第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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6 山を下りる

事務局 上地さんは先ほど恩納村久良波で米兵に捕まったとお聞きしましたが、他のみなさんは、どういう状況だったのか、お一人ずつ聞かせてもらいませんか。
伊波   私が捕虜されたのは、今の久志村の大川です。七月四日でした。先輩の池原さんと同級生の波平さんと一緒でした。三名で山原に行ったものの、家族を見つけることができなくて、宇土部隊などの日本軍部隊と行動を共にしような、と相談していました。
事務局 やっぱり軍国少年だったんですね。宇土部隊を探して行くぐらい。
伊波   ところが部隊も探しきれないでいたときでした。久志大川の山中で三人並んで、芋を炊いていると突然、背中に鉄砲を突きつけられてね。私たちは全然気づかないで話をしていたんです。どこからどうして来たのか、三人とも、アメリカーたちに鉄砲を突きつけられて。思わず手を挙げたら、土手に三名とも押し付けられて、動けなくなりました。もうその頃は洋服を着物に替えていたんですがなあ。何も持ってないって分かったから、銃で「あっち行け」とつつかれながら、山の上の方に行くと、そこら辺には那覇の人もいっぱいいたんですよ。
 我々はもう、栄養不良で、髪の毛も抜けて、痩せ細って、やっと歩けるぐらいの力しかなかったけど、那覇の女の人たちの荷物をみんな「イッタームテェー(あんたたち持て)」と言われました。女性は手ぶらで歩かして、私たちは荷物を担がされてよ、辺野古の金網に入れられました。
知花   収容所は辺野古で一緒だったな。
伊波   僕らが辺野古へ来たとき、あんた方は二世みたいに威張っていたさあ。
知花   あっちゃー。
全員   (笑い)
伊波   一番うらやましかったのは、ある先輩が班長をしていたなあ。
大城   あの頃の班長はね、もう威張ったもんでしたよ。
伊波   収容所では長い天幕の中に、ただ、缶詰のダンボール箱を広げて、「こっちは自分の部屋」と言って。食事には空き缶を洗って使った。これをずっとさげていた。ダンボールと空き缶、これが自分の全財産。
大城   空き缶が食器だった。食べ終わったらまた洗って腰にずっとさげているわけ。
伊波   置いておく場所もないさあね。それ一つをずっとさげていた。
事務局 大城さんはどんな状況でしたか。
大城   三月の終わりに家族と山原へ向かい、恩納岳の下瀬良垣あたりで留まっていた時、読谷が艦砲射撃でやられているのが見えました。「トー、クマンカイウラランシガ(さあ、ここには居れない)」ということで、私は自転車で一人、山原の状況を見に行ったんです。瀬良垣からちょうど一晩かかって、朝方、国頭の奥間桃原へ着きましたが、そこでは田植えしているんだ。
 これを見て、「こんなに戦争もない所があるんだ」ということで、家族を連れて二日かけて国頭へ行ったんです。これがね、国頭の辺土名に家族が着くと同時に、激しい空襲が始まって。もう叱られてね。「あんた、山原は戦はないといって、人をすかしてここまで連れてきて」と。
事務局 三日前には田植えもしていたのに。
大城   そうそう、三日前までは。友軍の神風とよばれた特攻機が来て、敵の船を攻撃するのもたくさんみましたが、あれを見てね、なんというかな、あの気持ちは。よくやったとは言えないですよね。かわいそうで。
 結局、辺土名からまた瀬良垣、恩納岳の下まで戻ったんですが、すでにそこの住民は米兵が収容したあとで、私たちが置いていった砂糖樽もあるし、そこにいた人たちが残していった米もあるし、味噌もあるし、スーチカー(塩漬け豚肉)まであったんです。それで、私たちは七月の盆のウークイ(精霊送り)までやりました。自分たちから山を降りて、石川収容所に着いたのがちょうど、終戦記念日の八月十五日だったんですよ。
事務局 知花さんはどうでしたか。
知花   避難指定地は国頭郡の与那でした。三歳、五歳と小さい妹たちがいましたので、与那に着くまで四、五日かかったと思いますよ。
 そこから二見の山に、主のいない避難小屋がありましたので、そこに移りました。そこで親父が鉄兜に芋の皮か何かを煮ていたときに、弟が川から箱を拾ってきたんです。中身は食べられるものが入っていたと思ったんでしょうね。で、親父に「開けてみようね」と言って、これを開けたら黄燐弾でした。親父は、危ないからとすぐに家族みんなを急いで避難させてですよ。最後は自分が残って。
