第六章 証言記録


<-前頁 次頁->

座談会3 元特攻隊員座談会

はじめに

 この項では、読谷山(北)飛行場から特攻攻撃に参加すべく降り立った特攻隊員の座談会と手記を中心に、読谷山村に関係した日本兵の日記や証言、および関係者や遺族の証言を取り上げた。
 体当り攻撃、いわゆる特攻攻撃で亡くなった死者の総数は、海軍側で二六三二名、陸軍側では一九八三名、合計で四六一五名といわれる。(『文藝春秋』二〇〇三年十月号)
 「元特攻隊員座談会」と金田※※さんの手記は、一九九二年七月に発行した『読谷村史研究資料6―9(18)読谷村史戦争編 聞き取り調査報告「特攻隊関係資料」』より再編集したものである。
 全体の構成として、まず金田※※氏の手記を掲載し、その後に座談会と続き、最後に関係者の体験記を掲載した。

体験記

読谷山(北)飛行場に降り立った特攻隊員の体験
金田※※ 誠第四十一飛行隊(扶揺隊)

編成より出撃まで

一九四五年(昭和二十)
   一月二十六日  第二航空軍より特攻隊四個隊の編成下命
   二月  三日  二十六教育飛行隊員を中心とした人員編成完了
隊長 陸軍大尉 寺山※※ 五十五期
          二十六教飛分屯隊長
隊員 陸軍少尉 高祖※※ 特操一期
    〃   山崎※※  〃
    〃   清水※※  〃
   陸軍曹長 石田※※ 二十四教飛助教
    〃   加藤※※ 二十六教飛助教
   陸軍軍曹 堀口※※ 昭和十五年兵
    〃   小川※※ 少飛七期
    〃   上村※※ 予下十四期
    〃   菊田※※  〃
    〃   山田※※  〃
    〃   久貫※※  〃
   陸軍兵長 金田※※ 少飛十五期(甲)
    〃   塩谷※※  〃   (乙)
    〃   大河※※  〃   (乙)(韓国名 朴※※)

   二月七日  寺山大尉以下一五名、ハルピン(馬家溝)の
         二十六教飛本隊に集合。(二十六教飛にて壮
         行会挙行)
   二月九日  新京飛行場で九七戦受領。一五機全員集結完了。
   二月十日  新京にて特攻隊四隊の編成及集結完了。満州
         国皇帝に拝謁、記帳、恩賜品の下賜、建国神
         廟の参拝等行う。関東軍、第二航空軍主催の
         編成及出陣式並びに特攻四隊の全員出席して
         盛大な壮行会を開催。
  二月十一日  新京飛行場に於いて特攻隊の命名式。配属先
         は四隊共、第八飛行師団。
         扶揺隊一と号第四十一飛行隊寺山大尉以下
         一五名 機種・九七戦
         蒼龍隊一と号第三十九飛行隊笹川大尉以下
         一五名 機種・一式戦
         武克隊一と号第三十二飛行隊広森中尉以下
         一五名 機種・九九襲
         武揚隊一と号第三十一飛行隊山本中尉以下
         一五名 機種・九九襲
 行事終了後、各隊はそれぞれ新任地に就く。扶揺隊は、新京飛行場より一五機全機の編成飛行により奉天飛行場に着く。飛行機は直ちに奉天満州工廠にて二五〇キロ爆弾懸架の装備に入った。爆装完了までの約二〇日間、奉天市内の愛国旅館(霜山※※経営)に宿泊した。
 この頃、二十六教飛分屯隊におられた整備の元村※※少尉より、扶揺特別攻撃隊に捧ぐる歌として「若桜の歌」が贈られた。我々は関東軍よりの特攻第一陣として選ばれ、勇躍壮途につき、悲壮感を内に秘めていただけに、哀調のあるこの歌はよい餞(はなむけ)として全員の心を打った。
 若桜の歌
  一 さらば最後ぞ またの日は 桜花咲く九段ぞと
    笑みつつ 悲し つはものが 清らに交わす 盃や
  二 神治(かみしろしめ)す 国なれば 神勅 相違なきものを
    戦友(とも)よ 戦の理(ことわり)は 国亡びなば 山河なし
  三 人生意気に感じては 朝露(ちょうろ)の命 なにかせん
    大和 島根の 男児(おとこ)ゆえ ああ君は征く 若桜
三月一日    爆装完了した九七戦を受領。出発にあたり、関東軍第二航空軍奉天飛行場航空工廠、それに、奉天市長を始めとする市内各層の人々が見送り。格納庫より飛行場の端まで幾重にも重なり、日の丸の小旗・大旗が打ち振られる前を、敬礼をしながら菊水マークの九七戦一五機に全員搭乗。
三月二日    平壌で一泊、京城(金浦飛行場)に向けて全機離陸。
天候悪く、当初着陸地予定の金浦飛行場ではなく、漢江の中州にあった龍山浦の飛行場に三機不時着。他の機は平壌に引き返した。
三月三日    本隊は寺山大尉指揮のもとに、平壌より金浦飛行場に到着した。龍山浦に不時着の三機も金浦飛行場に飛び、全機が金浦に合流した。
京城では七日まで待機した。
三月七日    京城より大邱飛行場に前進。
三月十日    大邱飛行場より大刀洗まで飛び、甘木の飛行場で約二週間ゆっくり過ごす。
この頃  第八飛行師団は、任地石垣島への渡航は南方戦線が逼迫、沖縄付近の空襲が激しくなっていたので、沖縄経由の可能性については悲観的になっていたようである。
三月二十五日 第八飛行師団命により、新田原飛行場に集結することになり、大刀洗より新田原へと飛ぶ。
三月二十六日 第八飛行師団命に基き、当初、着任地として予定されていた石垣島へ行くには戦況悪く、沖縄周辺への敵艦隊の集結があり、艦砲射撃はもとより空襲が日増しに激しくなっている状況に鑑み、石垣島への飛行は断念することになった。
そして沖縄北飛行場を基地として特攻攻撃を行う旨の命令が下達された。
三月二十七日 前日の命により、知覧経由沖縄北飛行場を基地にすることになったため、新田原より知覧飛行場へ。
この時、清水少尉機は故障のため新田原に残留して整備することに。知覧飛行場に到着した寺田大尉以下一四名は知覧飛行場司令室に集合。作戦行動の伝達があった後、任官式が挙行された。
発令日、昭和二十年三月一日付
 任 陸軍曹長 小川※※ 少飛七期
 任 陸軍伍長 金田※※ 少飛(甲)十五期
 任 陸軍伍長 大河※※ 少飛(乙)十五期
 任 陸軍伍長 塩谷※※ 少飛(乙)十五期

