第六章 証言記録
元特攻隊員座談会(抄)


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座談会風景
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 この座談会は、一九九二年三月三十日に読谷村議会第二委員会室で行われ、同年七月一日に本編集室により研究資料としてまとめたものから、整理抜粋したものである。なお、司会の発言等は特に大事なもの以外は省いた。
出席者
 久貫※※(茨城県出身)大正十五年生
 上村※※(新潟県出身)大正十五年生
 菊田※※(北海道小樽市出身)大正十三年生
 金田※※(福島県出身)大正十四年生
司会
 大湾※※(読谷村役場※※)
 泉川良彦(読谷村史編集室)
 上原恵子(読谷村史編集室)

「と号 第四十一飛行隊」北飛行場へ

久貫 私と上村と菊田は逓信省の航空機乗員養成所を卒業して、軍隊に入って満州に行ったんです。はじめ満州の「と号第四十一飛行隊」というところにおりました。この「と」というのは、特攻隊の「と」なんですね
 一九四五年(昭和二十)二月十一日に、新京(現在の長春)で正式に結成されたんです。それで第八飛行師団に転属を命ぜられましてね。第八飛行師団というのは台湾にある師団で、そこの指令を受けるということで南下してきたわけです。
 三月二十七日に知覧の飛行場に到着しましてね。知覧で寺山隊長がもらった命令は、もう敵が沖縄に迫っているから、台湾または石垣島に行くには及ばない、そこから出撃しろという命令だったと聞きました
 そして翌二十八日の午後六時頃離陸して、この飛行場(北飛行場)に来たんです。
上村 俺の聞いたのは「沖縄に前進をして敵の来襲を待ってこれを撃滅せよ」という命令だったと思うが。
金田 私もそういうふうに聞いていた。
菊田 ですから私たちは爆弾を積まずに、補助タンクを積んで、こちらへ着陸したんです。ここからくり返し爆弾を落としに行くという計画だったんでしょうね。
 隊員の中で、かつて沖縄へ降りた者は誰もいないんですから、どこに飛行場があるかもわからないでぐるぐる回ってね。隊長なんかは真剣になって、飛行場はどこだろうと一生懸命探していたんでしょうね。暗いから僕らはついていくのがやっとでした。離れたら終わりですしね。
上村 明かりも見えなかったし対空砲火の一発もなかった。敵は米軍機と誤認していたのかもしれませんね。
金田 そうでしょう。敵の中で翼灯をつけて飛んでいるんですから、今考えたら常識はずれですよね。それで着陸したものだから、敵の方がびっくりしたんじゃないでしょうか。
上村 なんせ九機の戦闘機ですからね、翼灯から何から全部つけないと編隊が組めないんですよ。夜の八時半ぐらいですから、ほとんど真っ暗ですね。
 後で聞いた話によると、北飛行場には夜間着陸用の照明がなく、電信も使えないので場所も指示できなくて、ドラム缶で何かを燃やして着陸誘導したということなんです。途中雨の中、夜間でもあったことから、北飛行場に着陸することにしました。
金田 読谷の北飛行場には八機、一機は中飛行場へ着陸しました。中飛行場に行ったのは塩谷※※といって、少年飛行兵乙種十五期大刀洗陸軍飛行学校甘木教育隊出身です。
 塩谷だけは嘉手納の中飛行場に着陸して、彼は次の日に北飛行場へ合流することになりました。
菊田 考えてみれば、無事に着陸できたことも運がいいんですよね。翌日行ってみたら穴だらけでひどい飛行場でね。びっくりしましたよ。
金田 生きているのが不思議だと思った。平らな所に着陸する時さえひっくりかえることがあるのにね。穴だらけで、しかも夜なのによく飛行機も壊さないで着陸したなあと思います。
上村 着陸したらすぐ艦砲射撃を受けました。現地にいた兵隊さんと一緒に、飛行機を掩体壕に押して行ってね。僕らの飛行機には爆弾を積んでいませんから、胴体の下につけた落下タンクを降ろして後、爆弾を積み込むんですが、なかなか連絡もとれないし、爆弾の種類の問題もあって、小川曹長 機みたいに懸吊架(けんちょうか)そのものをつけてないのもありましたし、爆弾を積むのに手間どったりして、考えている暇もないうちに夜が明けちゃったという感じでしたね。
司会 懸吊架というのは何ですか。
上村※※さん
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上村 爆弾をとめるための金具ですよ。我々の場合は、本来は台湾まで行くということだったんで、満州から補助タンクはつけっぱなしで来たんですね。九州から特攻で出る人は補助タンクはないんです。補助タンクをつけて爆弾もつけると浮きませんから。だから補助タンクなしで爆弾を積んだ。片道飛行ということは、燃料は満タンにして来るんだけど、片道しか飛べないんですよ。
 海軍は元々、船を沈めるのが目的で、飛行機も造ってあるし訓練もそうしていますからね。陸軍の場合は地上攻撃が専門で飛行機も造り、戦闘員も教育してありますからね。状況が変わっちゃったんですよね。船だけを攻撃するということになったもんで、主力になる戦艦、空母は海軍が担うということです。陸軍の方は、一万トンの輸送船から上陸されると人がしょってくる荷物だけだったら、せいぜい一〇〇キロですよね、重武装しても。それで一万トンということになると、すごい人数が上がるわけです。だから、地上軍はそれをあげられちゃうと、被害を受けるから、その前に撃沈するんだということで、仲間うちという意識があるわけでもないんですけどもね、各々の分担がありました。海軍ならば艦船を壊せる爆弾を積んでいるし、陸軍は破壊力の範囲の広い爆弾にするとかね、いろんな内容は違ったんでしょうね。
菊田 僕らが着陸する時は弾が飛んでくるということはなかったんですが、ポムポム砲 って言うんですか、あれでもってバババババーンと撃って、本当に曳光弾が十字砲火となって飛んで来たんですよ。要するに、日本の飛行機が降りたので米軍も慌てて撃ち出したというかっこうでね。巡洋艦から撃ったのか、駆逐艦から撃ったのか分からないけどね。掩体壕に入れかけた時に攻撃を受けたんです。
金田 その晩は飛行場設営大隊本部ですね、飛行場関係を司る設営大隊がいるんですが、そこで夕食を、明日は死ぬんだからということで歓待をうけたんです。が、歓待といったって、そんなに料理があるわけじゃないしね、皆さんと我々とで夕食を食べまして、その後ざこ寝したんですよ。もう兵舎なんてありませんから、飛行場の端の方で。丘をくり抜いて屋根をかけたくらいのとこで、ムシロか何かを敷いたような状態でした。
司会 飛行場大隊の人たちはまだ残っていたんですか。
金田 五、六人から一〇人ぐらいだと私は思うんですが。
菊田 整備兵を入れるともっと多いと思います。
金田 そんなにいたかなあ。
菊田 結構いましたよ。三〇人ぐらいはいたんじゃないですか。最後の晩餐の時、パイナップルをご馳走になって、それが美味しかったのが忘れられませんね。
 沖縄へ来てみるとすぐそこに敵の船がいるという状況で、知覧から二時間半も飛んで来たので飛行機がボロで、エンジンを直したりで時間がかかって、夜明けになったんです。

