第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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2 一九四四年(昭和十九)四月〜十月頃まで

飛行場建設作業

事務局 農業を勉強したいという目的で入学されたみなさんですが、二年生になると、ますます農業の勉強時間がなくなってゆくわけですが、二年生になってからの様子を教えて下さい。
 三十二軍(沖縄守備軍)は一九四四年(昭和十九)の三月二十二日創設で、実際に大勢の守備軍が沖縄へ配備されるのは、その年の六月以後ですね。それ以前に飛行場の建設があったのでは。
大城   ああ、そうそう。飛行場建設に行ったのが早かったですね。
伊波   嘉手納(中)飛行場に行きましたよ。
事務局 嘉手納では、一九四四年(昭和十九)四月から中飛行場の建設が始まりますが、読谷飛行場は一九四三年(昭和十八)夏には建設が始まっています。順序からいえば読谷の北飛行場を作る作業が先ですね。皆さんは一年生の時から、飛行場建設作業をされていたのですか。
伊波   ほとんど二年生になってからですね。一年は順調に授業したからね。
事務局 では、一九四四年(昭和十九)四月に進級して、まず飛行場造りの手伝いをされながら、初夏からは高射砲陣地作りに参加したという感じですか。
伊波   私は、読谷飛行場作りに行った覚えがないなあ。
照屋   読谷飛行場には行ってない。飛行場は徴用された人たちが行って、モーキジュク(金儲け)しているんだ。
上地   やったよ。トロッコグヮーで土運んだよ。あれは、読谷飛行場よ。
知花   アテーネーンサー(覚えないなあ)。
照屋   全く、僕ら、そこに行ってない。三組だけが飛行場へ行ったんだろう。私は四組だ。
大城   僕ら二組ね。
上地   じゃあ、組ごとに行ったのかなあ。確かに楚辺の上の辺で、土を壊して、それをトロッコグヮーに乗せて運んだ。
知花   三組はやったかも知れんね。私たちは、嘉手納飛行場造りには行っています。
全員   嘉手納飛行場は行った。向こうはもう全校生徒総動員だったよね。

座喜味城高射砲陣地構築

大城   飛行場建設が終わったら、座喜味城ですね。
伊波   一九四四年(昭和十九)の六月頃から、農林学校が第四四旅団本部になって、翌月の七月頃から九月までの三か月間は、座喜味城で高射砲部隊の陣地構築へ行っています。
事務局 座喜味城へは農林学校が動員されていますが、他に一般の徴用工もいましたか。
伊波   座喜味城には農林生だけだったなあ。
照屋   兵隊と農林生だけ。別の住民は来てなかったね。ほとんどの住民が飛行場造りに徴用されていましたから。
上地   炊事等の仕事で座喜味城に来ている女の人たちはいましたよ。
大城   座喜味城は、昔、山田城から石を一つひとつ運んで築城したもんだと聞いています。城内には、アカギと松の大木があり、まず最初に木の伐採をしました。本当に大きな松を倒して、マーチヌカーハジャー(松の皮剥ぎ)、そして運搬もしました。次に城壁前方の石を取り崩しにかかり…。読谷の文化財に大きな手をかけたなあと、今ごろから思うんですがね。
事務局 城の周辺は高台であっても、林の松を剪定していましたでしょう。
照屋   そう、だから三六〇度視界を開くために、城周辺の松を伐採することから始まったんです。城壁外の木は上半分だけ切ってありました。
事務局 作業は伐採から始まったということですが、全体としてその次はどういうふうな作業手順になりましたか。
照屋   伐採はほとんどやられておったね、軍の方でね。最初からジャングルではなくて。
大城   僕らノコギリは持って行ってないよ。だから、大きい木は全部軍が伐採したんじゃないか。
知花   伐採された松の皮剥ぎをしましたね。
上地   あと、兵隊が伐採した木の根っこ、切り株を撤去して運ぶ作業。
伊波   そして高射砲の周りに土手を築きました。砲座の周りに相当な幅の土手を作った。土手に積む石や土を運ぶ、これがおもな仕事でしたな。
事務局 爆風よけの壁みたいな。
伊波   はい。これを造るのが主でした。農林生で、石を手渡しする時に足の甲に石を落としてしまって、怪我をして一月休んだという人もいました。
事務局 運んだ石というのは、城壁を壊した石ですか。
上地   城壁の東側を壊した石です。それを手渡しで運んで、高射砲の周りに積みあげました。それと、城の入口西側に兵舎も造ったね、簡単な作りの小屋を。
県民の勤労奉仕で構築された独立高射砲第27大隊
第3中隊の高射砲陣地(座喜味城跡)
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座喜味城跡にあった野戦高射砲の砲座跡
(写真提供渡辺※※氏)
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水汲みとおにぎり作り

大城   座喜味城跡の陣地構築においては、我々読谷出身は非常に助かったんです。作業割当は、地元の人は水汲みとおにぎり作りだったので、時どき失敬したりしよったんですがね。他の生徒も読谷出身を羨ましく思っていたようですね。
照屋   他の生徒は本校に集まってからでしたが、地元の生徒は家から座喜味城に直行でしたね。
大城   水汲みは、座喜味城の下にあった井戸からでした。
伊波   おにぎりは、塩水に手を浸して握るんだなあ。
事務局 なぜ、地元の人かと言ったら、ニーブガー(柄杓でも汲める井戸)で水が少なくなったら、民家の井戸を借りるのも、地元の生徒の方が頼みやすいということがあったのでは。
大城   そういうことだったんでしょうなあ。
事務局 村外の皆さんは本校に集まって、いわゆる隊列を組んで、作業場へ向かうと。地元は、座喜味城へ早目に直行してお茶を沸かして待っていた、という話を聞いたんですが。
知花   ああ、そうでしたね。いろいろと考えられていたんですね。

