第六章 証言記録
航空兵及び関係者の証言


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「靖国号」の墜落、そして生還

元少年飛行兵 山内※※(兵庫県加古川市)大正十五年生
山内※※は、二〇〇〇年六月十九日、沖縄で行われた慰霊祭に参加するため、先輩の上木※※と共に来沖された。山内※※と同じ飛行機に乗っていた仲間も沖縄の海で亡くなった。生き残った山内※※は、戦争当時お世話になった方々にお礼が言いたいということで、六月二十日、村史編集室を訪ねた。以下は彼の体験談をまとめたものである。
山内※※さん(左)と上木※※さん
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 私は水戸陸軍航空通信学校に入り、少年飛行兵の十四期、航空通信の九期生として卒業した。卒業のとき、生きて帰れる見込みはないかもしれない、ということで当時の学校の慣習に従い自分の髪の毛と爪、そして遺書を家族のもとに送った。
 私たちの第一回目の出撃は、一九四五年(昭和二十)三月二十日過ぎ頃であった。鹿児島県の鹿屋(かのや)(海軍特攻基地、陸軍の知覧基地に対応)を重爆撃機「飛龍(機67・ニックネームは『靖国号』)」に七人で搭乗して飛び立った。爆撃機九機で一個中隊、それが三個集まり一個戦隊を編成し、二七機で沖縄へ出撃した。攻撃を終えるとまた鹿屋に戻った。重爆撃機の燃料は特攻隊のように片道ではなく、帰りの分と補助タンクに予備の燃料も積んでいた。こうして私たちは何度か鹿屋と沖縄を往復して攻撃を繰り返した。石垣島上空へも行ったことがあるがその時は敵の姿は見えなかった。
 米軍の沖縄本島上陸前後から、日本軍では洋上作戦が盛んに行われていたので、私たちは陸軍であったが、一時的に海軍の指揮下に入り、作戦に参加していた。通信から暗号まで、陸軍と海軍では違っていたのでまた覚え直す必要があった。
 一九四五年(昭和二十)四月十二日午後四時頃、四度目の攻撃のため、私たちは鹿屋を出発した。同日午後八時三十分、嘉手納沖上空に到着した。その後、島伝いに低空で敵艦船への魚雷発射のチャンスをうかがっていたが、午後九時頃、遂に敵艦に魚雷発射をした。と同時に敵弾が二、三発、私たちが搭乗している「飛龍」に命中した。その攻撃で操縦席から前の部分が吹っ飛んでしまい、そのまま墜落した。
 海上に放り出された七人の搭乗者のうち三人が生きていた。三人で岸を求めて泳ぎ始めた。三、四時間泳ぎつづけているうちに一人減り、また一人減りして、最終的には私一人になった。泳ぎつづけて、明け方になった。陸か雲か分からなかったが、前方に白波が見え、ふと気がつくと足が底についたので「生き返った、助かった」と思った。そこから一、二歩踏み出すと、またボコっと深みにはまった。海底が珊瑚礁だったからそうなったのだろう。そこからまた泳いで浜にたどり着いた。夜は白々と明けてきたので、九時間程泳ぎつづけていたことになる。それで足に全く力が入らず、陸まで這うようにして上がった。
 浜から上がって南の方にテントが三つ四つ見えた。日本軍のものだと思い、近づくと兵隊が英語で話していたので、アメリカ軍のテントだと判って浜の方へひき返した。浜辺の大きな蘇鉄の下に力尽きて横たわり、そのまま眠り込んでしまった。
 目が覚めると、太陽が真上にあったのでおそらく半日ほど海岸で寝ていたのだろう。飛行服は完全に乾いていた。上空から墜落して、無我夢中で泳ぎ続けてきたので、どこに着いたのかも分からなかった。友軍を探そうと道へ出ると、トラックがやって来たので日本軍だと思い手を振った。近づくとアメリカ軍のトラックであった。とっさに「逃げたら不審に思われる」と判断し挙動不審にならないように何食わぬ顔で手を振っていると、アメリカ兵も手を振り返しながら去って行った。
 このままではアメリカ軍の捕虜になってしまうと思い、走って山の中に入った。隠れるところを探したら、日本軍が掘ったのか防空壕のような穴がたくさんあった。しかし穴には入らずに大きな木の幹の陰に隠れていた。