翌日、出撃の朝

菊田 夜明けと同時に出撃という予定だったんですが、それが遅くなって、もうあたりは明るくなっていました。出撃は五時半か六時頃じゃないかと思います。
 我々はエンジンを回して、滑走路からそのまま海岸に向かって飛び立てば一番早いんですが、追い風でしかも一五〇キロ爆弾を積んでいるから、相当の距離を走らないと離陸できない。
上村 一機ずつしか出られないんです。昼間艦砲で攻撃されて、穴のあいた所を夜に直してくれたんです。飛行場を全部埋めるなんていうとこれは、えらい騒ぎですから、それはできない。一機でも二機でも離陸できるように重点的に滑走路を埋めるということになったんでしょうね。
菊田 出発しようとするところへ、銃撃をくらってやられたんです。爆弾を積んでいるから、誘爆すると困るから、とび降りて走ってね。だから、よく怪我をしなかったなと思います。頭を射ぬかれて当り前なのにね。
 攻撃の間隙(かんげき)をぬって四機が飛んで行ったんです。小川曹長というのは、爆弾の懸吊金具が悪くて爆弾を積めなかったので、いち早く飛び上がって空中戦をやったわけです。二機撃ち落とした後、撃ち落とされたんです。その間隙をぬって三人が飛んだわけです。一番沖まで行ったのは、高祖少尉と堀口軍曹です。残念ながら大河伍長は海岸すれすれの所で撃ち落とされて爆発してしまいました。卵をフライパンに落とすようなものですよ。言葉では、敵艦船を撃沈だとか轟沈せよとか命令されましたけどね。その間僕らは蛸つぼに入って見ているだけでね、何にもできないわけです。飛行機があるので、飛べるやつはエンジンを回せと整備兵に言ったりしていましたが、飛ぶ力はなかったし、飛べる状況じゃなかったです。
 グラマンが一個中隊一二機ぐらいで来ていて、帰った途端にすぐ艦砲射撃ですよ、ダダダダダダーンとね。
金田※※さん
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金田 小川さんが飛び立った時に、中飛行場から塩谷が爆弾を積んで北飛行場に降りてきたんです。
久貫 私たちの隊の戦死者をまとめると、高祖少尉、小川※※曹長、堀口※※軍曹、大河※※伍長の四人です。大河伍長は朝鮮出身で朴※※(ボク※※)が本名です。
金田 二十九日の状況は、飛行場の上空からじゃなくて中から見たんですが、とにかく海面が見えず、船しか見えないというそんな感じでしたね。
菊田 海面を覆い尽くすというのはあのことですよ。海は艦船だらけですよ。上陸するのを待っていたんでしょうね。輸送船、航空母艦、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、それから上陸用舟艇が走り回っていました。それはすごかったですよ。それが二十九日の状況です。
 グラマンは何分ぐらいで帰っただろうか。
金田 地上攻撃はそんなに長くは続かなかった。一斉にやられた時だから、そんなに長い攻撃じゃなかった。しかし、退避する時に機銃掃射をかなりやられた。三月二十八日の夜八時半頃の着陸なんだから、二十八日に間違いないね。
 そして二十九日の早暁、飛行場に出た時はまだ暗かったので、六時よりもっと早い時間だったように記憶しています。艦砲射撃があったのは飛行場に出てからだったからね。
 あの時にこっぴどくやられて、出撃不可能になり、結局残ったのは寺山※※大尉という指揮官(陸士の五十五期)、菊田、上村、塩谷、私金田の五人です。
 飛行機が駄目なもんですから、三十二軍の佐藤参謀が来られて、もう一度再編して来いということで、そこから脱出して金武に行ったんです。

