第六章 証言記録
沖縄県立農林学校第四十二期生座談会


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1 県立農林学校入学から一年間の様子

一九四三年(昭和十八)四月〜 一九四四年(昭和十九)三月

先輩への敬礼と通学路

事務局 まずは入学当初から一年間の様子を聞かせて下さい。
上地   私たちは、一九四三年(昭和十八)四月十日に県立農林学校に入学しましたが、六五〇名の入学希望者から二〇〇名が合格で、古堅国民学校からは九名が入学しています。学校から近いということで、自宅通学しました。一学年は、時間どおり学科の授業も受けられました。
伊波   入学と同時に二週間ぐらいは、青年師範の先輩と二人一組で、挙手敬礼の仕方、行進の仕方、「頭右(かしらみぎ)」など、教練の基本を朝から帰るまで、みっちり鍛えられました。
 一期でも先輩には、会うたびに必ず、挙手敬礼をして「おはようございます」「こんばんわ」というふうにやっていたもんです。比謝矼を通って行きますと、たくさんの先輩方が下宿していらっしゃったので大変でした。嘉手納製糖工場、今の比謝川大橋のある所の桟橋から行くと、先輩が少ないものですから、一年の頃はわざわざ遠回りして向こうから通ったものです。
事務局 大城さんは、どうですか。
大城   はい。農林学校に入学できたことは大きな誇りで、一年間は本当に勉強したことを覚えています。しかし、一番悲しいなあと思うのは、二年生になるともう、実習と軍事訓練だけに追われて、本当に授業らしい授業をしてないということです。
 ちょうど学校へ通っていた頃は、読谷山(北)飛行場の建設が始まる頃でした。私は渡慶次から自転車通学でしたが、パンクしてもゴムノリもなく、修理することもできなかった。だからタイヤのチューブ代わりに藁を詰めてですよ、それでこいで行ったものです。
 雨が降ったら、タイヤに泥が付くので自転車をこいで行くわけにいかず、半時間以上かけて、喜名廻りで行きました。
知花   渡慶次方面からは、みんな自転車通学で、当時はだれも新品の自転車は買えず、みんな中古でしたね。だから、しばらくすると自転車はガタガタですよ。
照屋   僕らも波平からですが、飛行場先を、昔の読谷山国民学校、今の福祉センター辺りから自転車で走りましたが、雨降りにはタイヤに粘土質の泥がくっ付いて動かない。最初の日は、どうしていいのか分からなかったが、次回の雨降りからは、ウフギバンタ(大木)まで自転車を担いで行ったんです。そこから下ろしてまた乗って行きました。
事務局 一九四三年(昭和十八)から飛行場造りが始まったということですが、飛行場の工事中は道が遮断されましたか。
大城   工事中も通しよったですよ。
事務局 ああ、そうですか。飛行場建設の工事はやっていても、ウフギビラ(現大木交差点)への県道は使用させていたんですね。
大城   はい。それで、新たに座喜味北側のトーガーへの橋が造られたので、それからは喜名へ回るんですね。現在はアメリカーが、橋を造ってありますよね。もうちょっと飛行場よりにナーカヌカー(中の川)から。
知花   私たちは、キジャマガー(座喜味家族壕跡近くを流れる川)から真っ直ぐ通ってました。

通学時の服装について

事務局 通学の服装はどのようなものでしたか。
知花   当時は戦時体制下ですからね、上衣からズボンまでみんな国防色ですね。帽子は戦闘帽。三期ぐらい上までは普通の帽子ですがね、私たちから二期ぐらい上からはみんな戦時服です。兵隊みたいな服装ですね。それから、履き物はみんな地下足袋でした。
事務局 中学校のときから地下足袋ですか。
大城   そうです。地下足袋もあたいかんてぃーね(新たに買うこともできない)。
知花   地下足袋はですね、踵が磨り減るんです。しかしもうそのまま。履いたら痛いですよ(笑)。
事務局 上はあるから。
村史編集室2階で行われた座談会
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知花   はい、上の部分はあるから、見た目はわからないけれど、靴底は磨り減っていたのを履いた。
伊波   あの頃は、一年に入学のときに洋服一着、帽子一つ、地下足袋一足を購入割当されたら、もう次は買えないんですよな。しかも地下足袋も非常に質が悪くてね。例えば、地下足袋の一番弱いのは下の部分で、すぐ底が外れてですね、アークアークしているんだけど、これがある間は、藁綱で巻いて通学して、もう後は巻く物もなくなるわけですね。なくなったらどうしたかというと、農林学校は巻脚半ではなくて白いゲートルだったからね。それで、足の部分は今で言うアダンバーサバ、阿旦葉でできた草履ですね。草履作りのおじいさんに注文して買ったものです。見た目は地下足袋、下はアダンバーサバ、これで学校に通っていました。
照屋   多かったよ、これ。結構履いていましたよ、アダンバー草履。別にそのときは恥ずかしいとは誰も思わないですよね、当たり前だったから。
知花   物がないんだから。

