す。三角兵舎に借寝の宿をとる。
一九四五年(昭和二十)一月十九日
 飛行機不調にて終日整備。午後、渡辺少尉、山県少尉、山辺軍曹、台湾に向け出発す。夕刻全飛行機完整す。試験飛行(約二十分)し、調子良好なるを認む。ピッケして工員に応ず。明日は出発の予定。
 
*注 ピッケ 超低空飛行をすること。
一九四五年(昭和二十)一月二十日
 北飛行場の掩堤三の土堤の上でこれを認(したた)む。
 陽光燦々と降りそそぐ、南国の昼日中、この手帖の下に青々と健やかな芽をふくヨモギのふくよかな香り。
 幼き日、母と姉と自分と三人で、神社のある丘へよもぎや嫁菜やタンポポなどを摘みに行った楽しき童心の思い出がよみがえる。幼き時からさんざん厄介になっていながら何一つご恩返しも出来ず、家を後にしなければならなかった、わがままで甘えん坊の自分。今こそ陸軍少尉、長沼※※は兄弟全部の分を双肩に担って働くぞ。
 沖縄の 蓬の葉にも 涙する
 本日は出発する予定なりしも、隊長高原中尉の飛行機の故障、その代機の修理完成せず。又一日延期となる。
 
*注 嫁菜(よめな) キク科の花
一九四五年(昭和二十)一月二十二日
 早朝七時半より敵機動部隊より放たれたし「グラマン」「カーチス艦爆」よりなる空襲を被る。南西諸島は午後四時三十分迄のべ七〇〇機来襲す。代機として整備完了せる隊長機四一二〇号、被弾六発。
 波状攻撃なりしも、一波おおむね一二機位にて、攻撃も「クラーク」付近襲来の敵機に比べて、元気なくだらしない。北飛行場における損害は軍機六一、六七各一機大破、滑走路に弾痕一の微々たるのみ。
 遥々本国からやって来て九時間近く攻撃してこの位しかやれぬとは技量ならびに精神状態も疑はれる。
 又天候も「中」、断層雲にて絶好の攻撃日和にて我が防空には不利なりき。ここに一ケ戦隊でもあればと痛感す。飛行機には飛行機を以って対抗せざるべからず。
一九四五年(昭和二十)一月二十三日
 隊長機大破されたるため、田村を輸送機に託し三名出発の準備せるも、河合機油量計故障による燃料補給状況を誤認し、十一時三十分になる。
 天気次第に不良となり、遂に出発を断念す。
 悶々と北飛行場の三角兵舎に就寝すること六夜。憂鬱かぎりなし。台中にいる主力も待っていることだろう。早く行こう。高原中尉(隊長)の心痛察するに余りあり。
一九四五年(昭和二十)一月二十四日
 〇九・三〇 高原中尉以下二機出発せしも、余、発動機不調にて引き返す。点火栓交換、断続器清掃にて試運転するに、結果良好なりき。後発と行動するや、輸送部と共に征くや?
 共に離陸しおきながら、我ひとり降りなければならぬとはああ何という不運なる人生よ。時は戦力一劫を争う此の時に、昨日までよかった飛行機が悪くなるとは。
 敵をのさばらして目の前にして、何らなすところを知らざる我ヨ。
 天地神明もあわれみ給わざるか?
  こうして、不二人だけが北飛行場に残り、隊は台中へ。翌々日の二十六日、新田原を出発した田村隊を発見した不二人は、同行しようと北飛行場を飛び立ったようだが、田村隊がとった東海岸を回る飛行ルートは不二人の飛行機ではたどり着けないと判断して引き返している。その後二日間は天候不順のため飛び立つことができなかった。
一九四五年(昭和二十)一月二十九日
 昨日、坂巻少尉、結城曹長、小原伍長の三機鵬翼を連ねて至る。欣喜してこれを迎ふも、小原伍長那覇南飛行場外に不時着。入院との電報あり。
 台湾地方P38、B24の空襲を受く。執拗なる敵の攻撃を受けながらこんな処に、のんべんだらりと一一日も居たのかと思うと我ながら情けなくなる。意気地なしと言われてもしょうがないだろう。明日こそは、明日こそはと思っただけではだめだ。本当に明日こそは行こう。
 ※※ちゃんは(読谷山村民・女性)「早く行かぬと戦争負けますよ」と言ったが、一蹴できぬ言葉であると思う。
一九四五年(昭和二十)一月三十日
 午前十時より飛行場にゆく。台湾敵機動部隊攻撃をうけるの連絡あり。また雨も降り居り。
 今日こそは、単機でも征こうと思へどもままならず。一日ピストパイロットとして送る。
 兵站もユーウツ、何もかもユーウツ、勝手にしやがれと思えどもどうにもならず、アーアー出るものはためいきのみなり。
 雨と言っても敵が来れる位の雨では、俺だって行けぬことはない筈だが?
 
*注 ピスト 無線によって離着陸の管制を行うこと。
一九四五年(昭和二十)一月三十一日
 坂巻少尉、結城曹長の二名、小原を見舞う。余は三機試運転並びに整備を実施す。小原は、延髄近くの発熱神経をやられ、高熱続きて下がらず。
 約二日間の経過をみるの要あるに付き、坂巻少尉を残し、余と結城曹長の二名は、明一日台中にむけ出発の予定。
一九四五年(昭和二十)二月一日
 愈々北飛行場ともお別れ。思えば長い滞在ではあった。
 一三・三〇離陸す。結城曹長、発動機不調のためか追随せず。二機宮古まで来るとも、自機ラジエーター水漏れのため、宮古海軍飛行場に不時着す。勤務隊長西少尉の歓待にあずかる。整備兵に整備を任し、兵站「日の丸旅館」に一泊す。本日は全コース絶好の航法日和なりしも不時着とは残念至極なり。夜台湾料理にて結田大尉とおだをあげる。愉快極まりなし(飛行時間一時間三十分)
 
*注 おだをあげる 勝手な気炎をあげる、集まって談笑するの意。
 長沼※※は、こうして北飛行場を後にした。
 飛行第十九戦隊のうち、ルソン島へ到着することが出来たのは一個中隊のみだった。残りは大本営の命により台湾に残留、一九四五年(昭和二十)二月十六日付けの大本営陸軍部命令で台湾駐屯の第八飛行師団の隷下に入った。沖縄から台中の飛行場へ向かった長沼※※は、そこで隊に合流している。三月八日、部隊は台中から屏東に移駐し、南部台湾の防空任務に就いた。
 四月に沖縄の米軍侵攻をむかえた時、第十九戦隊が所持していた使用可能機は十数機しかなかった。隊では比較的錬度の高い操縦者は爆装機による艦船攻撃が、未熟者には特攻が命じられたという。
 隊は四月十七日に宜蘭飛行場へ前進。そして長沼※※は五月四日の払暁に出撃、嘉手納沖の米艦船に特攻、戦死した。長沼※※が参加した五月四日の総攻撃は「菊水五号」と呼ばれるもので、陸海軍合わせて一九六機が出撃した。(服部卓四郎著『大東亜戦争全史』より)
 第十九戦隊の戦没者は地上勤務者も含めて約四〇〇名。うち沖縄戦で亡くなったのは二三名であった。
(藤本愛美)
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