出撃を諦めヤンバルヘ

菊田 大隊長命令で徳之島まで行って飛行機をもって来いと、そうすればお前達またやれるぞということで、生き残りの五人で金武に行ったんです。
 だが命令をもらったけれども、地図はないし、どこへ行っていいかわからないわけですよ。まず高い山に上ろうということで、そうでなかったら戦況はわからないということで、歩いてどこの山かわからんけど上って見たら、那覇方面がものすごくやられているわけです。太平洋側と東支那海側にたくさん軍艦があるんで、どっちかが日本軍だと思い、撃ち合いをやるんだと思って見ていたんですが、全然海に弾は落ちないんです。そして那覇がバンバンやられているんで、これは駄目だ、南には行けない。一番てっとり早いのは那覇の飛行場に行くことなんだけど、逆に下りて行こうということで金武に向かったんです。部落の人に聞いたら、海軍がいるということで、今の鍾乳洞のあたりじゃないかと思うんだけども、その洞窟に海軍(注 第二二震洋特別攻撃隊。通称「豊廣部隊」)がいたんです。実はこういうことで来たと僕らが言うと、向こうは「俺達は今晩出るんだ」と言ってバリカンで髪を刈ったりしていたんです。
 そこにあった船は、爆弾(爆雷)を積んで、一人で操縦してそれこそ片道で突っ込むようなものですよ。そういう部隊ですら、僕らを徳之島まで送ることはできないということだったんです。
 それでトラックを出してもらったんです。二十九日は出撃の日だから、三十日の晩か、それとも洞窟で一晩泊まったかは覚えてないんだけれども、とにかく夜送ってくれたわけです。そこには二、三日もいないですよ。案外その日かもしれない。彼らに、運天港に行きなさいといわれて、運天港に送ってもらったんです。上村さんの記憶でも三、四艘ぐらいの魚雷挺がいたということですが、その時には一つしかない。あとは隊長が乗って行くんだということでね。そこに乗組員がいなくなったら、整備の人達は宇土部隊に合流することになっていたんで、我々も連れて行ってもらって宇土部隊に合流したんです。それで八重岳の生活が何十日か続いたわけです。
*注 震洋特別攻撃隊
 金武町には第二二震洋隊(金武区)に、第四二震洋隊(屋嘉区)が配備されていた。住民からは、特攻隊、あるいは部隊長の名をとり、前者を豊廣部隊・後者を井本部隊と呼んでいた。(『金武町史第二巻戦争・本編』三九三頁)
上村 八重岳の頂上に監視哨があって、私達はパイロットだから、飛行機の種類とか船の種類は多少わかるんです。
菊田 目がいいから。
上村 八重岳の上から状況報告を部隊本部にしていたんです。それが一週間くらいでしょうかね。
菊田 一週間から一〇日ぐらいでしょうね。護郷隊の宇土大佐に申告したところ、我々の隊長寺山は陸士卒の大尉ということで、「いやよく来た。手伝ってくれ」といわれその配下に入った。それで、金田さんの話を聞くと、彼らは参謀付きのようになって、監視哨には来なかったわけです。
 僕らは監視哨へ行って、飛行機が何機飛んで来たとか、軍艦が何隻走っているとかそんな連絡を何日間かやっていたんです。宇土部隊には二、三発撃てば駆逐艦が沈むようなすごい大砲があったんですが、撃てばこちらの所在がわかるということで一発も撃たなかったんです。一発も撃たないうちに敵が上陸してきたんです。
 それで我々は「転進」といえば聞こえはいいんですが、いわゆる逃げたわけです。逃げるのも、少なくとも六〇〇名から多ければ九〇〇名ぐらいですよね、一個連隊ですか、それだけの人間が散り散りに逃げたわけです。
 名護から仲尾次の線で本部半島の根を断ち切られたわけですね。
金田 宇土部隊といる時、第三高女の方たちにもお世話になりました。比嘉※※さん、島袋さんなどを覚えています。比嘉さんは名護の近くの出身だったと思います。
上村 ちょうど八重岳を出る時、私達二人は監視哨にいましたから、一番最後に、夜中の十二時頃出たんですよ。伊豆味あたりの敵の陣地を縦断するものですから、五〇人ぐらいの隊で出るんですけどね、残っていたのは野戦病院と本部付の非戦闘員が多かった。その人達を連れて出て、途中で夜光塗料を塗ったバンドをつけて、後ろから見えるようにし、軍靴は布をまくか脱ぐかして、そんなような状況でしたね。伊豆味の平地の所で夜が明けましてね、なるようにしかならないということで、林の中で一日様子を見てね。
