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 県外疎開と島内疎開

 一九四四年(昭和十九)七月、政府は閣議決定にもとづいて、南西諸島から約一〇万人の老幼婦女子と学童を県外へ疎開させる計画を立てた。政府の疎開計画は、老幼婦女子を沖縄から県外へ移し、食糧を確保することがねらいであった。この疎開計画は、政府の公式文書では「引き揚げ」と言い、戦場となる沖縄から足手まといとなる者を排除したのである。安全地帯へ避難するという意味のものではなく、県民の命を守ることよりも軍の作戦を優先した強制退去であった。
 疎開は一九四四年七月から始まり、沖縄戦直前の一九四五年三月まで実施され、鹿児島・宮崎・大分・熊本などの南九州へ約六万五〇〇〇人、台湾へ一万人余が疎開した。
 疎開学童は国民学校(現在の小学校)の三年生から六年生で、四〇人に一人の引率教師がつき、南九州へ約五五〇〇人、台湾へ約一〇〇〇人の学童が疎開した。
 なお、鹿児島県への疎開者が少ないのには理由がある。鹿児島県には、沖縄戦へ出撃する航空機の基地(秘密特攻基地)が十数か所も設営されていて、地元の人たちも排除されていた。沖縄からの疎開者が入る余地がなかったのである。
 一九四二年(昭和十七)三月、政府は「戦時海運管理令」を制定して船会社の船を国が借り上げ、「特殊法人船舶運営会」を設けて政府の総合計画のもとに一元的な運営にあたらせていた。疎開者は、この船舶運営会の船と陸海軍の御用船で運ばれた。県外疎開者は一八七隻の船で九州や台湾へ渡ったことになっているが、二〇トン未満の漁船で疎開した人たちもいたから、疎開船は、おそらく三〇〇隻をこえていたと考えられる。
 県外疎開は、アメリカの潜水艦と艦載機の待ちうける六〇〇キロメートル以上の航海であった。この危険な海域に船出をすれば、米軍の攻撃によって疎開船が沈められ、多数の死者が出ることは十分に予測できた。大型の船は魚雷攻撃を受けたが、小型の漁船などは浮上した潜水艦から銃撃された例もある。
 沖縄戦の直前に、鹿児島から那覇へ向かった輸送船もあり、嘉義丸・台中丸・富山丸などが魚雷攻撃で沈められている。戦争中、南方へ大量の軍需物資が輸送船で送られた。この輸送船に便乗して、関西や京浜から数千人の若者たちが帰郷した。徴兵検査や召集令状の通知を受けて、どうしても帰らなければならなかったのである。
 これらの戦時遭難船舶について、疎開学童を乗せた対馬丸、少年航空兵(入隊予定の者たちを含む)を乗せた湖南丸などの一部の例を除いて、具体的な遭難の状況は、ほとんど公表されていない。厚生省や船会社は、乗船名簿や遭難記録など関係資料の全面公開をいまだに拒んでいる。遭難船舶の生存者やこれを救助した漁船員にたいして、憲兵や特高警察がきびしく口封じをしたことについても、一般には知られていない。そのころ、「要塞地帯法」・「軍機保護法」・「国防保安法」といった法律があって、軍事に関する情報は厳重に管理されていた。機密保持が徹底され、遭難遺族にも遭難の実態は知らされなかった。遺族にしてみれば、疎開を強行した「政府と軍の責任」を「未必の故意」として追及するのは当然である。
 沖縄戦の直前から戦中にかけて、沖縄本島の北部地域は重要な避難地となった。
 第三十二軍は、主戦場となると予想される中南部から、北部へ一〇万人を疎開させることにし、疎開の実施計画を沖縄県と協議した。六十歳以上の高齢者と国民学校以下の児童を三月下旬までに疎開させ、その他の非戦闘員は、戦闘開始必至と判断する時期に軍の指示により一挙に北部へ移すことにしていた。県の人口課は、北部の町村に次のように疎開民の受入れを割り当てた(カッコ内は疎開者の出身市町村名)。

 国頭村(那覇市・真和志村・浦添村・読谷山村など)
 大宜味村(那覇市・真和志村・豊見城村など)
 東村(読谷山村・具志川村など)
 羽地村(美里村・越来村・北谷村など)
 名護町(小禄村・その他)
 今帰仁村(宜野湾村・伊江村)
 久志村(中城村・西原村)
 金武村(大里村・佐敷村・南風原村・東風平村・玉城村・知念村・その他)

 このような疎開業務を沖縄県人口課が始めたのは、一九四五年(昭和二十)二月中旬であったから、疎開民の食糧対策もなされず、三月下旬の沖縄戦開始までの約一か月間で北部に疎開できたのは約三万人であった。多くの住民は、日米両軍の戦場に放り出されることになった。県の疎開業務を担当する事務所が名護の東江国民学校におかれたが、疎開者を各町村に割り当てた段階で業務を遂行できなくなった。
 受入れ側にとっても疎開者側にとっても、食糧の確保が最大の課題であった。北部の各集落では、すべての家庭で自宅の一部をさいて疎開民に提供し、谷間ごとに避難小屋が建設された。しかし、北部に米軍が進攻してきた四月六日ごろからは、それぞれが山中の避難生活であり、他をかえりみることはできなかった。
 中南部からの疎開者を、北部では一般に「避難民」と呼んだ。避難民と地元民との関係は、食糧事情の悪化とともに険悪となった。特に沖縄戦末期には、敗残兵も入り乱れて食糧の奪いあいとなり、陰惨な事件が続発した。戦中の飢えと過労のために、マラリアその他の病気で、多くの年寄りや子どもが死んだ。山原の地形も方角も分からない中南部の避難民たちは、食料を求めて山中をさまよった。
 八重山の波照間島では、軍の命令によって、住民全員が西表島のマラリア地帯・南風見へ強制的に移された。このため、住民の三分の一にあたる五〇〇人以上の人が飢えとマラリアのために死んだ。

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