第六章 証言記録
航空兵及び関係者の証言


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靖国号の青年飛行士

長浜※※(長浜)明治四十一年生

宇加地へ戻る

 私は三月二十八日の午後四時頃、自転車で国頭村比地から来たわけさ。名嘉真から以北には那覇からの避難民は一名も見なかったが、ちょっと名嘉真の橋越えたらそこからはもう首里、那覇の避難民でいっぱいだった。「アンマーヨー(おかあさん)」して泣く子どももおるし、「イカンドー(行きたくないよー)」と言って泣くのもおるし、また道のそばにへたばって寝ておるのもいた。かわいそうで、そうした姿は見られたものじゃなかった。
 北へ避難する人たちと逆方向に進んで、私はやっと谷茶までたどり着いたわけさ。谷茶越えれば、家までもうすぐという感じなんだが、夜が明けて薄暗い谷茶の浜むこうへ行ったら、大きな軍艦がいっぱいしているわけさ。「ああ、これは危険だ」と思って、谷茶の山に婿兄弟(ムークチョーデェー)が避難しておったから、そこを頼って行った。
 谷茶の山に隠れている時に敵の飛行機が来た。谷茶の東に壕があったけど、そこに低空飛行してガソリンまいて、次に曳光弾を撃ち込んだから、半時間はかからなかったはずよ、谷茶の部落が全部焼けるまで。谷茶の山に一晩は泊まって、明くる日はまた長浜に戻って来たわけさ。そうして長浜に二日いた。戦況はますます悪くなって比地に戻ることはできなかった。だから私は宇加地におることにしたさ。そして四月二日か三日になっていましたよ。