金田 灌木の下でね。
上村 艦砲射撃の間をぬって夜になってから向こうにぬけたんです。
金田 八重岳から撤退する時、我々は部隊の人間じゃないものですから、第三高女の方々、司令部関係の女子一五名ぐらいと一緒に、山の方に退避しました。
上村 敵の天幕の脇もぬけて通りますね。先の方で誘導者がいなくなると、「指揮者前!」ということで、残っている人の中の下士官であるとか、そういう人が先に出て行って誘導するんですね。深夜真っ暗な中を歩きました。
菊田 中には癖のある人がいて、何でもないのに咳をしたり、痰や唾をはいたりする人はみんなの列の後ろにまわしてね。お前の咳のおかげで殺されるのはいやだっていうふうなもんで。一列になって粛々とね。声ひとつ出せなかったからね。
金田 そういうことはよくありました。北に行ってみたり南に行ってみたり、紆余曲折の道中でした。一か月間そういう感じでしたね。
菊田 逃げている時は、セスナ機と照明弾と四輪駆動のジープには悩まされましたね。多野岳のあんな山の中までジープが上がってくるんだからね。四輪駆動のジープで一人残らず探し歩いているんです。そして先の方に鰐(ワニ)の絵を描いたセスナ機が地上すれすれに這っては、少しでも動きがあればすぐ戦艦に連絡して、ドドーンと来るわけですから。
金田 あれには悩まされたね。
菊田※※さん
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菊田 名護湾に上陸する前なんか、照明弾で照らして弾を撃ち込んで、田圃や林を焼くわけですよ。
 水陸両用戦車が一人も通さないというくらいに、とうせんぼをしていましてね、そこを抜けて沖縄県立第三高女の生徒さんを連れたり、鉄血勤皇隊の人を連れたりして、他の人は一〇〇名単位で逃げたか五〇名単位で逃げたかわからないけど、僕らは最後までそれを知らなくて、しんがりで逃げたんですよ。
 そして多野岳に行ったのですが、そこに行っても食糧があるわけでもないし、中隊が小隊になり、小隊が分隊みたいになって、我々は五人で逃げようということになったんです。
上村 結局、部隊で行動していますとトンボに見つかり、いっぺんに全滅させられるということで、部隊が解散したんですね。それから各々ゲリラ戦に入るということで、その隊の終末はそういう感じになったんです。宇土大佐が統率してという戦闘ではなくなったんです。その時期から我々は別の行動をとりはじめました。陸軍中野学校出身のスパイ部隊の人とうちの隊長が同期だったんですよ。宇土部隊で彼らスパイ部隊の知り合いに隊長が再会して、何かあったら俺の所に来いという話になっていたようです。
菊田 彼らの陣地の図面をもらったんですよ。それが「オオシッタイ」の山の中。それで僕は「オオシッタイ」という地名を記憶していたんですよ。今回地図を買って見てみたら、カタカナでオオシッタイと書いてあるんですよ。ああ、これだと思って。オオシッタイの山の中に北部隊という、北海道出身の人を隊長として、軍曹が三、四名いました。それから沖縄の中学生を使って、山を掘り、無線機を据え付けアンテナを灌木に結い付けて、そして大本営と連絡しあっていた部隊です。そこの生き残りの人が後で書いているのは、我々は秘密部隊なのに何で特攻隊にこの場所を教えたのかということで、ちょっと非難めいて書いていました。最後には特攻隊も励ましてくれたという感謝の文章がありましたが。その方は外務省に勤めていたんです。その人の記録にあるんです。
上村 そのうちの下士官の一人が私の育った所の近くで、学校も近かったものですから、いろいろ話をしたんですが、沖縄と硫黄島とサイパン島、この三か所にスパイ部隊が派遣されているんだと言っていました。いろんな情報を大本営に送るという役目だという話をしていたんです。いろいろ話したんですけど、その辺に洞窟が七つか八つほど掘ってありましたよ。一か所やられたら他の基地(壕)というふうに、拠点をいくつか造ってありました。敵に占領されたら他に移るというような状況でした。通信資材の搬送とか、だいぶてこずっていた時期だったものですから、手伝ったりしていました。

