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 全島要塞化と根こそぎ動員

 制海権と制空権を奪われた南西諸島は、弾薬や食料の補給路が遮断され、守備軍は現地のありとあらゆる人的・物的資源を戦力化して自給することになった。
 一九四四年(昭和十九)八月三十一日、第三十二軍兵団長会において、牛島司令官は七項目の訓示をしているが、そのなかで「軍民一体の戦闘協力」について次のように述べている。
「現地自活ニ徹スヘシ」 極力資材ノ節用増産ニ努ムルト共ニ創意工夫ヲ加ヘテ現地物資ヲ活用シ一木一草トイヘトモ之ヲ戦力化スヘシ
地方官民ヲシテ喜ンテ軍ノ作戦ニ寄与シ進テ郷土ヲ防衛スル如ク指導スヘシ…之(これ)カ為、懇(ねんごろ)ニ地方官民ヲ指導シ軍ノ作戦準備ニ協力セシムルト共ニ敵ノ来攻ニ方(あた)リテハ軍ノ作戦ヲ阻碍(そがい)セサルノミナラス進テ戦力増強ニ寄与シテ郷土ヲ防衛セシムル如ク指導スヘシ
厳ニ防諜ニ注意スヘシ

 このような方針のもとに、飛行場建設と全島要塞化の作業が強化された。働き手は、「国民徴用令」や「国民勤労報国令」などによって鍬やツルハシをもって馬車とともに動員され、中等学校生はては国民学校(現在の小学校)の児童まで動員された。
 飛行場設営には、沖縄全域から動員された。伊江島・読谷山(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)・牧港(南飛行場)・首里(石嶺飛行場)・西原(東飛行場)・那覇(那覇飛行場、海軍と大日本航空の共用の、戦前からあった唯一の飛行場で現在の那覇空港)・糸満・南大東島などの飛行場のほか、宮古島・石垣島でも航空基地の建設が強行された。
 食料や資材は軍に供出させられ、農家の労働力もほとんど陣地構築に動員されたので、食料の確保は困難をきわめた。これが、戦場になったときの飢餓地獄の遠因にもなった。
 第三十二軍は兵役法にもとづいて、在郷(ざいごう)軍人(兵籍にある者)を徹底的に召集した。在郷軍人で召集を免れていたのは、特別任務をおびた国民学校長・青年学校教師や役場吏員の兵事主任などであった。
 第三十二軍は兵力不足を補うために、一九四四年十月以降、二次にわたって「防衛召集」を実施している。これが、「防衛隊」である。防衛隊は、兵役法でいう現役兵や召集兵とは異なり、『陸軍防衛召集規則』(一九四二年九月制定)にもとづいて戦場動員された男子である。すでに、一九四三年(昭和十八)八月には、陸軍防衛召集規則によって宮古島に特設警備中隊が編成され、翌年一月には石垣島にも特設警備中隊が編成されている。防衛隊の先例である。
 一九四四年(昭和十九)七月には、『在郷軍人会令』による在郷軍人会防衛隊も編成されている。これは在郷軍人の義勇隊であった。
 沖縄連隊区司令部では一九四四年の夏、各市町村の兵事主任を集めて、「国民兵」(本来、兵籍にない者)を兵籍に編入して名簿を作り、「待命令状」を交付したという。この作業によって、根こそぎ動員の態勢をととのえたわけである。(「沖縄連隊区司令部」とは、徴兵などを司る役所、事務所のことで、現在の那覇市松山の「福州園」の所にあった。)
 一九四四年十月十九日、陸軍防衛召集規則が改正され防衛召集の対象を十七歳から四十五歳までの第二国民兵のすべてに適用することとした。この新しい規則によって十月から十二月にかけて防衛召集が行われた。
 十・十空襲によって沖縄連隊区司令部は焼け、兵籍簿は焼失し、連隊区司令官の井口駿三大佐も戦死した。このため、連隊区司令部では、連隊区司令官の押印のある召集令状を市町村役場に配付した。兵事主任は、役場の兵籍簿の副本で確認して、召集令状の用紙に該当者の名前を書きこんで当人に伝達したという。
 一九四五年(昭和二十)の一月から三月にかけて、大々的な防衛召集が行われた。琉球政府援護課がまとめた「防衛召集概況」によると、三月六日付の防衛召集者だけでも一万四千人にのぼっている。この資料によると、一九四四年(昭和十九)十月以降の防衛召集者は二万五千人以上にのぼるものと考えられる。防衛隊の死者は一万三千人以上と言われている。
