第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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3 十・十空襲

伊波   九月頃に座喜味城の高射砲陣地が完成したんだなあ。
照屋   終わったらすぐだったもんね、十・十空襲は。
事務局 十・十空襲の直前で完成ですか。一九四四年(昭和十九)十月十日にあった空襲は、早朝から始まったそうですが、皆さんも登校前の時間だったと思います。それぞれの体験を聞かせて下さい。
上地   その日は、朝六時半ごろ家を出て、楚辺の闘牛場辺りに来たら空襲が始まったんです。米軍機のグラマンの攻撃があってですね、初めは日本軍の演習と思って見ていたら、飛行場に爆弾が落ちて黒煙が上がっている。また戦闘機の翼に米軍の星の形がある。それで演習ではなくて、米軍の空襲だとわかりました。近くに製糖工場にキビを積んで行くトロッコの暗渠があったものだから、その下に隠れていて、しばらくして空襲が止んだものだから、家に引き返しました。
伊波   私の家には屋我地出身の友達が下宿していたもんですから、ちょうど二人で、いつものように朝飯を食べているところでした。東の方から空襲が始まったのですが、私たちも演習と思っていたんですよね。日本の兵隊でも、「今日の演習はものすごいな」と言って見ていましたけどね。しばらくすると、いよいよこれは本物だということになり、防空壕に入りました。ちょうど、フルギンガー(古堅井戸)の所にある防空壕で、そこで兵隊さんたちが米軍機に向かって鉄砲をパンパン撃っているのを見ましたが、どうにもならなかったのでしょう。一日中、壕の中ですごして、静かになった夕方、壕から這い出してきました。周囲の民家には被害はありませんでしたが、高台に上って那覇の方を眺めると、煙が立ち上っていました。
大城   私は海軍志願ということで、当日は同郷の大城※※と共に予科練(海軍飛行予科練習生)幹部候補の受験で那覇にいました。ナンミン(波の上)の近くにあった、ユンタンジャヤードゥグヮー(読谷山宿小)。そこで朝飯を済ませて、いよいよ会場に向かおうとするときに空襲が始まったのです。友軍が傍にたくさんいましたが、誰も敵だと分かっていませんでした。それで、爆弾が落ちてはじめて「これは敵の空襲だ」とわかり、大騒ぎしました。同時に、港の船がやられて、さらに垣花の大きな石油タンクもやられて、ぼうぼうと燃えだし、大変な状態でした。
 周辺にはお墓がたくさんあって、隠れる所があったから、まずは避難した。若狭辺りは火の粉が飛び、道も火の海となり通れないぐらいでしたが、ようやく泊まで来たら少し落ち着いた。
 ※※君とともに読谷へ向かって浦添の城間辺りを歩いていると、北飛行場に向かう兵隊、「呑龍(ドンリュウ)(全長一六・八メートル、八人乗り、百式重爆撃機)」という大きな飛行機の操縦士と一緒になりました。それで、日本軍のトラックに一緒に乗ることができた。読谷飛行場近くまできてみると、呑龍は空襲で焼かれていましたね。
 渡慶次部落の壕へ二人が帰ってきてみますと、うちの隣の人がすごく心配しだしたのです。というのは、隣の家には一期先輩の宜保※※(水産学校生)がいて、日も暮れて夜がふけても帰って来ないからでした。我々は、昼から歩いて、トラックにのって来たから、午後八時頃までには壕に着いていました。
 僕が帰って来たものだから、その家族は、「なあ、ワッター※※(うちの※※)はやられたんだ」ということで、みんな泣いていた。それがね、翌朝帰ってきたんだ。

十・十空襲時の読谷飛行場の在機数

事務局 十・十空襲のとき、読谷飛行場にはどれぐらいの飛行機があったんですか。
照屋   そのときにはあまり配置はされなかったね。模擬飛行機があって、数機は掩体壕にあったはずだけど、そこからは飛んだ様子はなかったですね。
大城   戦闘機は掩体壕か、あれに隠れることできるが、呑龍というのは大きかったんでしょう。
知花   何機ぐらいあった。
大城   三、四機ぐらいじゃないかな。
照屋   そんなもんだ。
大城   そのときには戦闘機は、今も座喜味の飛行場跡に、掩体壕が残っているでしょう。あの中に入っていたんです。だから、呑龍は滑走路の周辺に置いてあった。陸軍の双発の大きい飛行機でしたよ。
事務局 これがやられた。
大城   うん。これはほとんどやられた。やられたといっても三機か四機ぐらいしかいませんでしたが。
伊波   この空襲があることを予知していて、飛行機は避難していたのかなあと、という噂がありました。
大城   飛行機は少なかったですね。
照屋   空襲後にはたくさんやって来ていたさ。
事務局 知花さんの十・十空襲の体験を聞かせて下さい。
中央は知花※※さん、左端は、大城※※さん
画像
知花   さきほど、大城さんが言うようにね、うちの兄も、予科練(海軍飛行予科練習生)の幹部候補を受験したんです。
 二期上ですが、その兄もなかなか帰って来なかったのです。私たちは家族が八名いまして、妹たちも小さいものだから、父母と一緒に、造った防空壕にしょっちゅう出たり入ったりしていたんですよね。兄貴が帰って来ないもんだから、みんな心配してね。やっぱり遅かったですよ。というのはですね、ユンタンジャヤードゥグァー(読谷山宿小)という読谷の人が経営していた宿屋の小さい女の子を負ぶって歩いて帰ってきていたんですよ。夜中にですね。そういう思い出があります。私たちは家族が多いもんだから、どこにも移動もできず、しょっちゅう防空壕を出たり入ったりして、それの繰り返しでした。