 二、三分したらアメリカ兵のトラックが引っ返してきた。「出てこい」と言っているようだった。ここで出てはいけないとじっとしていると、威嚇射撃を数発した後、またトラックは行ってしまった。「ここは敵地だ、うっかりできない」と思い、山奥へ分け入った。
 その日であったのか、翌日であったのか記憶が定かではないが、知らぬ土地で話相手もおらず、孤独感に陥っていたところ、どこからか子供の泣き声がしたので、警戒しながら近づいていった。山の向こうから聞こえるような気がしたので、一つ谷を越えた。すると、子供の声と思っていたのは、野生化した山羊の鳴き声であった。
 しばらくすると、藪の向こうに民家が見えた。人の気配がするので、しばらく警戒して遠目で見ていた。五、六人の人が居り、その中に私と同年(当時十八歳)くらいの女性がいた。その女性が、私の潜んでいる辺りにきた。日本軍の支配下なのか米軍の占領下なのか判断がつかず、警戒しながらも彼女に「よろしかったら、話をさせてもらえますか」と声をかけると、愛想よく返答してくれた。彼女が「夕べ、沖で飛行機が炎上して墜落するのを見ましたが、その飛行機に乗っていらしたのですね」と言った。その女性は※※という名だった。
 そしてそこの民家に入れてもらったが、お婆さんや奥さん、子供、そして若い女性二人の六人程で同宿しているようだった。事情を聞いた民家の人たちが「このままほってはおけない、あの人はまだ子供(若い)じゃないか」というようなことを言っているように聞こえた。そして「こんな服(軍服)を着ていてはダメだ」といって、住民と同じような着物をくれた。着ていた飛行服はきれいに洗って、乾かしてたたんでもらった。食べ物もごちそうになった。
 そこで二、三日過ごしただろうか。確か米軍の指示で、大きな集団で暮らしている隣の村(宇加地)へ移動して、合流しなさいということになった。それで、みんなが移動することになった。私は「一緒に行こう」と誘われたが、「一緒に行くわけにはいかない」と断った。宇加地へ移動するみんなと別れて、私は裏山を尾根伝いに登っていった。すると、※※が追ってきて「危ないから、行くな」と止めた。「首里を越して向こうへ行ってもどうしようもない、どうせ日本軍に合流できないし、アメリカ軍に捕まる、やめなさい」と言った。私は「なんといっても私は軍人だし、一緒にいるあなた方にも迷惑をかけるわけにはいかない」と言ったが、「もう無理です、どうしても行くなら私も一緒に行って死にます」と言うのであった。二、三日間世話になっただけなのに、そこまで言ってくれたことに感激した。その山から右斜め前方に飛行場が見えた。飛行機が一、二機あったがアメリカの占領下の飛行場のようであった。私には、投降する考えは全くなかった。辺りに米軍の電話線が張り巡らされていたので、これを切って米軍の妨害をしてやろうか、というほどの知恵しかなかった。
 私の頭にはいろんなことが駆けめぐったが、※※の言葉を受け、またこの状況では日本軍とも合流できないと判断したため、結局私たちは元の民家へと戻った。しかし、すでに他の人たちは隣り村に向かった後だった。そこで、夕方まで待っていると何か忘れ物をとりに家に戻ってきた人がいたので、その人と一緒に宇加地に行った。
 そこへ着くと、女の人と役場職員だという男の人がいた。この役場の人は三十から四十歳くらいの人で、残務整理かなにかをされていたようだった。ヒゲをのばしていた。その方が色々と世話をしてみんなをまとめておられた。ここで六年生くらいの「健ちゃん」など三人程の少年がいた。空襲があったときは、みんなと一緒にガマの中に隠れた。静かなときは、近くの川で体を洗ったり洗濯をしたりして過ごしていた。
*注 山内さんの言う役場職員とは、長浜※※さんのことである。当時一緒にいた人たちの中に※※という名の女性は二人いた。一人は国吉※※さんであるというので、本人に確認したところ、国吉さんも山内さんのことをよく覚えていた。
 国吉さんによると、その着物は彼女が持っていたものであり、姑が山内さんに渡したという。また当時国民学校生だった津波※※さんによると、山内さんが着いたのは恩納村美留の浜で、山内さんが訪ねた民家は田港さん宅だという。