泳ぎ着いた青年航空兵

 美留の部落の上に一軒家があったわけさ、田港という家だったんだよ。その田港家のおじいが、青年飛行士を私のところに連れてきたわけだね。
 これは青年飛行士に後で聞いた話しだが、沖縄にいるたくさんのアメリカーの軍艦を「攻撃してきなさい」と命令を受けて、三月二十八日に鹿児島の飛行場から「靖国号」に乗って飛んできた。この青年は幹部候補生で、兵隊になってそんなに長くはなかったらしいよ。
 この飛行機は五名乗りで、一度は敵艦を轟沈(ごうちん)させたことがあったと言っていた。この日は、敵に靖国号の片翼をやられて墜落したわけさ。墜落した当初、五名とも無事だったというんですよ。しかし飛行機は前のほうが重いために機体が真っ二つに割れたと言っていた。そして前に乗っていた二人はそのまま沈んでいったらしい。
 この青年飛行士は後ろの方に乗っていたので助かった。後ろに乗っていたのは三名で隊長もいた。海面に浮かぶ飛行機の翼の上で、「どうするか、自決しようじゃないか」というふうに誰かが言ったら、隊長が「ここは沖縄近海ということはわかっておるから、出来る限り上陸して、命だけは大事にしよう」というような話をした。「そうですか」と言ってすぐ三名で海に飛び込んだ。三名一緒に飛びこんで三日くらいは海に漂流しておったらしいが、方向も分からなくなったらしい。大きい波がきて二名は流されたのか、気づいたらもういなかったという。
 美留にカラスーという場所があるんだが、カラスーの海岸ばたは人が見えないほどたくさんアダンがあったわけさ。目に付きにくい場所でもあったし青年飛行士は浜に上がって一、二時間、残りの二人が上がって来ないか待っていたらしいよ。しかし来ないもんだから、もう仕方ないと思ってあきらめた時に、アダンの木の後ろ側の道から、アメリカーが通ったらしい。
 その当時は米軍は仲泊まで占領していたわけさ。青年飛行士が流れ着いた時は、おそらく四月一日か二日だからね。アメリカーは監視のためにあっちこっち見回りしていたのかと思うけど、英語も聞こえてきて、「これは大変だ、ハワイに来たのかもしれない」と思ったと。まさか沖縄に米軍が上陸しているとは思わなかったって。何日も海で漂流していたからね。
 米軍の目に付くといけないから日が暮れるまで海岸に隠れていることにして、深夜になったから山に上がったらしい。その山は私たちがシンガンモーと呼んでいる山さ。シンガンモーで静かに寝ていたら、お母さんが夢に出てきたと言っていたよ。夢の中でお母さんが名前を呼んで「おい起きなさい、起きなさい。もう少し南へ行ったら民家があるから」と言った。それで目がさめたら、お母さんが「南に」と言ったから南に行こうと思って歩き出した。だがね、そこから南に行ったら北飛行場に突き当たるんだよ。そうしたら民家はないから、私が思うに、座喜味の東のイチャバーイ辺りか親志に出たんじゃないかと思うが、とにかく民家はないし、海を泳いだ時に靴はとっくにないから、裸足で歩いて足も痛いし、しょうがないから飛行服を下にずりおろして、それを靴がわりに引きずり歩いたと言っていたよ。
 その当時、そこら一帯は住民はみんないなくなって、歩いているのは宣撫兵ぐらいだった。だからこの青年航空兵は歩いているときに、アメリカ兵とばったり会ってしまったんだってよ。でもアメリカ兵の方はずるずる裾を引きずって歩く青年を見て、みんなで笑いよったと。笑ってるアメリカ兵を見ると「これはもう大変だ、どこの国かわからない。やっぱりここはアメリカか」と思ったと言っていた。しかしお母さんは夢で南へ行けと言ったし、もう少し南へ進んでみようと思って歩いていたら、結局また元の道に戻ってしまったって。だんだん方向も分からなくなってきて、青年は南だと思って歩いていたらしいが、私が思うに間違って違う方角へ進んでいたんだろう、結局、田港の家を見つけたらしい。
 その家には八十歳を越したおじいさんが一人でおって、この青年飛行士を見て魂が飛んでいくんじゃないかというくらい驚いたって。共通語の分からないおじいさんだったからね、方言でこの青年に「あんたがここらを歩いていたら私も危なくなる、うちのご飯はたくさんあげるから、食べたら早くここを出て行きなさいよ」と言ったらしいよ。この時はすでに部落の人はみんな米軍の捕虜になっている状態だから、日本兵をかくまっていると思われると確かに自分の身が危なかったよ。
 おじいさんはその日本兵をほったらかして、急いで私が隠れていた壕を訪ねてきた。おじいさんは私に状況を説明してから「ウリンレーガウイネー、ワッターヤーヤ、ネーンナイ、アメリカーンカイ、ウリンレーワカラリーネー、チャーガナイラーワカランテー(あいつがいたら私たちの家はなくなってしまう。アメリカーにこのことを知られたら、どんなことになるかわからないよ)」と心配していた。
 私が「その日本兵をここに連れてきましたか」と尋ねたら、「連れて歩いたら私は大変さあ、もうどこに行ったかも分からない、どっか行きなさいと私は言ったから」という答えだった。私は「いなくなっているんだったらいいですけど、もしまだ家にいたらここに連れて来てください」と言った。するとおじいさんは「あれを連れて歩くのを見られたら、私は殺されるよ」と驚いていた。
 それでも私は「みんな戦に行っているのに私はここにいてぼやぼやしているから、皆に申し訳ないと思っていました。せめて私がその日本兵の面倒を見ますよ。その人は捕まえられたら殺されてしまうし、私が責任もって面倒見るから連れて来てください」と言った。
 実際あの当時は、男が戦争に行かなかったら恥ずかしかったよ。おじいさんは「じゃあ明日連れて来るよ」と納得したようだった。私は「日本の兵隊だったら色も白いはずだから、顔や手や足にも汚れやススをつけて、クバ傘かぶせて沖縄の民間人に見えるようにして連れて来てください」とお願いした。
 次の日、おじいさんは私が言ったとおりに準備して、私がいた国吉の家に青年飛行士を連れてきた。