農業実習の思い出

事務局 授業や実習はどんな様子でしたか。
伊波   農林学校の実習では、何をしても先輩からも先生からも見えるように、農業着のお尻の部分に大きな名札を付けていました。そして自分の鍬にも名前を入れるんです。鍬、鎌、へらにも全て名前を記入するんですよ。そして、月に一回検査があったんですよ。鍬・鎌・へらの三つを揃えて、先生が調べるんだけど、錆が付いていたら大変だからね。実習点引かれるから、もう、ピカピカに磨いてね、検査のある日は、それこそ大変でした。
 一年生の間は牛や馬や山羊の草刈り作業。うっかりすると手も傷つけながら草を刈り、もっこ(シュロ縄を網状に編んだ運搬用具)に入れて持って行ったら、二年生が計量するんですよ。「一八斤あった」「一九斤あった」って。精いっぱい刈って二〇斤だった。一八斤、一七斤が多かったんだよな。二〇斤に満たない者は怒られるわけですよね。
 そして、二年生は牛や馬小屋の掃除ですね。三年生からはもう、そういった割り当てはありませんでしたけど。
知花   私なんかもしょっちゅう怒られてですね。
伊波   みんなが草刈りをするので草がなくなるんですね。そこで、農林学校の草を入れるオーダー(もっこ)、これを水に浸けると重みが増しますから、計量のときは、水に浸けてから、これに草を担いで行きよったですからね。そうせんとフシガランカラヤ(そうしないと大変だからね)。
大城   私たち、こういうジンブン(知恵)ないから、オーダー(もっこ)を水に浸けるのも分からない。
上地   不良青年ヤテーサヤー(だったんだね)(笑)。
知花   農業実習は担当区制で、三年生何名、二年生何名、一年生何名で作業をしてました。
事務局 同級生同士でなくて各学年から。
知花   そこで先輩から叩かれた覚えがありますよ。今は草刈りをやったことしか覚えてないんですが、私はそれまであんまり農作業をやったことがなかったんです。あの時は非常につらい思いをしました。泣か泣かーしましたよ。鎌も初めてだったですからね。
照屋   彼のお父さんは先生だったから、畑なんか…。
知花   はい。非常に難儀しましたね、もう。
照屋   私は別にそんなに問題ありませんでした。家には山羊も馬も豚もいましたから、子どもの頃から草刈りには慣れていたから。別にそんなにきついなあとは思いませんでしたよ。
上地   野菜作りもしたね。
伊波   収穫したものを嘉手納の町に売りに行くのは一年生でした。
知花   リヤカーに積んでですよ、ちょっと恥ずかしかったですな。
事務局 結局、実習に向けての理論的な授業が一週間に二時間ぐらいあって、また、先輩が声かけて、放課後集まって担当区の農作業をやるという感じですか。
大城   はい、担当区は一週間に一回ぐらい、放課後に作業しましたね。
農林学校生の野菜販売実習風景(嘉手納町教育委員会提供)
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軍事教練について

事務局 一年生の時から軍事教練はありましたか。
知花   ああ、もう、最初からですよ。
上地   一年生の頃は一週間に一時間。
事務局 配属将校がおられたようですね。
上地   配属将校は本村大尉でした。
照屋   少しでも態度が悪かったら、軍刀で殴られたからね。また、伝令の訓練ということでは、比謝川の丘に上がって何か言わされるんだよね。発声練習ということで。そうしたら聞こえていても将校が「聞こえなーい!」と言うんだよ。
事務局 配属将校もいるが、実際は教練教師が教えていたとか。
大城   そうですね、大山の方で呉屋※※。万年准尉がいましたね。
伊波   運動会も、軍事色の強いものでした。敵と味方に別れてですね、煙幕を張って、空砲をパンパンパンパン撃ちながら運動場で戦っていましたよ、先輩たちが。私たちはやりませんでしたがね。敵を攻めていくように匍匐(ほふく)前進をして、最後は両方から「突撃」でやっていましたよ。
照屋   白兵戦だな。
事務局 南から攻撃軍、北からは迎撃軍、いわば兵隊ごっこでしたね。
照屋   二年の一学期からは午前中が軍事科学と軍事教練、オートジャイロ(ヘリコプターの前身)だとかマッチ箱爆弾の話を聞いたり、匍匐前進や竹槍をもって藁人形を突く訓練もありましたね。
 軍事教練では、蛸壺を掘って隠れていて敵の戦車がきたら、目の前まで近づくのを待って、爆雷を背負って飛び出して戦車の下へ潜り込むという練習もしていたからね。練習では爆雷は背負わなかったですよ、もちろん。でも自分も一緒に戦車に突っ込んで爆破しろということさ。それでも当時は「一人十殺、一戦車」と言われていたからね。命をかけて戦車を爆破せよ、という訓練を学校で受けていたんだからね。
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