第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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7 戦火を振り返って

復元された旧校門(嘉手納中学校内)
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事務局 みなさんのお話から、軍国時代の中で過ごした学校生活、砲弾の中を生き抜いた状況などが少しずつ見えてきました。
事務局 農林学校、中学校、当時の学校にはそれぞれ配属将校もいるし、一般住民よりも訓練はされているとは思います。その意味で、日本軍にとっては大事な協力集団だったんじゃないかと思いますね。陣地構築作業や、食糧増産作業、砲弾運びなどは、やはり部隊側からの要請で、動員されているのですよね。それとも自発的に学校として、「さあ、協力しよう」ということだったんですか。
大城   これは自発的ではないでしょうなあ。県からの指示がきていたのかな。
照屋   それは軍の命令でしょう。実際には学生は勉強したいのが本分であって。
知花   これは軍命でしょうね。初めて農林学校の門をくぐったとき、木麻黄並木や校庭の広さに感動し、自転車で通うのは大変だったが、念願叶って、憧れの学校で勉強できることが嬉しかったんですから。
上地   農林学校は三月二十二日、沖縄県知事から表彰されていますよね。軍の陣地構築などに協力したということで。
照屋   島田知事から。これは戦意高揚のためだったんでしょうな。
大城   本当の意味での学校生活は一年間だけで、二年は毎日が奉仕作業と三八式銃を持って教練の時間と農業実習。全く授業らしいことはなかったですから。そして戦争が終わると共に農林学校も廃校になりましたからね。
伊波   私が幼少の頃から、比謝矼あたりで見かけた農林学校のお兄さんたちは、制服と白いゲートルで颯爽とした姿、どの顔も賢そうで頼もしく、憧れていました。みんなも同じだと思いますが、農林学校へ入学した喜びは大きかったですね。
 戦火に巻き込まれた、二か年間の学校生活ではありましたが、陣地構築や農業実習を通して結ばれた友情は深いものがあります。そして惜しくも他界された同期の友を思います。ご冥福をお祈りします。
事務局 今日は長時間、どうもありがとうございました。
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