青年を匿う

 その日から私が一週間ぐらい、夜は家に行ったり、食べ物探したりして一緒に移動して、昼はアンナーグスクの壕に隠れてこの青年飛行士から話しを聞いたわけさ。どうやってここに来たのか、飛行場まで行って帰って来た話などを。
 この青年はね、アメリカーが部落をうろうろして歩いているのに、日本の飛行機がきたら、「これだ、これだ!やれ、やれ!」と応援して大きい声で叫ぶわけさ。日本軍の戦法には、アメリカの飛行機を挟み撃ちにするというのがあるらしいね。そういう場面なんかを見たら、自分が攻撃している気持ちになってね「今だ!今だ!」して応援しているわけさ。また高射砲がバンナイ、バンナイ撃つ音がしたら、また「今だ、今だ」して大きな声で叫ぶわけだ。私は困ってしまい「そんなことするな、アメリカーに見つかる。わたしはそんなことされたら大変だよ」と注意したんだよ。
 私がこの青年飛行士を引き受けて一緒にいても、アメリカーにも見つからずにすんでいるから、最初に青年飛行士を私のもとに連れてきた田港のおじいさんも、もう大丈夫だと思ったんでしょう、おじいさんが青年の身柄を引き受けてもいいと言ったわけさ。それで美留の田港家に預けていたんだけど、四月十日頃だな、宇加地にいる人は長浜にみな移動しろとアメリカ軍に命令された。だから今度は、青年飛行士は長浜の※※に預けられることになった。私たちは長浜に三、四日はおったかな、すると今度は石川に全員移動しなさいと命令された。
 そこでまた、この青年飛行士を部落から移動させるのにひと問題あるわけさ。これまでは見つからずにすんだけど、今度は長い距離の移動だし、石川の収容所に入る時には身元を調べられるでしょう。それに青年飛行士はナイチャーだから色も白いし目立つわけでしょう。もちろん置いて行くわけにはいかないから、粗末な着物を着けさせて、クバ傘かぶせて、なるべく目立たないようにした。また、トラックに乗って石川まで移動する時は、みんな固まって座るようにして、この青年飛行士を真ん中に入れてアメリカーには見えないようにしたりね、工夫したわけですよ。
 結局誰にも日本兵とは気づかれないで、私や田港さんと一緒に、青年は石川収容所の仮家に入ったわけさ。

石川収容所にて

 石川収容所には「タイセイ」という名の二世兵がおったが、この二世兵は毎朝、沖縄の班長連中を引き連れて石川の収容所内を全部、あちこち調査して歩くわけさ。タイセイは若い者を見つけたら捕まえて軍作業に送っていたんだ。私たちが収容所に入って二〇日ぐらい経った頃だったが、このタイセイが朝早く私たちの仮家に入り込んで来て、食事している青年飛行士と、もう一人同じ家にいた川上という名の若い者を連れて行ってしまった。
 二人は川の東の方にあった米軍の病院に連れて行かれ、そこで掃除をさせられているらしいと分かったので、私は訪ねて行った。その時に川上と話すことができたので、「あの青年飛行士と一緒におって面倒見てよ」と頼んだ。川上は「はい」と言っていた。
 川上は青年飛行士のことは「名護の三中生なんですよ」と周りに言っていたらしい。アメリカーも最初は信じておったらしいが、青年は方言をしゃべらんでしょう、だから看護婦連中が「これは三中生ではない、飛行兵だよ」というふうなことをアメリカーに言ったそうだよ。それでこの青年飛行士はまた取り調べを受けて、それから今度は名護の憲兵隊本部に連れられて行って、その後もうどうなったか分からない、そこまでさ。私は結局、後になって川上に話を聞いたが、青年は処刑されたに違いない、みんなそう思ったわけさ。自分の親子さえ安否も分からない人がたくさんいた時代だから、探すこともできないし、そのままになってしまった。
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