 後日山内さんからの電話で、田港※※さんは現在石川にご健在とのことだった。
 田港さん宅は、恩納村美留地域の山中にある一軒家であった。この家から移動したという一つ越えた集落というのが宇加地である。長浜※※さん達は米軍が上陸してきて、宇加地のコージヌガマ(何かの麹菌を保管していたガマと言われる)に避難していた。
 米軍上陸後暫く経つと、隣の長浜集落では捕らえられた住民はそのまま焼け残った民家に収容されていた。長浜の収容区域はある程度限られていたが、割に自由な生活をしていた。ただ、朝夕の点呼を米軍がする程度であった。その後、石川などの難民収容所ができてから、宇加地にいた人々も一緒に移動させられている。
 この時にお世話になった人達は、牛をつぶしても豚を屠っても、肉のいい所、おいしいところを交代で私に届けてくれた。自分たちは食べなくても私に食べ物をくれたのだ。あの時、そうしていただいてなければ、とうてい生きていることはできなかっただろう。
 しばらくして住民と共に石川の収容所へ行った。徒歩での移動であったが、女性たちは頭の上に荷物をたくさんのせていた。その時も私が見つかってはいけないということで、集団の真中に隠してくれながら歩いていた。本当にみなさんに、親切にしていただいたことが忘れられない。
 石川収容所では、「長浜※※」という偽名を使い、その名前で通していた。外部での作業から収容所に戻ると、入口にMPと誰かが立っていて、私が通りかかったときにその人は私を指差した。MPはハワイ出身で、日本語はとても上手であった。MPが「心配することはない、本当のことを言ってくれ」と言った。名前から何から全部ウソなので本当のことは言えなかった。沖縄方言が出来ないこともあり、おそらく住民でないことがバレていたのだろう。一週間程で石川収容所から連れ出された。
 着いたところは嘉手納の収容所であった。そこには六、七千人ほどの捕虜がいた。そこには米軍の飛行機がたくさんあった。私は飛行機が操縦できるので、数人で飛行機を盗って、そこから逃げる計画を立て、実行した。しかし失敗して、他の者は殺された。私は軍事裁判にかけられて、本国送りが決定され、B29に乗せられた。私の前後には銃を持ったMPが乗っていた。燃料補給のためということでグアム島で降ろされた。その夜、終戦を迎えた。
 翌日、米兵がラジオを聞かせてくれた。雑音がひどく聞き取りにくかったが、とにかく戦争が終わったことが分かった。テニアンやサイパン等、各地から捕虜になった日本兵が、グアム島にたくさん集められていた。そこでもしばらく作業などをして過ごした。
 私は自棄になっていたことと、若くて生意気でもあったので、MPの言うことをあまり聞かなかった。スコールが降っても作業を続けさせるMPに休み時間を要求したり、何かとかみついていたので、威嚇射撃を受けたりしていた。一番「成績が悪かった」ので最後まで残されて、なかなか日本へ帰ることを許されなかったが、やっと一九四六年(昭和二十一)十一月になって復員することができた。
 実家の方では、既に自分の戦死公報が届けられていた。私には仏式の戒名までつけられて、本人は生き残っていたが、故郷の中野小学校で村葬が執り行われていたのであった。
*注 後日山内さんから届いたファックスには次のように書かれていた。
 五十五年もの過去の事が種々判明して夢のようでした。教へて頂いた地理に依り親切な運転手さんの導に依り念願の海岸へ行き海に向て此の海に寝りて居る戦友と愛機に両手を合掌、心の済む迄涙を流し心で大きく叫び語る事が出来ました。
 そして宇加地では当時の学生で田港※※さんの友人の徳村※※さんら当時を知って居られる人とお出会い出来ました。
 私が名前を申上げる前に私を見て名前を呼んで頂き顔を見て昔の面影が残って居ると聞き、嬉しく涙が涌き出る想いでした。昔と変らぬ当地の親切な方々、そして今回の事で御世話になった方々に感謝の極みです。
(玉城裕美子)
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