北飛行場へ向け出発

 三月二十八日、いよいよ明朝沖縄北飛行場より出撃することになり、知覧を出発した。知覧飛行場を離発着する戦闘機は比較的少なく、未だ特攻基地の活動には至っていないようで、中継基地の感をいなめなかった。十八時に飛行場内に出されていた尾翼に菊水のマークをつけた「扶揺隊」一四機にそれぞれ搭乗した。鹿児島高女生の持って来てくれた桜の小枝を飛行帽にはさみ、私は緊張と興奮を覚えた。
 清水少尉機が新田原飛行場から未着のため一四機が並んだ。見送る人は少ない。飛行機には爆弾は積まず、落下タンクを装着して機銃弾は満杯である。
 寺山隊長機を先頭に編隊離陸を開始したが、直後、石田曹長機が機銃を暴発、離陸を断念し隊より離脱した。
 離陸した一三機は知覧上空を旋回することなく、直線的に南下態勢をとった。九州を離れた所で、山崎少尉が機潤滑油洩れのため離脱、知覧に引き返した。次いで、山田軍曹機も故障のため編隊を離脱して知覧に戻った。(この山田※※軍曹は予備下士十四期の操縦学生で、孫家分屯隊から血書志願した血気旺盛な好青年で、この帰投の後五月十一日に他隊機と共に、扶揺隊員としてはただ一人参加、沖縄海上に散華(さんげ)している。)
 口之島上空に至った時、久貫軍曹機が故障し口之島海岸線に不時着、炎上。久貫軍曹は機内で全身火傷を負うが、住民に救助され、九死に一生を得ている。(久貫軍曹はその後内地に運ばれ病院を転々としたが、顔面、手指の癒着は数十回に及ぶ整形手術を行うも全治するには至らなかった。このケロイド状のひどい火傷跡にもめげず、復員後古河市役所に奉職、市民課長や部長職を経て現在定年退職されているが、その傷跡は誠に痛々しい限りである。)
 私金田機は順調に飛行を続けていたが、突然プロペラが空転した。約二〇〇〇メートルの高度で飛行していたが編隊より遅れ、機は降下、慌ててレバー類、コック類を操作するも反応なく、もうこれで海中に突っ込むのかと半ば諦めかけた。が、燃料コックを主タンクに切り替えたところ、ブルン、ブルルンとエンジンが復調、プロペラが正常に回転し速度も確保できた。海の波しぶきがかかる直前であったため、異常に死の戦慄と恐怖に駆られ、まさに冷汗三斗の思いであった。全身これ冷や汗にまみれながらただ一機、洋上を全速で編隊を追う。漸くしてたどりついた時はホッとして力も抜けた感じで、コックの切り替えが遅れて死の恐怖を味わい、未熟さが情けなかった。もっとも、訓練中にはコックの切り替えといった機会がなかったので、燃料切れがピンと来なかった報いでもあった。
 とにかくも隊長僚機の定位置に戻り飛行したが、機数は一〇機になった。一〇機は順調に飛行、徳之島を望む所で敵戦爆連合の数十機が北上中を発見、直ちに編隊長機に翼端を振って合図、全機急降下し右方向に進路をとる。海上一〇メートル程の超低空飛行で敵を左右に回避してことなきを得る。
 徳之島を左方に見て二〜三〇〇メートルの高度で沖永良部島にさしかかった頃、加瀬曹長機が故障のため旋回帰投し、九州の海岸線までたどりつき不時着した。