クリ舟で島伝いに本土帰還

菊田 僕らも諜報活動に出たりね、アメさんのいる基地があるんですから、そういう所に行ったりしていたんです。そのうちにドイツが負けたということやルーズヴェルトが死んだということを聞きました。そしてある時、諜報員が帰ってきて、北部にいるアメリカ軍の部隊が南に移動している、どうもこれはおかしいと言うんです。それから牛島兵団に対する総攻撃をするために、北部を占領していた部隊が全部トラックで運ばれて南に行ったんです。それで北部ががら空きになったんで、よしこの時だ、と脱出するということになったんです。北部隊は諜報部隊ですからボートまでもっていて、隊長はそれを持って行けと言ってくれたんですが、それは遠慮して、辺土岬めがけて歩きました。歩くだけ歩いて奥の部落に着いたんです。部落はがら空きで、山の中で生活していると言うので、そこに連れて行ってもらい、そこで何か月ぶりかにおにぎりをご馳走になったりしました。そして、脱出命令を受けてきたので、クリ舟で行きたいがどうだろう、と村長さんか部落会長さんに相談すると、送ってやるということになったんです。クリ舟を出そうとすると、海岸に照明弾のようなものが上がって、暫くすると潜水艦が浮いて来るんです。だからその日は駄目だとあきらめ、次の機会をねらい、五月三十一日の晩に出発することができました。部落の人に訊くとクリ舟で三時間ぐらいで渡れるということだったんですが、我々は八時間か九時間かかりました。夜ですから夜光虫が光っていてね。沖に出た時に、南はバンバンやられて、炎で赤くなっているわけですよ。それで北をめがけて行って、与論島の海岸に夜明けに着いたのです。
 たまたま部落民が海岸に来たので訊いてみると、一個小隊いるということだったので、そこに案内してもらいました。疑心暗鬼の目で見られましてね。ところがうちの隊長が陸軍大尉で、向こうは守備隊長少尉だったから、それで事情を話してわかってくれて、そこにはだいぶいましたね。その島までは暁部隊の上陸用舟艇が来ているんですよ。それに乗せてもらって沖之永良部へ行って、そこでも一週間か二週間世話になりました。そこには一個大隊ぐらいいましたから、よく来た、心配するなと言ってくれてエンジンつきの船で送ってもらって徳之島へ行きました。徳之島の飛行場へ行ったんですが、襲撃機しかない。その時にたまたま神参謀という少佐がいましてね。
司会 神※※さんですか。
菊田 はい、その人が来たわけです、当番兵を連れて。彼が書いたのを読むと「寺山特攻隊長は是非新田原まで一緒につれて行って呉れと云ふ。きいてみると修業機が軍偵だと云ふ。操縦させることにきめる。不時着して飛行機をこわし、新田原に代機をとりに行くというのである」ということで、寺山大尉はそこで僕らとは別れた。
久貫 あれは大刀洗に行ったんだと思ったが。
金田 新田原だよ。
菊田 福岡に本部があって、彼は先に行き、僕らはまた残された。それで暁部隊の舟艇で送ってもらって奄美大島に行きました。奄美大島には海軍の基地がありますから、海軍の人がたくさんいるんです。そこの名瀬に行って、そしたら佐世保から海軍フロート付水上偵察機、すなわち海上を離着水する飛行機ですね、それが連絡で来てくれるので、それで送ってくれるということになりました。特攻隊の人がたくさんいましたが、何で僕らを先に送ってくれたのかわかりません。とにかく別々に二人乗りかまたは三人乗りの飛行機ですからね、それに乗せてもらって、僕は七月四日に佐世保に降りたんです。そして同僚が来るのを待って、集まったから、借用書を入れて海軍さんから五〇円借りて、佐世保の駅から博多へ行ったんです。そして博多の第六航空軍の本部へ行ったんです。そしたら新聞に出ていてお前らは死んだことになっているぞと こうなったわけです。
 戦友が死んだりして、もちろん我々も行くから早く飛行機をくれと言って。その当時筑紫高女が本部になっていて、僕らは、そこの一つの教室に軟禁状態になったんです。
 戦況のことを知っているからね。沖縄の戦況報告したんです。冗談じゃない、竹槍で勝てるか、三八(さんぱち)式歩兵銃で勝てるかと。向こうは八連発だぞ、一五連発だぞと。そしたら箝口令(かんこうれい)が出て、僕らは軟禁状態になったんです。
司会 まだ戦争中だからそれを話されると困るわけですね。
菊田 困る。それで、とにかく早く飛行機をくれといって、宮崎県の新田原飛行場に行って飛行機をもらって知覧で待機していたわけですよ。
司会 五人ずっとご一緒だったんですか。
菊田 詳しく言うと、もう一人生き残りで今村軍曹という飛行パイロットがいたんです。徳之島に行くなら加えてくれということで六人になったんです。しかし、オオシッタイを出てから塩谷という伍長が斥候(せっこう)に出たわけですよ。どっちへ行っていいかわからないし、斥候に行って三〇分か一時間たっても帰ってこなかったら、俺達は北へ行くぞと言ってあったのですが、塩谷は出て行ったきり帰って来なかったんです。それでそこから五人になって、奥部落へ行ったんです。そして塩谷は戦後帰ってきたわけです、捕虜になって帰ってきたんじゃないかな。
 我々五人はクリ舟で送ってもらったんです。事実を申し上げれば、与論島まで行って銃殺された兵隊もいますよ。脱走兵とみなされて。だから僕らも行った時には非常に詳しく話を聞かれたわけです。
金田 そういうふうに与論に渡った人がかなりいたんだな。わからなかったけど。
上村 戦後本を見ると、練馬高校の校長先生だった人が書いている本の中に沖縄戦記というのがありまして、その人も宇土部隊に一緒にいたんです。その人の書いた本によると、その人も徳之島へ行ったようです。彼も装備し直して逆上陸するために行ったということで、その人達は与論で止められてそのまま終戦になったみたいですね。