 防衛召集は、正規の手続きを経ることなく、現地部隊が恣意的に戦場動員をしている事例が多い。十七歳から四十五歳までというのは、法のたてまえであって、戦場になってからは十五歳以下の少年や六十歳以上の高齢者まで根こそぎ戦場へ動員された。このようにして戦場に動員された人々は、陣地構築や砲弾運びに使役され、戦闘訓練も受けず、武器も与えられず、一般に階級章もなかった。竹槍だけを持たされていたことから「棒兵隊(ボーヒータイ)」と自嘲する人々も多かった。これらの防衛隊員をひきいて班長や隊長となり、軍当局と隊員との間に立って苦労したのが、役場吏員として、あるいは学校教師として召集を免れていた年配者(在郷軍人)たちであった。
 一九四五年(昭和二十)六月二十三日には「義勇兵役法」が公布されている。この法律によって、十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十五歳までの女子は、すべて「国民義勇戦闘隊」に編成されることになっていた。本土決戦にあたっては産業報国隊なども編成がえをして、二八〇〇万人の国民義勇戦闘隊が動員されることになっていた。戦時立法は、ついに女性に兵役義務をおわせるところまでゆきついたのである。これは、沖縄戦における根こそぎ動員が先例となったものと考えられる。
 第三十二軍の兵力は、防衛隊の召集によっても、なお不足していた。このため、県下の中等学校・女学校の生徒や青年団の男女も戦場に動員された。鉄血勤皇隊、護郷隊、義勇隊、特志看護隊、救護隊など名称はさまざまであった。学徒隊は二三〇〇人余を動員して、死者は一二〇〇人以上を出している。十七歳以上の男子生徒は「陸軍防衛召集規則」によって戦場に動員されたわけであるが、十七歳未満の少年たちの戦場動員は、義勇隊であった。特に少女たちにいたっては、いかなる法的根拠もなかった。低学年の子どもたちは、「親の承諾」を得て学徒隊に参加させられた。義勇隊に加わらない者は、非国民として非難され、病弱の者でも容赦しなかった。
 ここにいまひとつ、記録にとどめておきたいことがある。「ひめゆり学徒隊」(師範学校女子部と県立一高女)の少女たちを戦場動員することについて、「それは疑問だ!」と勇気ある発言をした教師たちがいたことである。この教師たちは、ただちに教壇を追われフィリピン戦線と沖縄の戦場へ送られている。私たちは、この教師たちの「愚直さと勇気」を誇りをもって引き継ぎ、発展させていかなければならない。
 一九四五年(昭和二十)五月二十二日には、「戦時教育令」(勅令)が公布されている。これによると本土決戦にそなえて国民学校や盲聾唖学校にまで学徒隊を編成することになっていた。沖縄の学徒隊が先例となったのである。
 敗戦直前の七月八日、沖縄師範学校と沖縄県立一中の学徒隊が、東京で文部大臣の表彰を受けている。一二〇〇人以上の学徒隊が死に、沖縄守備軍は壊滅していた。本来の受取人のいない表彰式であった。大田耕三文部大臣は次のように挨拶し、全国に大号令を発している(朝日新聞・一九四五年七月八日付)。
 「今や敵の本土上陸は殆ど必至の情勢にあり已(すで)に義勇兵役法も制定せられ国民義勇戦闘隊も結成せられました。学徒としましては学徒隊を組織し夫々(それぞれ)戦時に緊切なる要務に挺身しつつ愈々(いよいよ)事態が切迫致しまするならば義勇戦闘隊員として最前線に立つべき秋(とき)に当り魁(さきが)けて学徒の本分を竭(つく)し皇国護持の大任に殉じた鉄血勤皇隊、殊に右二校の如きがあります事は全国の教職員および学徒の重大なる覚悟を促すものと謂(い)はねばなりませぬ、全国学徒は愈々(いよいよ)平素の錬成に筋金を入れて醜敵撃滅の一途に邁進(まいしん)するばかりであります」。

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