第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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5 空襲から艦砲射撃へ
  一九四五年(昭和二十)三月二十三日以降

事務局 一九四五年(昭和二十)に入って一月三、四日、及び二十一日、二十二日、三月一日と読谷村に空襲があったと記録にあるのですが、みなさん覚えておられますか。
照屋   空襲のことは詳しくは覚えていませんが、B29は常に高々度から偵察にやって来ていましたね。
上地   米軍機が六機ぐらい来たことがあった。それで、渡具知沖合いの暁部隊の舟艇が四、五隻、爆撃されていた。
事務局 三月二十三日から米軍上陸に向けての激しい連続空襲が始まり、二十五日からは艦砲射撃も始まります。この頃はみなさんはどんな様子だったのでしょうか。
上地   三月二十三日は早朝より米軍の空襲で、すぐに屋敷内の防空壕に避難した。二十四日の午後五時頃になると空襲は止んで、近くの海を見ると沖合いに軍艦が見え不思議に思った。そこへ楚辺の駐在巡査が来て「今の警防団は年寄りばかりだから、おまえ嘉手納警察本部(天川ビラの壕)まで行って、あの船が友軍か米軍か確認してきてくれ」と頼まれた。自転車もなく、歩いて行くと「あれは敵の機動部隊の軍艦だから、すぐに避難するように」とのことだった。その情報をもって楚辺に向かう途中、比謝矼大通りで「農林学校生は学校へ集合」と生徒数人で呼びかけていた。楚辺に着いたときは午後九時をまわっており、駐在に警察からの情報を伝えると、「君たちも早く避難しなさい」といわれた。
事務局 上地さんの同級生なども警防団にいましたか。
上地   いえいえ、もう年寄りだけ。若い人は全部、防衛隊とかにいっているからね、年寄りだけで警防団が編成されていたんじゃないかな。
照屋   「あれが敵艦か味方か聞いて来なさい」というのが、どうもおかしいのよねえ。
上地   家族は国頭へ疎開準備をしており、私は学校へ戻るべきか迷い、その夜は近所の池原※※君(同年生)と二人で暗川(クラガー)(自然壕)に泊まることにしたが、寝つかれなかった。
 翌日、二人で国頭へ向かうことにしたが、空襲が激しく、多幸山に日本軍が構築した壕(親志のジャーラ)があり、そこへ避難した。
事務局 その防空壕は本来、北飛行場の燃料、弾薬を入れてあったものですが、当時は兵隊や弾薬は入っていませんでしたか。
上地   壕の中は空だったですよ。楚辺の四家族が既に避難しており、壕の前に燃料が積まれていた。擬似飛行機があちらこちらにありました。
大城   擬似飛行機は嘉手納飛行場ね、あっちに多かった。
上地   食糧も無い中、私たちはその壕に留まり、四月十日に恩納村久良波で米兵に捕まりました。

運命の分かれ道(交代制の家族面会)

伊波   農林生は三月二十四日、学校へ集合するようにとの連絡があったようだが、読谷出身で農林隊には参加している人は少なくて、嘉手納辺りに下宿している人たちや寮生がほとんどです。
 なぜこうなっているかというと、農林は家畜がいっぱいいたもんですから、全校一斉に休みはとれないんですよ。それで、島尻の人たちは四、五日ぐらい、何日から何日まで、もう戦争は激しくなるから、家族と面会をして来いといって休みがあったんです。島尻は休みの期間が終わってきて、ちょうど学校に戻ってきて、中頭の生徒はちょうど、家族面会の休みに入っていたんです。二十四日頃までですね。家族面会もして、普天間権現も拝んできて、農林学校に集結しようとしている中での空襲、上陸だったのです。
上地   三月十八日から一週間ぐらい家族面会ということで休みがあった。
伊波   私の父は防衛隊で島尻に行っていたので、私たち古堅出身の農林生は相談して、まず家族を山原に連れて行ってから、農林学校に集合することにしました。そういうつもりで行って、帰ろうと思ったが帰れなくなったんですよね。
大城   二十四日に集合ということだった。
伊波   「農林学校に集合、集合」とメガホンで呼びかけていたそうですがね、だあ、それ、読谷の人には聞こえないから、我々は行ってないわけ。
上地   私は、伝令に行って聞いたよ。
大城   確かに二十四日に集合ということでした。空襲が少し静かになった昼、防空壕から出ようとしたら、うちの祖母に「君たちは今からどこに行くのか」と、「学校に今日、集合ですよ」と言ったら、すごい剣幕で「ンダンダ、イッターヤシニーガルヤエーサニ(なんだと、あなたたちは死にに行くんでしょう)」と、鎌持ってきてですね、振りかぶられたんですよ。鎌でこうやられたもんだから、もう壕から出ずにいました。宇加地や高志保からもうちの防空壕に来ていましたね、それで学校には集合しないで、すぐ、その日にヤンバルにチャーヒンギ(皆で避難した)ですよ。
照屋   助かったねえ。
事務局 家族面会してきなさいという期間だったわけですね。読谷地区の出身者は。
伊波   はい。
知花   空襲があったから、もうそのまま。
事務局 なるほどね、これが幸いしたと。
伊波   それは我々にとっては、よかったということで、島尻の皆さんは家族面会してちょうど農林学校へ帰って来ていたわけです。
照屋   運命の分かれ道だなあ。
伊波   それで島尻出身と家族面会に行けなかった宮古、八重山の農林生は戦死者が多いわけです。

古堅ガー近辺への爆撃

左端は伊波※※さん、背中は上地※※さん
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伊波   私たち家族は新たに、古堅ガーの東側に横穴式の防空壕を造っていました。隣は池原※※さん家族でした。三月二十四日か二十五日、私たちの壕の入口正面に、爆弾が直撃しました。
 兄弟は私を筆頭に六人、みんな年下でしたから、妹、弟たちに布団を被せたり、いろんなことをして、壕入口の戸がガタガタ動くもんですから、これが倒れたら困ると思って、私はずっと戸をつかまえていたんですよ。そこへ直撃弾が壕入口付近に落ちたものだから、入口が塞がって、爆風で岩が飛んできて私は壕の中の方に吹っ飛ばされてしまいました。右足も怪我をして、しばらくは耳も聞こえなくなりました。
事務局 爆風で聴覚が。
伊波   はい。それで私は家族を私の壕から池原さんの壕に、妹、弟たちを一人ずつ移して。必死だったからできたんでしょうね。そこも危ないよといって、また向かいの壕(真栄田城(メーダグシク)跡)に移りました。あの頃からは心細くて、字の人たちがたくさんいる所に一緒についていって、三月二十六日に山原へ向かいました。
事務局 古堅ガーの周辺に防衛隊がいましたか。
伊波   はい、防衛隊の炊事場があったんですよ。
事務局 そこに爆弾が落ちて、防衛隊員がたくさん死んだと。
伊波   はい。馬なんかも死んでいたそうです。北海道からの大きな馬です。防衛隊は南部の皆さんが多かったようです。今でも時々、遺族の方が死んだ所でマブイマニチ(魂招き)というか、拝みにいらっしゃいます。
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