終戦そして現在

菊田 これが戦争だということを痛感しましたからね。私は北海道出身ですが、あの頃の噂では、帰ったら特攻隊なんか「いの一番」に殺されるというわけですよ。こっちは飛ぼうと思っても飛べなくて、やむなく熊本県菊池の飛行場で飛行機の時計を取って、油撒いて飛行機焼いて、そして汽車で帰ったんですが、途中久留米の街なんかやられてました。そして青森からは船で渡ってね。そして帰りましたよ。帰るのは早かったですよ。八月の二十七、八日頃小樽へ帰りましたからね。帰ったら私の仏壇があって、玄関には「故陸軍軍曹菊田※※英霊宅」と書いてありました。実家前は小学校への通路になっていたので、その頃は集団登下校ですよね、その時は家の前で全体止まれ、再敬礼をしていったようです。母は生徒さんが家の前を通る七時半か八時頃になると、水をまいて玄関に座っていて、一人ひとりに頭を下げていたそうです。北海道庁長官から香典五〇円と供物をもらい、小樽市長からも香典五〇円と香炉をもらい、仏壇にきれいに飾ってありましたよ。そのほかにもいろいろあって香典が八六〇円くらい集まりまして、今でもクラス会に行くと香典泥棒と言われますよ(笑い)。
司会 戦後、他の方の消息はどうなりましたか。
久貫 寺山さんは亡くなりました。
菊田 戦後亡くなりましたね。塩谷君も病気で亡くなりました。
司会 じゃあ、残った方々は今でもこうして交流なさっているんですね。
菊田 私たち四人とね、今回来る予定だったんだけど、加瀬曹長、この方は私より三つか四つ歳上ですけど、病気で来られなくなったんです。もう一人は清水少尉、この人は我々と一緒に沖縄に向かう予定だったんですが、飛行機が故障ばかりして、とうとう飛んでこれなかったんです。この人は四国香川の観音寺市に住んでいて、県警察の事務職を退職したらしいです。この人が一番遠くに住んでいるので疎遠だったんです。四年程前に我々の隊の集まりを金比羅さんでやった時に、戦後初めて会ったんですが、この人には今回の沖縄行きについて声はかけませんでした。離れていたので疎遠がちですね。一五人のうち、生きているのは僕ら四人と今言った二人の六人だけです。
司会 それでも特攻隊としては、生きている率は高い方じゃないですか。
菊田 そうですね。高いですね。
上村 時期が早かったというのと、主力が半分残っちゃったですからね。普通は全機で出て飛んで来て、突っ込む突っ込まないは別にして、途中で海中に落ちた人も全部特攻戦死になりますからね。
久貫 私達の一か月後、三月に二個中隊編成されましたが、それは全員戦死しました。その後に四月に編成されたのは半分は残っています。
菊田 特攻戦死になっているのは、沖縄で死んだ四人と、僕らの同期で僕と大の仲良しだった山田軍曹、その人は僕らと一緒に飛んだんだけど、エンジンの調子が悪くて戻ってね。僕らが死んだと思っていて、申し訳ない、いつか行くと言っているのを石田曹長がとめてたわけですよ。石田曹長は一昨年の一月に亡くなったんですが、面倒見がいい人で、その人が山田を押さえていたわけですよ。ところが、彼が熊本の病院に入院した隙に、山田軍曹は五月十一日、一人で突っ込んで行っちゃったんです。だからどこへ突っ込んだか全然わからない。
 だけど戦死で二階級特進しましたからね。知覧から出た特攻戦死者ということで知覧に祀られています。特攻戦死したのは一五人のうち五人です。
金田 二か月沖縄にいたんですが、当時沖縄の人達に助けられたというのは忘れられませんね。私達も二十歳前の年代でしたから、皆さんも自分の子供のような気持ちでいてくれたんじゃないですか。
司会 おばあちゃん達から話を聞いていると、自分の息子や夫がどこかでこんなふうにお世話になっているかもしれないと思って、親切にしたとおっしゃいますね。
金田 今考えてみると、自分達が食べる分も十分にないような状態なのに、我々によくご馳走してくれたなと思います。当時、蘇鉄の澱粉をだんごにして食べさせてもらったりしました。
菊田 沖縄の方達も苦労なさいましたね。しかし考えてみると我々は沖縄の人にあやまらなくちゃいけないね。国を守る軍人が負け戦をやったんだから。
