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 沖縄守備軍(第三十二軍)の配備

 南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三十二軍が編制されたのは一九四四年(昭和十九)三月であったが、実戦部隊が沖縄に移駐してきたのは、サイパン陥落前後の六月頃からであった。一九四四年十月頃までに沖縄に配備された守備軍の兵力は次の通りであった。
 第九師団(満州の関東軍から編入した部隊で武部隊と通称。沖縄戦直前に台湾へ移動)
 第二四師団(満州の関東軍から編入した部隊で、北海道出身が多かった。山部隊)
 第六二師団(華北で編成され、京漢作戦などに参加した部隊で、近畿・北陸出身が多かった。石部隊)
 独立混成第四四旅団(六月に富山丸で沖縄へ向かう途中、徳之島東方海上で米潜水艦の攻撃をうけて四千人の死者を出した部隊)
 海軍の沖縄方面根拠地隊、海軍の海上特攻隊(震洋隊など)
 陸軍の海上挺進隊(特攻隊)、遊撃隊(残置諜報部隊で護郷隊と通称)など。このほか宮古島には第二八師団と独立混成第五九旅団、第六〇旅団、石垣島には独立混成第四五旅団、奄美大島に独立混成第六四旅団、大東島に独立歩兵三六連隊などが配備されていた。この沖縄守備軍・第三十二軍を「球(たま)部隊」と通称した。
 沖縄戦直前の一九四五年(昭和二十)三月、沖縄本島に配備された正規軍の総兵力は約八万六四〇〇人、そのうち歩兵が三万八〇〇〇人、海軍の陸戦部隊が約一万人であった。大砲は約四一〇門、戦車が四〇両であった。
 大本営は、一九四五年(昭和二十)一月二十日、「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定した。この計画では、「皇土特ニ帝国本土ノ確保」を作戦の目的とした。「南千島、小笠原諸島(硫黄島ヲ含ム)沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海附近」を、「皇土防衛ノ為、縦深(じゅうしん)作戦遂行上ノ前縁(ぜんえん)」と規定し、「右前縁(ぜんえん)地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ズ敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図(はか)リ且(かつ)敵航空基盤造成ヲ妨害ス」とした。
 縦深(じゅうしん)作戦というのは、前面の敵の攻撃に対して、中枢(ちゅうすう)部を縦に深く守るために防衛線を第一線、第二線と布陣することである。
 沖縄や硫黄島は「本土」ではなく、本土(皇土)を防衛する前線であった。沖縄守備軍(第三十二軍)の任務は、沖縄を本土として守りぬくことではなく、出血消耗によって米軍を沖縄に釘付けにし、防波堤となることであった。大本営は、これによって本土決戦を準備し、沖縄は「国体護持」を前提とした終戦交渉の「時間かせぎ」の持久戦の場とされた。「捨て石」作戦と言われるゆえんである。この方針をうけて、第三十二軍は県民に対して、「軍官民共生共死の一体化」を指示した。
 近衛文麿元首相は、沖縄戦直前の二月十四日、天皇に次のように上奏(じょうそう)している(細川護貞『細川日記』)。
 「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。…敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の輿論は今日迄の所国体の変更とまでは進み居らず…随って敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体護持の立場より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。…随って国体護持の立場よりすれば、一日も速かに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。」

 近衛元首相の上奏は、戦争終結の必要を公然と天皇に説いている点で注目される。その趣旨は、国民の犠牲をさけるということではなく、天皇制を守る立場から述べられているのである。英米は、「国体変革」を要求することはあるまいとして、国内から起こるべき共産主義の革命防止こそ急務であると説いたのである。近衛の上奏に対する問答の最後に、昭和天皇は、「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」と述べ、この時期にいたってもなお戦争指導に情熱をもっていたことがわかる。
 大本営は当初、第三十二軍の主要な任務を飛行場確保とし、地上戦闘を第二と考えた。航空作戦を優先させる考えから、第三十二軍を西部軍指揮下から台湾軍(九月二十二日に第一〇方面軍に昇格)に編入した。さらに、レイテ決戦のために、第三十二軍から第九師団を引き抜き、一九四四年(昭和十九)十二月から翌年二月にかけて、台湾に転出させている。

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