北飛行場へ到着

 沖永良部島を過ぎたころ、夕闇が迫り与論島付近では暗がりとなった。沖縄本島を左に見て辺戸岬を越える時に全機翼端灯を点灯、高度二〇〇〜五〇〇メートル程で海岸線を左翼端下に見て単縦陣飛行となる。
 沖縄の海岸線には所々に点々と灯が見え、灯火管制下にある筈なのに灯が見えるのが不思議であった。本部半島を過ぎたとき、伊江島と名護湾を結ぶ南方洋上には、敵艦船が所狭しとひしめき合い、その物すごい数に驚く。敵哨戒機二機飛行中であったが、攻撃は受けなかった。残波岬を過ぎた所に真白い平地が見え、海岸線に添って飛行場が見えて来た。その中で、懐中電灯二灯が打ち振られていたので着陸誘導と思い、夜間着陸は初めてであるが、この二灯の中央に向けて降下、無事三点着陸に成功した。
 この飛行場は、サンゴ礁の丘の凸凹をならした急造のもので、滑走路として使用できる所は極めて狭い。その滑走路には弾痕で各所に大小様々の穴が開けられていて、飛行機を降りてから、よくぞ着陸できたものと思った。またこの飛行場は海岸丘上のため、一八〇度にわたって視界が開けている。しかし幸運にも着陸後の飛行場には艦砲射撃は受けなかった。沖縄南部方面には砲撃音が続いていた。
 北飛行場に無事着陸したのは寺山※※大尉機、高祖※※少尉機、小川※※曹長機、堀口※※軍曹機、上村※※軍曹機、菊田※※軍曹機、金田※※伍長機、大河※※伍長機の八機で、塩谷伍長機は中飛行場に着陸したと、後で連絡が入った。
 着陸後の飛行機は、かなり遠くの掩体壕に運ばれて分散格納され、二五〇キロ爆弾懸架の作業が飛行場大隊の整備班によって徹夜で行われた。飛行場大隊本部は小高い丘に壕を掘って、屋根に小枝をかぶせてカモフラージュした狭い所で、我々八名が入ると、中はテーブルを囲んでその半分を占領する程であった。内地から飛行機が来た、特攻隊が来たということで、三十二軍航空参謀も来られ、「明二十九日、早朝を期して出撃すべし」と、特攻出撃命令が神参謀より言い渡された。勇躍壮途につき、華々しく体当りを敢行せんと誓い合い、別れの盃をくみ交わした。
 この後、飛行場の丘の上に立った扶揺隊員一同は、西面の海上を見やり、熱い熱い感慨に浸った。
 三月二十九日、午前四時前に全員飛行場へ向かった。掩体壕より出された飛行機は、落下タンクが外されて真黒な二五〇キロ爆弾が懸吊(かけつる)されていた。飛行機が飛行場に運び込まれる順に自分の飛行機に搭乗を開始した。
 明けやらぬ朝の飛行場は、暗さと土煙りのため視界は極めて不良である。いよいよ先頭の機より離陸を開始した時、敵の艦砲射撃が開始された。グラマン機数機の空襲がこれに続いた。穴だらけの滑走路は狭く、単機離陸のため時間がかかった。高祖少尉機、小川曹長機、堀口軍曹機、大川伍長機が辛うじて離陸に成功したが、読谷山村西方海上に散華(さんげ)した。
 私の機は、爆風で機体が横向きになると同時に脚破損、走行不能となる。寺山隊長機他二機も同様飛行不能となった。
 止むなく飛行機を放棄して整備兵と共に飛行場端へ走り出した時、中飛行場に着陸していた塩谷伍長機が飛来、爆弾を抱いたまま飛行場西方より着陸して来た。爆弾を抱いたままの着陸で、一時は大爆発を起こすかと思ったが、爆発はせず脚が曲がって停止した。
 この頃から、夜も明け始め、明るさをとり戻して来たが、艦砲射撃は相変らずで、我々は飛行場北端の小川を遡上して命からがら大隊本部に到着した。身体の各所に小さな傷は負ったが、全員極めて軽い怪我で済んだ。
 満州ハルピンよりはるばると出撃基地の沖縄北飛行場までたどり着き、各位各層の熱い期待の中、勇躍飛びたつ寸前において、あえなく出撃不能の事態に陥り、挫折の屈辱を味わうとはなんと情けないことか…。身の不運を嘆くと共に、とり残された虚脱感が心を覆い、九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠くの思いに包まれ、ただ茫然自失するのみだった。
*注 九仞の功を一簣に欠く 事が今にも成就しようとして最後のわずかな油断のために失敗するたとえ。