金田 本当だね。
司会 ところで、飛行訓練というのはどれくらいやるんですか。
上村 我々の場合は二年やったかどうかくらいですね。
司会 満州の方で飛行訓練はなさったんですか。
上村 軍隊に行く前にライセンスは取っていたんです。
菊田 僕らは民間の飛行パイロットを夢みて、今でいう運輸省、昔は逓信省っていってましたが、逓信省航空機乗員養成所のことで、全国で一〇か所ぐらいあったのかな、そこに入ったんです、金田さんを除いてね。金田さんは少年飛行兵ですから彼を除いた僕ら三人はそれぞれ印旛の養成所、古河の養成所、僕は仙台の養成所へ入ったんですが、統合されて全部仙台に集まって、卒業生はみんな仙台出身ということになっているんですけどね。民間のパイロットを夢みたけど、戦争中だし、軍隊にひっぱられて、戦闘機と偵察機と軽爆撃機と重爆撃機に分けられて、僕らは戦闘機に配属されて一番遠い満州の教育飛行隊に行ったんです。軍隊にいたのは一年そこそこです。
久貫 今の航空大学校の前身みたいなものです。
菊田 だから仙台の飛行場で飛行訓練を受けて、そこで二等操縦士と二等航空士の免許をもらいました。
 ところで、死んだ連中のことを考えると、生き残れただけでも十分すぎますね。そのためにみんな真面目に働いて、高度経済成長にも貢献しましたし、一人もブタ箱に入るような者もいなかったし、それが死んだ人に対する我々の気持ちであり、支えです。沖縄で死んだ我々の仲間で大河というのが、さっきも言いましたが韓国の人で。
金田 朴※※。
久貫※※さん
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久貫 この間やっていたNHKで「離別」というドラマがあったんですが、その原作者が飯尾※※といいましたかね、その人が大河のことを『開聞岳』という本に書いているんですよ。僕はドラマを見なかったんだけど、その中には大河に関連したことが出ていたかもしれません。
 私は本は読みましたが、原作者に共鳴できないところがありましてね、ドラマは見なかったんですが…。
金田 朴※※(大河※※)の弟で朴※※という人がいて、その人とは一〇年程前から五度くらいお会いしました。そしてこの人が言うには、兄の最期については詳しく伝えるべきではないかと言うんです。『開聞岳』には、いかにも内地の人達が朝鮮の人達を差別したんじゃないかと書いてあるんです。我々が生き残って大河君が戦死したというのは、朝鮮人だから先に殺したんじゃないかと言わんばかりですね。事実はそうじゃないんですけれどもね。それで弟さんにも我々の隊のことをよくお話したんですよ。向こうの教育が日本が韓国を併合して属国化したということに対する抵抗が非常に強いもんですから、日本人そのものに対して許せないという感情をお持ちのようだったんですね。それはだんだん解消したようですけれどもね。
上村 当時三〇機の戦闘機が出て空中戦をやるとですね、三分の一くらいは落とされるんですよ。装備も劣悪化していますからね。その中で落とされちゃうのが我々ひよっこなんですよ。帰ってくるのは年期の入った腕のいい人が多く、どうしても未熟なものは落とされる確率が高いわけです。でかい空中戦を三、四回やると生きて帰れないなというような気持ちは、戦闘機に乗り始めたときからありましたね。
 今の若い人が聞けば、ばかじゃなかろうかといわれるかもしれないけど、その当時は純粋に国のために死んでいくんだという気持ちですから。そうかといって特攻隊に選ばれたからってやけになるわけじゃないし、戦後はまじめにそれぞれの地位で生きてきたんですよ。
 戦後、「特攻隊くずれ」というのが流行って、今で言えば愚連隊か。僕なんか特攻隊くずれになったら困るから、早く結婚するように父親に言われ、翌年二十二歳で結婚しました。今の人達は、うちの子ども達もそうだけど、国のために死ぬなんて理解できないと、そう言いますよ。
司会 みなさん、今日は貴重な時間を割いて頂きありがとうございました。

