第六章 証言記録
航空兵及び関係者の証言


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坂田※※さんの訪問を受けて
 ― 航空兵だった兄、北飛行場で墜落死 ―

 十・十空襲二日後の一九四四年(昭和十九)十月十二日、北飛行場は「蝿がたかるように日本軍の飛行機でいっぱいだった」と語る村民がいる。これは、台湾沖航空作戦に参戦する航空機が、攻撃前進基地であった北飛行場に集結した模様をさしている。当時北飛行場配属の球九一七三部隊で小使いをしていた波平※※は、当日のことをはっきり記憶している。
 「十・十空襲後、読谷山飛行場に二〇〇機以上もの日本軍の航空機がやって来ました。飛行場は空襲で相当な被害を受けていましたが、滑走路だけは使えるようにいつのまにか直してありました。飛行場が航空機でうめつくされているわけです。読谷山飛行場にこれほどの飛行機が並んでいるのを見たのはこれが初めてで、私は『こんなにたくさん日本の飛行機が残っていたのか。まだ日本は大丈夫だ』と胸が躍りました」(本書所収体験記四九二〜四九三頁参照)。
 沖縄方面陸軍作戦によれば、十月十一日夜に沖縄駐留の第三十二軍は第二航空艦隊から沖縄陸軍航空基地の全面使用を要請されている。その展開機数は五〇〇機とされ、十二日からの使用が要望されていた。これを快諾した三十二軍が、北飛行場に配当した受け入れ機数は一五〇機だった。
 波平※※の証言にみられるように、十・十空襲で米軍の圧倒的軍事力を目の当たりにし、少なからず日本軍への失望感や戦局への不安感を持っていた村民にとって、わずか二日後に「飛行場を埋め尽くした」というように日本軍機はその偉容を見せつけたのである。
 この台湾沖航空作戦に参加すべく北飛行場に飛来した航空兵の遺族が、二〇〇二年十月十二日、読谷村史編集室を訪れた。長野県在住の坂田※※である。
亡くなった坂田※※さん
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 坂田※※の兄※※は、当時陸軍少年飛行兵出身の伍長であった。台湾沖航空作戦に参加するため、一九四四年(昭和十九)十月十二日に攻撃前進基地であった北飛行場に飛んできた。鹿屋基地で航空魚雷を搭載し、午後二時過ぎに北飛行場に到着、給油と軽い食事をして六時間の待機時間を北飛行場内で過ごした。夜八時半、台湾へ離陸する際、※※ら七名を乗せた航空機は、離陸と同時に火災が発生、搭載していた魚雷に引火し、大爆発を起し大火災となった。乗組員のうち一名は重傷、※※を含む残り六名は死亡した。事故現場のすぐ近くには座喜味の民家が数軒あった。大きな火災になったので周辺住民数人が目撃している。
 同じ隊に所属していた吉川※※(広島市在住)の手記があるので、以下に要約紹介する。
 「日没と共に搭乗員全員が集合を命ぜられ、集合員二百余名であった。高橋少佐(戦隊長)が壇上に登り、現在の米軍機動部隊の状況及び位置を説明、深夜これを台湾東方洋上において捕捉攻撃するに決し、離陸予定時刻を二十時三十分と決定した。離陸時刻までは各機エンジンの調整及び各機の点検整備を行い予定の時刻の到来を待って、第一中隊長吉川※※大尉(奈良県出身)を一番機として軍機順次離陸を開始した。
 第一中隊の九機全機離陸後我々は第二中隊長瀬戸※※大尉を一番機に第一編隊三機離陸を完了、第二編隊長斎藤軍曹に引き続き二番機も離陸を完了した。
 次の三番機に吉藤軍曹が機関係として操縦員中村※※軍曹及び坂田伍長(※※)等が搭乗し、その次が第三編隊長小林中尉であり、海老原※※軍曹が同乗しました。三番機が暗夜照明灯に向かってエンジンレバーを全開轟音を残し暗夜の中に消え去って行った。
 続いてわが小林機もエンジン出力を徐々に上げ、将に滑走開始の寸前において中村機に火災発生、紅蓮の炎は天を突き一面の火焔昼をあざむくが如く瞬時にして大音響と共に搭載魚雷が誘発爆発を生じ後続機全員固唾を飲み急遽離陸を中止した次第であった。我々は勿論、第三編隊長小林中尉も事故の重大性に驚き、早速海老原軍曹と私に対し、被害の状況と滑走路の使用可能性の有無を大至急調査報告せよと指示され、二人して急遽滑走路を駆け出し現場に到着した。
 すでに沖縄駐機第三十二軍の警備隊員が右往左往して消火活動と被害機の滑走路よりの排除を行い、後続機離陸のための準備を将校以下二〇〇名程度で行なっていた。
 事故発生よりこの間約三十分位で事故機を滑走路より排除、離陸可能となったので後続機は順列に従い離陸を完了上空にて旋回を続け待機中の先行機と空中集合を行い宮古島を経て深夜米軍機動部隊に対し夜間攻撃を行った。」
 坂田※※の所属していた隊は三一機で構成されていた。そのうち台湾沖航空作戦から生還できたのは、わずかに二機だけであった。
 時は移って、兄※※を弔うため北飛行場を訪れた坂田※※は、バナナと羽二重もちを旧滑走路に供え語った。
 「あの当時の少年飛行兵というのは、非常に優秀な人が入っていて、私にとって兄貴は憧れでしたよ。兄貴は僕の面倒をよくみてくれてね、いい兄貴だったんだ。陸軍の少年航空学校に兄貴が入学する前、二人で畑仕事しててね、兄貴が〔ちょっと待ってろ〕って言って、近くの店に行ってバナナと羽二重(はぶたえ)もちを買ってきてくれたことがあったんですよ。あの時、初めてバナナを食べたんだ。嬉しかった、おいしかったよ。
 兄貴は飛ぶ前に事故で亡くなったから、遺骨も遺品もちゃんと家に帰ってきたんですよ。でも兄貴は、切なかっただろうな」。
兄が亡くなった滑走路の端で祈る※※さん
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思い出のバナナと餅、そして花を供えた
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 沖縄戦が終わって五〇年余が経つが、北飛行場から飛び立ち戦死した、あるいは北飛行場で亡くなった日本兵たちの遺族や戦友が、今も読谷飛行場を訪れている。
(藤本愛美)
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