米軍猛攻撃下の沖縄彷徨

 大隊本部において第三十二軍航空参謀に状況を報告した。「寺山大尉以下四名は速やかに内地へ帰還の上、再度出撃せよ」との命令を受けた。早速、金武の海軍基地に向かうことになる。五名全員、飛行服に飛行長靴、身には拳銃一丁の装備のまま北飛行場を出発した。地形のわからぬ山をてくてく歩いた。空中勤務者が翼を無くしての戦闘は陸に上がった河童に等しく、好まざる中に幾多の地上戦闘を体験するという奇異な戦歴をたどることになったのは、この時から始まった。
 金武の海軍基地にやっとたどり着く。太平洋を望む海岸に大きな洞窟があって、中には住民もまじえて数人が居た。指揮官に、内地帰還のために舟艇の手配を頼んだが、「中城湾洋上には敵巡洋艦他の艦艇が遊弋(ゆうよく)中で、基地が発見されるおそれがある」として出艇を断わられ、ここよりの帰還を断念せざるを得なかった。
*注 遊弋 艦船が海上を往復して待機すること。
 四月一日金武を出発、宜野座村を経て名護岳に向かった。これは、名護または運天港の海軍基地の舟艇を利用して帰還するためだった。その途中の山中より、残波岬南方におびただしい上陸用舟艇によって米軍の上陸が望見された。日本軍の抵抗は全くなく、無人の浜への無血上陸に歯ぎしりする口惜しさで、ただ唖然として眺めるよりほかなかった。
 名護に着いてから、国頭支隊の居る、本部半島の八重岳に向かうことになり、疲労困憊した身体に鞭打って歩く。八重岳には、宇土大佐率いる一個連隊が中腹に陣を構え、敵の北上進行を食い止める目的と、伊江島前方洋上の敵艦船攻撃のため、一五センチ加農(カノン)砲二門の砲台を構築して、勝山から伊豆味にかけて分配配置がなされていた。寺山大尉以下四名は宇土部隊長に事情説明のうえ、司令部に留まり時期をみることになった。司令部は勝山付近の山中に掘っ立て小屋程度のものが散在していて、我々はその中の一棟に入った。
 宇土部隊で我々は、対空及び敵状監視の任務を引き受けることになり、主として、上村、菊田両軍曹が任に当たる。監視哨は八重岳山頂の西面側で、大きな木の枝に隠れる所に壕を掘り、これに屋根をかけたチャチなもので、壕の中から双眼鏡で、伊江島から名護湾を結ぶ洋上と対空監視で、昼間のみの勤務であった。
 洋上には敵艦船が真っ黒になる程重なり合っていて、絶えず上陸用舟艇で、名護湾から残波岬方面にかけて継続上陸していた。上空には時折、敵のトンボと称した上翼単葉の軽飛行機が、低速低空で日本軍の動静を探りながら飛び、異状と思った所へは所構わず、艦砲や迫撃砲の弾丸を雨あられと降りそそぐ。
 低速低空で飛ぶので、パイロットの顔がよく見えることもある。機関銃の一丁でもあれば打ち落とすこともできるのだが、攻撃を仕掛けたらその途端、日本軍の陣地や兵が吹き飛ぶことになるので、口惜しいがやり過ごす外はなかった。このトンボの来ない日は平穏無事に過ごせた。
 この間、本部半島今帰仁村北側、屋我地島と向かい合った所の運天港に、白石海軍大尉指揮する魚雷艇隊が、約三〇隻を擁して出撃の機会を狙っていた。寺山大尉と金田伍長(私)は、宇土部隊の副官の案内で運天港海軍基地に赴き、魚雷艇一隻でわれわれ特攻隊五名を、夜間に琉球諸島の何れかの島に緊急輸送を懇請したが、ここでも金武と同じく、敵に基地の知れることを恐れて拒否された。無念やるかたなく我々は、断腸の思いで八重岳に引き返した。
 この後、数日を経て運天港基地は敵の発見するところとなり、猛烈な空襲によって、一隻の出撃もなく、あえなく潰(つい)え去ったのが残念でならなかった。
 この宇土部隊には四月三日より二十五日頃まで世話になった。
 この間、特攻機が数多く内地より来攻していた。その成功を祈って目撃するが、敵艦船からの対空砲火は猛烈極まりなく、あたかも、弾丸の火柱が空を埋めつくすほどのものすごさで、敵艦船上に到達するのは誠に至難の業と思われた。しかし、時に洋上に黒煙を吹き上げる艦船を見ると欣喜雀躍(きんきじゃくやく)した。こと志ならず被弾落下する特攻機には、もって冥すべしと合掌してそのみ霊を悼んだ。また、自分達のこれからの運命も思った。
*注 欣喜雀躍 雀がおどるように、こおどりして喜ぶこと。
 国頭支隊では北上する米軍掃討部隊と各所で局地衝突を繰り返していたが、大規模戦闘は行われなかった。八重岳もトンボに発見されて頂上西方は一昼夜にわたる艦砲射撃を受け、山頂半分が吹っ飛んで山の形を変えてしまった。この砲撃で宇土部隊は戦意を喪失した。
 小部隊の移動も容易ではなく、兵も住民も陣地や人影が発見されれば遠慮会釈もなく連発の迫撃砲弾に見舞われた。