語注(主に久貫※※氏提供資料より)

 特攻隊の部隊番号 一番から四六三番まで編成されていたことが『陸軍航空特別攻撃隊史』に記録されている。最初「と号○○飛行隊」と呼称されるが、沖縄作戦からは、配属先が第八飛行師団(台北に司令部あり)なら「誠第○○飛行隊」、第六航空軍(博多に司令部あり)なら「振武○○飛行隊」と呼ばれるようになった。従って「と号第四一飛行隊」は第八飛行師団に転属して「誠第四一飛行隊」となった、九州に残った人達と沖縄から戻った人達は「振武第四一飛行隊」となった。
 当時の隊長からの命令は「沖縄に前進する。途中で敵機と遭遇した時には、独力で排除して前進せよ。直掩はつけない。もし途中で敵輪送船を発見したら、そのまま体当りせよ。」とのことと記憶している。爆弾なしでは撃沈もできないし、効果はないのではないかという質問に対し、輸送船なら糧弾がなくても体当りで撃沈することが可能だとの意見が出されたことが記憶に残っている。(詳細については防衛庁戦史室著『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』四〇八頁上段一二行以下参照)
 階級について 小川軍曹は知覧を離陸する寸前に曹長に進級。少年飛行兵出身の大河・金田・塩谷も同時に兵長から伍長に進級した。
 ポムポム砲 連射の機関銃で口径二〇から二五程度のもの。
 次の新聞記事参照
(新聞記事1)
殊勲・陸軍特攻隊

 三月二十九日沖縄西方海面で敵艦中型二隻轟沈、一隻撃沈、大型一隻大破した陸軍特攻隊寺山大尉以下の氏名左の如し
 寺山※※大尉 大正十年生、千葉県東葛飾郡柏町
 高祖※※少尉 大正十二年生、佐賀県佐賀郡南川副村鹿江
 小川※※曹長 大正十年生、岡山県阿哲郡刑部町大字小坂部
 堀口※※軍曹 大正十年生、宮崎県東臼杵郡南方町南方
 菊田※※軍曹 大正十三年生、小樽市稲穂町
 上村※※軍曹 大正十五年生、新潟県北魚沼郡小千谷町東吉谷
 金田※※伍長 大正十四年生、福島県大沼郡本郷町二枚橋
 大河※※伍長 昭和三年生、朝鮮咸鏡南道咸州郡興南邑西湖里
 塩谷※※伍長 大正十五年生、鳥取県今町
  『毎日新聞』昭和二十年四月四日より
*編者注
  実際の戦死者は高祖※※少尉・小川※※曹長・堀口※※軍曹・大河※※伍長の四人。
(新聞記事2)
いづれ死ぬものと発表訂正を怠る
  生きていた小樽の菊田特攻隊員

 昭和二十年四月二日ラジオは小樽市豊川町出身の菊田※※軍曹(二十二)が機三機とともに沖縄本島上陸を企図する敵機動部隊に突入、敵艦船四隻を轟沈したことを報じた。つづいて各新聞紙も国亡びて何の山河ぞ吾に続け!いとその凛々しい遺書や老父母の健気な決意を伝へ、全道民は軍曹を神鷲と仰ぎ郷土の誇りと讃へた。だが、死んだはずの軍曹は生きていた。軍当局は生きている事実を知りながら、いづれは死ぬものときめ発表を訂正しようとしなかったのだ。いま軍曹は札幌市日本鉱機会社の会計に文字どほり更正の道を求め市内豊川市内豊平四條三丁目の長兄※※さん宅から通勤を続けている…(以下略)
 『北海道新聞』昭和二十年十二月三日
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