防空壕について(屋敷内たて掘り壕から横掘り壕へ)

事務局 十・十空襲のときは屋敷内のたて掘りの防空壕ですね。
知花   はい。屋敷内の防空壕ですよ、十・十空襲の時は。
事務局 その屋敷内の防空壕はたて掘りで、上に横桟(さん)を置いたものですよね。
照屋   はいそうです。上に木を置いて。
伊波   あれは、そういう指導を受けて、みんなそうして作りました。十・十空襲以後は家庭ごとに違います。
照屋   上からの指導は、庭に縦掘の壕を掘って、弾が通らないように上から頑丈なもので覆って、土を多く被せなさいということだよね。
伊波   そういう指導を受けました。その中で空襲を凌いだ人は古堅ではいないといっていいぐらいですよ。うちは父親が防衛隊に行って、私の下に五名の弟妹がいたもんですから、母は非常に臆病でですね、「いざ空襲になってからはヒンギラランドー(逃げられないよ)」と言って、十・十空襲後は、自宅から一〇〇メートルほどの山手、フルギンガーに行くビジュル(拝所)の後ろに横穴の壕を掘って、そこで生活をしていました。夜はその壕の中に入って壕で寝て、また家に来て飯を食べて学校に行くんですけど、夜になったらまたその壕に行って寝るんですな。長いこと、それを続けましたよ。
 私の家は既に横穴壕を掘っていましたが、十・十空襲以後はみな山手に横掘りの壕を造っていましたよ。
事務局 最初、行政から指導を受けて作ったたて掘りの防空壕は屋敷内に作ったんですよね。
照屋   建物の隅のほうで、木があって、上から見えないところなんですよ。うちの庭には軍の食糧、缶詰をいっぱい積んでありましたからね、危ないなあと思ったけど、そこの木の下に。
事務局 やっぱり、知花さんも屋敷内の庭に。
知花   庭ですね。庭の角っこの木陰に作りました。
事務局 内地ではですね、建物の床下に防空壕を掘れとかね、空襲が来たらまずは押入れに入れとか、軍の防空についての一般指導書に記されて残っていますが、建物の下が安全とは考えられませんね。
大城   一番恐い所さあ。
事務局 防火用水とか、火を消すための砂を入れた俵などもありました。
伊波   置いてありましたね。家の軒下に。
事務局 照屋さんはどうでしたか。
照屋   私は十月九日の夜に、兵隊が「明日演芸会をやるので、ハーモニカ貸してくれないか」と来ておったんですよ。「ああそうですか」と言って、ちょうど友達に貸してあったもんだから、その十日の朝、背嚢を背負ってハーモニカを返してもらいに友達の家に行ったんです。「ハーモニカ返してくれ」と言ったら、「うんいいよ」と言って話している時に、東の空からバンバンバンと空襲が始まったんです。
 「すごい演習だなあ。今日は日本軍は張り切っているねえ」と、二人で見ておったら、戦闘機に白い星のマークが付いているんだね。一大事、「これはアメリカじゃないか」ということで、家に帰って、防空壕、といっても穴掘って木を置いて土をかぶせただけの簡単な防空壕だったんですが、そこに入ったんです。
 実家の家族が心配になり、すぐ走って行ったら、家の人も防空壕に入っていました。そこから戻るときに、喜名あたりが爆撃されていましたね、私もキジャマガー辺りで銃撃されたが、弾は当たりませんでした。
 米軍はグラマンで海から低空飛行で座喜味城の下の谷間を旋回しながら近づいて来たんだね。だが、高射砲は下へは向かないさ。そこからグラマンがグーッと急上昇して、上からバリバリー(と空襲する)。もう手も足もでなかったさ。
独立高射砲第二十七大隊戦闘経過の概要

一、編成
大隊長 陸軍少佐   大瀧善次郎
 本部  指揮班長大佐 梅田義男
 第一中隊長 中尉   中村半十
 第二中隊長 中尉   内田義雄
 第三中隊長 中尉   光本章一

二、昭和十九年十月九日迄の態勢
 本部および第一中隊は小禄に、第二中隊は天久に陣地を占領し那覇市および港湾施設の上空援護のかたわら陣地補強作業に従事。第三中隊は読谷山村座喜味に陣地を占領し北飛行場上空援護のかたわら陣地補強作業に従事。

三、戦闘経過の概要
 昭和十九年十月十日対空戦闘
 早朝奇襲的に敵艦載機連続かつ終日空襲し飛行場湾口施設を空爆ならび銃撃す  沖縄上陸最初の空襲であり各陣地各■隊共、防空火器の我威力を発揮す
 此日那覇市は灰燼に帰し北飛行場、伊江島、小禄各飛行機共飛行機および軍事施設等へ相当の被害を蒙れり
 敵に与へたる損害もまた少なからず
 「沖縄戦資料61」より

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