宇土部隊の解散

 四月二十六日頃、国頭支隊は八重岳を放棄して多野岳に転進することになった。伊江島前方洋上敵艦船攻撃のための一五センチ加農砲二門も、一発の反撃もすることのない撤退で、誠に不甲斐ない限りであった。
 我々空中勤務者五名はこの撤退にあたり、国頭支隊に学徒動員されていた三高女生約一〇名を引率することになって、夜間、尾根づたいに歩いた。隘路では時折敵の掃射を受けて小戦闘を繰り返しながら進み、昼間は草木の陰に身を隠し、近くを通る敵兵をやり過ごすのに、声を出すのも呼吸をすることもはばかられるといった繰り返しであった。
 四月三十日頃多野岳に無事転進。ここで三高女生を山中に避難していた住民や家族を頼りに帰宅させた。
 宇土部隊副官はこの時点で、国頭支隊を小人数部隊に分散、自活戦闘を行うこととした。これで、国頭支隊は組織的戦闘能力を失墜した。
 我々五名もまた、一個班程の小隊と行動を共にすることになった。拳銃一丁で地上戦闘参加である。兵士の戦死、戦傷者があってもどうすることもできず、撤退を余儀なくされ、敗軍の悲運を嫌というほど体験させられたが、これは本当に筆舌につくせるものではない。このような状況下で結果的には右往左往を繰り返し、沖縄の山中を北上したり南下したりで日が過ぎ、飢えと疲れが身に応えた。
 五月十二日頃、寺山大尉以下五名の空中勤務者は別行動をとることになった。飛行六十五戦隊員であったと記憶するが、今村軍曹が単独行動をとっていたのと合流した。そして五月十八日頃まで、地理地形の分からぬ沖縄のヤンバル地方の山中を毎夜さまよい、同じ場所を何回となく通過することもあった。食糧はなく、わずかに残ったサツマイモあるいはサトウキビの茎を食べて餓えと闘った。山中を歩き回るが水のないのには弱った。溜まり水を見つけては飲み、腐ったような水を飲んで何とか身体を持たせた。

特務班に合流

 五月十九日頃、一ツ岳に到着した。ここには、北大尉指揮する中野学校特務班がいて、秘匿された隠れ家を拠点にして、五〜六名で情報蒐集活動を行っていた。北大尉は負傷していたが、寺山大尉とは同期で親交があったらしく、軍紀にふれるとのことであったが、我々は一週間ほどここに留まることになった。
 この間は特務班と行動を共にして情報活動を支援、またそれにより色々なことが分かった。国頭地方は、名護より辺土岬に至る西海岸には、敵部隊の移動巡哨が活発に行動しているが人数も少なく、せいぜい一個大隊程度が制圧している模様であった。太平洋側、即ち東海岸は道路もなく、小径ぐらいなもので敵の侵入はない。このようなことを知り得て我々は特務班と別れ、沖縄北端の奥部落を目指し北上することになった。ここで塩谷伍長が斥候に出たが、戻らなかった。
 いざ、ヤンバル地区中央突破を始めたが、山岳密林地帯の踏破である。沖縄住民の避難路を頼りに紆余曲折を繰り返し、大樹に登りあるいは山頂に上って方向づけをしながら進み、野宿を重ねる。服は破け、靴は底が抜けて縛りつけながらの行軍で、いかに若さがあったとはいえ、悪戦苦闘の連続であった。
 五月二十九日奥部落民の避難していた山中の隠れ家にようやくたどりついた。もうこの時には極度の疲労と不安焦燥の中での行動と、食うや食わずの歩きずくめのため、心も身体もともにくたくたになっていた。思えば、よれよれのしかも飛行服という見馴れない服装に、一時は米兵と見間違えられるハプニングもあった。