座喜味城の砲座の数

事務局   座喜味城の本丸に高射砲の砲座があったといいますが、砲座は何基あったんですか。
上地   私は城壁に沿って六座あったと覚えている。
事務局 今復元されているのを見ると、本丸から見て、城壁は高いですが、当時は城壁の石も崩してもっと低くしてありましたか。
知花   上の城壁は崩してない。あれは触った覚えはないな。
照屋   そのままだよね。
上地   上は木もなかったんじゃないか。
知花   高射砲の数は、みんな六門っていってますが、それがみんな本物だったかどうか。
事務局 高射砲が六門。本丸、後ろの方、あれはそんなに広くないですよね。
大城   今行ってみると、六門も据えることができたのかと思うぐらい狭いんだ。
伊波   農林学校の記念誌(『比謝の流れはとこしえに』)には、みんな六門と記している。
事務局 もう一つはですね、終戦直後、座喜味城に上がると、第一のアーチ門を上がった場所、現在は催し物などをする辺りが掘られていたんです。真中は残っていて、その周辺が掘られていたんですが、ここにも高射砲があったのかなあと。
上地   そこは弾薬庫だったはず。
照屋   高射砲ではないね。弾薬庫の跡ではないかな。

日本兵との喧嘩

伊波   作業のときですね、農林生と日本兵が喧嘩になったことがあったんです。『比謝の流れはとこしえに』(八一六頁)に、新垣※※さんが詳しく記してあります。その概要は、
 高射砲陣地構築作業中に、ヤクザのような古年兵が「沖縄の人間は下等だ」と散々悪口を言ったとき、農林生が「謝罪しろ」と抗議をはじめ、仲裁に入ろうとした見習仕官や少尉もいましたが、収まらなかったんです。兵長が「貴様らツベコベ言うと重機(重機関銃)をぶっ放すぞ」といったものですから、農林生が「兵長、中隊長の命令なしで重機が撃てるものなら撃ってみろ。それぐらいのこと知らんと思っているか」と言ったんです。少尉が出てきて謝ったが「少尉くらいの謝罪では許せぬ。謝罪がなければ引き上げる。協力の要請はここだけから受けているのではない」と農林生が撥ね付けると、今度は中隊長が馬をとばしてきた。「兵の過ちは隊長の不徳である。よく注意しておくので許していただきたい」と謝罪した、というエピソードもあったんです。
中央は照屋※※さん、左どなり知花※※さん
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照屋   私の養父(比嘉※※)は村長や県議を務めた人でした。日本兵と養父のことで印象に残っていることがあります。当時、私の家の前に、軽機関銃の小さい陣地があったんです。
 その陣地の銃眼を兵隊たちが作っていた時のことです。穴を掘って、銃眼を開け、上から土で被覆しますよね。その銃眼は、最初の頃はカベ石(切石)を、一メーターとか測って切って使用していました。しかし、もうその時間もないものだから、私の家の前の陣地では、松の木を代用して銃眼が四〇〜五〇センチ程開けられていました。
 それを見た養父が、助言のつもりで「松はシロアリが入るから駄目になりますよ」と兵隊に言ったわけ。親切で言ったつもりが、この小隊長が上官の中隊長に報告したらしく、その日の夕方、その上官が家に来たんです。上官は「そんなこと言うと、みんなの戦意が喪失するではないか」と言い、さらにかなりきつい言葉でなじっていました。
 兵隊が帰ってから養父が、「このイクサはマキーガスラーワカランドー(負けるかも知れないよ)」と言ったんです。これがずっと印象に残っていますね。
事務局 陣地があったのは波平のアガリジョーですか。
照屋   いや、今の読谷中学校のすぐ西隣り。集落から飛行場に向かって、口が開いていました。多和田毛(タータモー)です。

慰安会

伊波   二年になってからでもですね、私たちの学年は四クラスありましたから、全員一緒に座喜味城に行くということもありましたけど、ときには「何名かはどこに行け」といって別の陣地構築へ行かされました。私は伊良皆にあった風部隊に行かされ、何度か向こうで作業をしました。
照屋   向こうには国場組の飯場と舞台みたいなのがありました。そこで兵隊たちが演芸会をやっていたようです。
伊波   慰安会というのも盛んでしたね。古堅には医務室があり、衛生班の兵隊がどの家庭にも四、五名ずつ駐屯しており、ときどき字で慰安会をやっていました。兵隊さんや出征兵士を出している家族に事務所に集まってもらったですよ。古堅からも余興をいくつか出したんです。あの頃は、男子青年というのはほとんどいませんから、女子青年が五、六名でやりました。お返しに兵隊さんたちも、歌を歌ったり、ハーモニカを吹いたりしていたんです。
照屋   歌のうまい兵隊がいたね。
知花   今の歌手なみじゃないですか。すごい上手だったですよ。
伊波   駐屯兵や軍人を出している家族を激励する意味だったでしょうなあ。
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