第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会
4 十月空襲後から一九四五年(昭和二十)三月まで
タコツボ掘りと誘導路造り
事務局 十・十空襲後は、また陣地構築などが続いたのでしょうか。
上地 ええ、僕ら農林の実習地の農場西側にある山の中に、個人個人のタコツボを掘りました。大湾の飛行場の誘導路、北飛行場へ続く誘導路造りで道を大きくしたこと覚えてる。
照屋 全く覚えない。
上地 時期は覚えてないが、大湾公民館のそばの道を拡張したよ。
大城 これもまた四組だけじゃないか。(笑)
上地 この道を本当に飛行機が通れるのかなあと、僕らは疑問に思いましたよ。道路沿いの垣根を壊してよ。
事務局 家も壊していましたか。
上地 家は壊さないで、竹の垣根などを壊して、道を広くした。
照屋 あの頃はブロックじゃない、ほとんど竹だもんね。
海軍の砲台陣地構築作業
事務局 海軍の砲台構築作業という話も聞きましたが。
伊波 はい、次は北谷村平安山、チョンナーグヮーヤードゥイ(喜友名小屋取)で、海軍陸戦隊の海岸の砲台設置作業がありました。
事務局 時期はいつ頃かわかりますか。
上地 チョンナーグヮーヤードゥイ(喜友名小屋取)では個人製糖をしていたよ。
事務局 製糖をしていた時期といえば、一九四四年(昭和十九)十一月以降でしょうか。
照屋 そうそう。僕は砂糖があると聞いて、面白そうだなあと思って行ったんだ。
上地 十二月後でしょうな。
戦車壕掘り
伊波 高射砲陣地構築の後、十・十空襲の後だが、波平の戦車壕掘りもしましたよ。
上地 あれは一番最後だよね。
大城 最初は楚辺辺りからですかねえ、波平の大当(ウフドー)に向けて。今考えてみると、米軍の戦車をこの壕で防げると思っていたんですが、実際はそれどころの話ではない。戦車自体で道を開けて通って行くんだから、これくらい生徒が日夜汗を流して掘って、戦車壕と言っていたねえ。何の役にも立たないで、次々と読谷の海岸から上陸したと。
この戦車壕掘りの前に、海岸には、松の木を伐採してきてですね、あっちこっちの海岸の、戦車の上がりそうな所に杭を打ってあったんですよね。その松の木で上陸用舟艇を防ぐという考えで。今から考えると、ほんとに無知のなせる技だったんだね。
農林学校の防空壕作り
上地 牧原に農林学校の防空壕を作りに行きましたね。
事務局 鉄血勤皇隊の農林隊の本部壕ですね。その牧原の壕はいつぐらいの時期から作りましたか。
照屋 あれは十月空襲の後すぐでしょう。
事務局 農林学校の壕は今も残っていますか。
伊波 残っていますよ。
上地 農林学校の防空壕前に、慰安所(軍人倶楽部比謝川第二寮)があったさあね。
岩肌のくぼみがその場所を教えてくれる
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牧原にある鉄血勤皇隊農林隊壕
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事務局 建物の大きさはどのくらいですか。
大城 中は見たことないですが、いくつかに仕切られた長屋でしたね。
上地 長さは一〇メーター前後ぐらいでしょうね。
伊波 女は一〇名くらいいたと思います。
事務局 朝鮮から来た人だったんですか。
伊波 朝鮮の人が多かった。
事務局 みなさんは、正義感の強い青年期でしたから、慰安婦の方などを見てどうでしたか。
大城 別にね、この人たちも戦争に協力させられているんだなあと。
照屋 あの時は、別に嫌気もない。ああ、彼女たちも戦争に協力しているんだなあとしか思わない。いいようにしか思ってない。
事務局 兵隊が並んでいるところを、見たことがありますか。
大城 見なかったね。
伊波 農林生で最初の戦死者は、一期先輩の人であったようです。その人は一九四五年(昭和二十)三月二十九日に、農林の防空壕近くで亡くなっている。その人は、外に出て寝転んでいたら、焼夷弾の直撃を受けて、やられたそうですよ。