与論島への脱出

 睡眠不足と飢えと渇き、米兵来襲への恐怖、行軍の疲労は心身ともにむしばんだ。こんな状態が二か月続いていたので、栄養失調症状が出て、頭髪の先半分ほどから細くなり、茶色に変色。足は棒になってしまっていた。ここでようやく米の飯をご馳走になったが、何せ、しばらくありつけなかった米の飯に腹の虫がビックリしたか、全員、下痢をしてダウンという笑うに笑えぬはめにあった。
 奥部落西側の丘からは辺土岬がよく見えた。既に米軍のレーダー基地と化していて、駐屯米軍が活発に活動しているようだった。ここから与論島までの距離は僅か七里とのこと。一時は、泳いで渡ることも考えたが、潮の流れは意外に早いとのことで諦めた。そして、部落の漁民にくり舟で与論島への渡航を頼みこんだ。果して漁民は、与論島に敵が上陸占領しているか否か大きな問題となって尻込み、なかなか承知する状況にならず閉口した。
 しかし、我々空中勤務者が本土に帰って、再び特攻機を駆って出撃、米軍を撃滅すると、いわゆる捲土重来(けんどじゅうらい)を果たしたいとの希望を強く訴え説得の結果、くり舟二艘で与論島へ渡航することを承諾してくれた。
*注 捲土重来 一度敗れたものが、再び勢いをもりかえしてくること。
 六月一日二十二時頃、用意されたくり舟二艘に船頭が二名ずつの四名。乗るのは寺山大尉、上村、菊田、今村の三軍曹、そして金田の五名。静かに櫂(かい)を漕ぎ出し、敵に発見されないように細心の注意を払って沖に出る。三月二十八日沖縄北飛行場に着陸以来、実に二か月間が悪戦苦闘の連続で、常に死の境地にあって生き延び、いま沖縄を去ろうとしている。胸中、まさに感無量である。これで内地へ帰還が実現しようとしている。この感銘もまたひとしおであった。しかし与論島が被占領地となっているか否かが不明の不安も同居していた。櫂を漕ぐ波間には夜光虫が舞い、かなりの明るさがあった。夜明けを前にした午前四時頃、与論島の浜辺に着いた。周辺は静かで不気味で、浜辺の岩陰に身をひそめた。
 敵が上陸しているか否かを、船頭二名が近くの部落へ偵察に行った。三〇分程して、船頭二人が部落の人と共に戻った。占領はされておらず、守備隊が居るとのことで、不安が一挙に歓喜と変わった。我々六名は守備隊の駐屯地まで歩き、守備隊指揮官の陸軍少尉に、内地帰還の中途である旨を告げた。その上、奄美在守備隊司令部へ帰還措置の便宜を計って戴くよう打電を依頼して、待機することになった。
 与論島守備隊は約一個小隊程度の人員で、主に情報無線の任に当たっていた。ここでは約一〇日間を過ごした。