照屋   お父さんが黄燐弾の処理を。
知花   はい。爆発して父は火傷を負ったんです。
事務局 結局、お父さんが子どもたちを救うために。
知花   はい。燐ですから夜も燃えるんですよ、大変でした。親父が火傷を負った二、三日後、私たちの避難小屋に米兵が急に来たんです。慌てて逃げようとした私に母が「先に行っておくから、どこかで元気にいておけよ」とナギギー(投げ声)するんですよね。それを聞いて「ああ、もう死ぬんだったら家族一緒がいい」と思って、私も手を上げて出て行きました。親父はアメリカ兵が担架にのせてくれました。
 二見で捕虜になり、父は野戦病院へ、私は辺野古の収容所に収容されました。収容所ではハワイ二世兵の尋問に相当やられてですね、「兵隊か、そうではないか」と。もし「兵隊だ」と言ったら直ちに屋嘉収容所送りになっていたはずです。
事務局 照屋さんは、どういう状況でしたか。
照屋   米軍が上陸した四月一日、その日は朝から、もうすごい爆撃音だった。ガマの中にはドーンという音、砲弾が風を切る音、これが響き渡ってすごい。その頃僕は、字波平の養父母たちとともに、チビチリガマの北側の小川が流れている大きな自然洞窟(アメーシ壕)に避難していた。そこは奥深く百メートルほど歩いて行くことができ、水の流れは海にまでつながっていた。
 四月一日の夕方になり日が暮れると、シーンと静まりかえった。それで止んだのかなと思って外へ出て見ると、戦車があったので「友軍(日本軍)が来てる」と思った。ところが戦車から出てきた兵隊の言葉が「ペラペラペラ」(日本語ではなかった)。それで「ウランダグチルサギンドー(オランダ語を話しているよ)!」と。あの時は英語だろうがなんだろうが、みなウランダグチ(オランダ語)と言っていたからね。
 その米兵が、一発だけ拳銃を撃ったんだ、結局は威嚇射撃。人を狙いはしてないよ。それがずっと離れた石に当たって、その石が弾けて破片が、どこかのおじいさんの鼻に当たってしまってね。このおじいさんは「アイエナー、やられた」と言うから、見てみたら血が流れている。それをみて、壕内の人はもう、私たちはここで死ぬんだと、そう思った。
事務局 照屋さんも空襲で学校へ行けず、上陸日を迎えたんですね。
照屋   はい。でもその夜、僕は一人で避難壕を出たんだ。将校からいつも「米軍に捕まったら若者は銃殺される」とか「負傷して倒れたらすぐ耳削がれて、鼻削がれる」と教わっているし、どうせ死ぬのだったらという思いで、一人リュックを背負って「学校へ行くからね」とパッとそこを出たわけです。その矢先、やっぱりもう米軍が通信ケーブルをまいてあって、それに引っかかったようで、突然私を狙ってパラパラパラーっと銃弾が飛んできた。どうせなら一発で即死したいものだと思いつつ、走った。足元に弾が飛んできているが、全然当たらなかった。弾はそうそう当たるものじゃないなと思った。しかし思い出しても怖いさ。
事務局 学校へ行こうと壕を出たら、銃弾の集中攻撃を受けたんですね。
照屋   走って親志までたどりつき、学校へ向かおうとした時、南の方から友軍の兵隊が七、八名で走って来て「これから北へ行って米軍を挟み撃ちするからついて来い」と言われた。今思うと、命からがら逃げ出した敗残兵だったんだろうが、その時は大変勇ましく思えてね。それで私も一緒に走りだしたんだが、向こうは軍隊で鍛えられているからね、私はついて行けなくなって山田辺りで置いてけぼりにされた。
 それからは一人で北へ。歩き始めて三日目の四月四日、道を歩いていると、「おい、何でか」と声をかけられて見ると、「アイ、おとー」と言って、親父とばったり会ったんだ。当時、実家の父と母と弟は国頭村辺土名の民家に疎開していた。私は疎開しているところが国頭の辺土名ということも、自分が今いる場所が辺土名ということも分からなかった。
 その時、親父は配給を貰うためか何かで、道に出ていたらしい。偶然にも親父に会えたので、「助かった」と思った。親父が僕をみんなのところへ連れていってね、それからは両親と下の弟と四人で一緒に行動した。家族は空襲が始まった三月二十三日頃、読谷を出たらしい。
 山を降りたときは、もう七月になっていたかな、日時はわかりません。下りた場所は現在奥間小学校がある辺りでした。
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