内地帰還

 六月十一日、船舶部隊差し向けの「ダイハツ」により与論島を二十時出発。沖之永良部島に六月十二日午前二時頃に到着、上陸した。守備隊駐屯地に向かう途中に、三式戦闘機一機が不時着して、脚と翼の折れていたのがあった。
 ここで、同期、大津校十九中隊出身で宇飛行で一緒だった、桧山※※伍長に偶然再会した。以後、私達と行動を共にした。
 六月十五日、沖永良部島を「ダイハツ」で夜間に出発。朝方、徳之島に上陸した。徳之島には奄美群島陸軍司令部があって、東航校校長であった高田※※少将率いる一個旅団が、奄美諸島守備の任にあたっていた。私は少飛十五期とのことで、寺山大尉と共に司令部へ招かれ、沖縄の戦況についての報告と、速やかに内地帰還を図って戴くようお願いした。また、過大なもてなしを受けた。
 徳之島には約一週間ほど留まったが、連日空襲に見まわれ、大樹の陰に建てられた宿舎に機銃弾の薬きょうが音をたてて落ちて来て閉口した。空襲がなければ平穏である。陽の当たる所を探してもっぱら虱取りが日課となる。いるわいるわ、素っ裸になって見ると、衣類は勿論褌(ふんどし)にまで虱がたかっている。虱潰しはよいが、時には、真っ裸の時に突然グラマンが現れ、機銃掃射されることがあって、虱退治も命がけであった。
 ある雨の日に、大津校十九中隊第一区隊長だった室田中尉が大尉に昇進されて、歩兵砲を曵く兵士を叱咤激励しながら守備陣地に向けて行軍中のところに出会った。短い言葉を交わして、直ぐに、雨降りしきる泥沼の道を兵士を率いて去って行ったのが印象深く残っている。尚この時、島には沖縄を脱出していた九九襲が一機残存していた。沖縄を脱出して大本営に向かう、三十二軍航空参謀神直道中佐が来島。寺山大尉は、この神参謀と九九襲に同乗、操縦して、六月十七日に徳之島を飛び立ち九州に向かった。この後、寺山大尉とは全く会うことはなかった。
 六月二十三日奄美群島陸軍司令部の計らいで、奄美大島の海軍基地から内地帰還の方途をこうじて戴き、「ダイハツ」にて徳之島を夜間出港。朝方に奄美大島名瀬港に着き上陸した。我々は名瀬海軍基地の裏側山腹樹林の中に設営された小屋掛の宿舎に留まり待機することになった。そこには既に、二〇名程の空中勤務者が何れも内地帰還を待っていた。ここでは敵機の通過はあったが空襲を受けることはなく、ただ、海軍水上機の便を待つだけであった。
 ここでの滞留は全くのんびりしたもので、毎日を激動の中に過ごして来ただけに退屈の日々で、先輩操縦者の中に囲碁の上手な者がいて、囲碁の手ほどきを受け、毎日囲碁を教えて貰った。この基地へは佐世保から、週一〜二回、定期連絡の水上機が来ていたので、その帰路に、一〜二名乗せて内地へ帰投していた。
 七月三日、待ちに待った水上機が来ることになって内地帰還の指示が出た。後から名瀬に着いた我々扶揺隊の三名が搭乗することになって基地へ降りた。そして、佐世保から夜間飛行で来る水上機を待った。
 七月四日、水上機が無事名瀬基地に着水、所要の連絡、貨物等の積み降ろしを終え、いよいよ搭乗することになった。菊田、上村、金田の三名がそれぞれの機に搭乗した。真っ暗な闇の中を水上機は離水、佐世保に向かって飛び立った。右手に九州を望見できたのは夜明け前だったが、五島列島の上空では朝の明るさがまぶしい程だった。点綴(てんてい)する島影がくっきりと浮かび、その綺麗な有様が瞼に焼き付いて、日本の国の美しさを体中に感じた。機は、大きな格納庫群のある佐世保海軍基地に着水、上陸した。輝く朝日を浴びて遂に内地にたどりついた。
*注 点綴 あちこちにほどよく散らばってまとまりをなしていること。
 いよいよ捲土重来を期して、沖縄北飛行場での挫折を挽回し、再度の出撃を早期に果たすべく覚悟を新たにした。そして、福岡市筑紫高女校に司令部を置く第六航空軍に赴き、帰還報告と再度出撃のための九七戦を要請した。ここの参謀部には、中尉で参謀肩章を吊った、宇飛校生徒隊当時に私の区隊長であった、士官候補生上りの少尉がいた。思わず「区隊長殿、金田伍長であります」と言うと、幸いにも私のことをよく覚えていてくれて「おお、金田君か!」となって、色々と大変便宜を計って貰った。福岡では、筑紫高女内の宿舎に約一〇日間いたが、私一人は、当時、西鉄副社長宅に泊まり、ここから必要に応じて司令部へ出頭していた。当時軍には余裕の飛行機はなく、作戦的にも大変な時期であったが、直ぐに飛行機の手配がなされたのは、多分に中尉参謀殿である区隊長の尽力ではなかったかと思っている。飛行機の受領は、菊田軍曹は新田原へ直行受領待機、上村軍曹は福岡菰田の飛行場から、金田伍長は知覧で受領して新田原で待機となった。
 七月十五日、福岡で待機休養の約一〇日も終わり、私は知覧で飛行機受領のため、汽車で知覧に向かうことになった。途中、熊本で一泊、夜間に空襲を受けたが被害はなかった。しかし川内(せんだい)を通過する時、空襲で機銃掃射を受け汽車は停車、川内の町は火炎を上げ、各所に黒煙が見られた。川内を徒歩で通過していると、折よく、軍用トラックが南下して来たので無理矢理その荷台に便乗した。加世田を真夜中に通過、万世に寄って知覧に向かい、朝方、知覧飛行場にたどり着く。
 七月十七日、知覧基地戦闘指揮所にて九七戦受領申請の後、よく整備された一機を受領、直ちに新田原飛行場に飛んだ。菊田軍曹は直接新田原で受領。上村軍曹は福岡の飛行場から受領して既に到着。
 かくして、ここに扶揺隊沖縄帰還者三名の集結は成り、新田原飛行場でしばらく待機となって、佐土原町の旅館に宿泊した。この間、宮崎県西辻園にある扶揺隊で三月二十九日に特攻出撃戦死した故堀口※※軍曹ご遺族宅を訪れ、戦死状況の報告と焼香をしてその冥福を祈った。
 また、高鍋町に所在する少飛十期、故明野※※軍曹(一九四四年十二月七日、B29奉天空襲の際、飛行第一〇四戦隊から二式単戦を駆ってこれを迎撃奉天上空でB29に体当り撃墜散華)のご遺族宅にも訪れ、焼香してご冥福を祈った。
 八月五日、約二週間新田原で待機していたが、菊池の飛行場に集結の命令が来て、新田原より菊池へ飛ぶ。菊池にはかなり大勢の空中勤務者がいた。宿舎は飛行場よりだいぶ離れた所にあって、毎日トラックで往復した。この菊池の飛行場には十五日までいて、十六日に都城東飛行場に前進の命令を受けていた。

終戦・復員

 八月十五日、明朝都城東飛行場へ出発のため慌ただしい中にあったが、重大放送があるとのことで、宿舎で玉音放送を聞いた。大部分の空中勤務者は淡々として聞いていたが、戦争が終結したということがピンと来ないで、鈍感な反応であった。しかしここでは復員の話は出なかった。
 八月十六日、我々扶揺隊残存者及び既に十六日に都城へ前進を命じられていた者は、菊池の飛行場を飛び立ち、都城東飛行場に着陸した。我々が着陸して間もなく、滑走路には三角型の防護柵が多数立てられて、飛行機の離発着を不能にして飛行場を閉鎖した。
 各飛行機は整然と並べられていた。気負いたった特攻隊員は直ちに出撃と息まいたが、離陸不能で為す術がなかった。私の搭乗機の隣、約一〇メートルの所に駐機していた一式戦の特攻隊の少尉が、エンジンを始動して、拳銃でタンクを射抜いた。たちまち火がつき火災を発生、爆発したタンクのガソリンを全身にかぶり、少尉は肌の出ている顔、手などが紫色にただれた。慌てた戦友がこれを救出して医療機関へ運んだ。その生死は解らなかったが、誠に痛々しい限りであった。
 この頃、既に基地関係者は続々と復員を開始していて、残っている者は少なくなっていた。我々にもまたここで復員命令が出て、降りたままの九七戦を放置、飛行服姿に身回品少々を詰めた落下傘袋を下げ、飛行場差し回しのトラックに乗った。そして都城からすし詰めの列車で帰郷の途についた。鈍行列車の客席で関門トンネルを通過、下関で乗り換え。この時、持っていた拳銃を駅前の木の根元に埋めた。再び列車にて東上。途中、爆撃された市街の無残な姿を幾らも見たが、広島を通過する時、駅舎は急造のバラックであったが、見渡す四方は瓦礫の野で、傾いた電柱が数本…すべてが焼野原の異状な無惨さに、原爆の恐ろしさ、もの凄さを思い知らされた。
 列車は、止まっては走り、止まっては走りの各駅停車で、東京にたどり着くまでの何と長い時間だったことか。
 八月二十一日、復員列車で六日がかりの長旅の末、ようやくの思いで会津若松市郊外、会津本郷町の我が家に帰り着いた。家には、旧盆の終わりの日らしく父母兄弟や、親戚の人達がおおぜいいた。暗くなっての帰宅で「只今!」と家に入ると、みんな唖然として、ビックリして迎え入れてくれた。復員連絡もしないでの帰宅なので、まさに幽霊と思われた。もっとも私は、一九四五年(昭和二十)三月二十九日、沖縄海上において九名戦死の中の一人として、新聞その他で報道され、鬼籍に入れられていた。町長よりも戦死通知が出されていた。
 仏壇には既に、私の写真が遺影として黒枠で飾られ、焼香がなされている時の帰宅であるから、やむを得なかったと思う。私は一連の出撃経過や帰宅までの状況を話したが、皆には信ずることが容易にできなかったようである。父や兄弟や親戚の方々が、それでも泣いて喜んでくれて、悲喜こもごもであった。近所からも、もの珍しさも手伝っておおぜいの人に詰めかけられて大変困ってしまった。
 戦友が目前で戦死、しかるに自分は生きて帰った。このうしろめたさが心の奥底にあって、情なく辛かった。
<-前頁 次頁->