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11 読谷山村における米軍上陸時の様子

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 米軍の沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と称せられ、その計画の特色は、過去の太平洋戦争作戦には見られなかった規模の地上、海上、空中戦力の最大集中統合作戦であった。
 米軍の沖縄攻略の目的は、日本の領土である沖縄を占領することによって日本と南方及び中国方面との連絡網を断ち切ると同時に沖縄を日本本土への侵攻基地にすることであった。これが、沖縄で太平洋戦争最大の上陸作戦が展開されたゆえんである。
 米軍にとって上陸地の選定をするに当たって沖縄の日本軍の防衛に関する情報入手は最も重要な課題であった。米軍はこのため、あらゆる情報収集に躍起となった。一九四四年(昭和十九)十月十日の沖縄初空襲、一九四五年(昭和二十)一月二十二日以降の徹底した空中偵察及び航空写真撮影はそのためであった。そして上陸地域は戦術上の判断、後方兵站業務、その他の見地から沖縄西岸の比謝川河口を中心に南北約一二キロメートルの海岸(北及び中飛行場の西方海岸)が選定された。米軍資料によると、その理由は次のとおりである。
 「まず第一に、L・デイ後五日以内に、必要な飛行場を確保できるということ、第二に攻撃を支えるに必要な物資の荷降ろし場が得られるということ、にあった。渡具知の浜だけが、それに適する二個軍団の兵力と支援部隊を維持できる物量を降ろせる広さがあると考えられ、那覇港や中城湾投錨地がすみやかには占領できなくても、その不利を補ってあまりあるとみなされたのだ。第三の理由は、この案で行くと、日本軍を二分することができる。第四に、日本軍の激しい抵抗が予想される地点からちょうど反対側のビーチに一回の敵前上陸を敢行することによって、そこにぞくぞくと兵を送り込めば部隊を集中することができる。第五番目に、このあたりの地形は、日本軍が上陸軍を迎撃するのに非常に不利な立場に立たされる地形である。そして最後に、総攻撃のさい掩護射撃を最高に活用できる」ということであった。

 米軍の無血上陸

 読谷村渡具知海岸は二つの飛行場(北・中)に隣接しており、渡具知から楚辺、大木、古堅に至る位置は読谷(北)飛行場の南にあり、海岸平野をなしている。そのため、一九五〇年代頃まで渡具知、楚辺、都屋海岸は米軍の巨大な兵站基地となった。
 日本軍も米軍は本島の西海岸から上陸することはまちがいないとしながらも、その第一上陸予想地点は那覇〜大山間、第二案は那覇〜与根間、読谷〜嘉手納間は第三案であった。米軍はその第三案である読谷、嘉手納から上陸し守備軍をあわてさせた。
 米軍は三月二十三日に上陸前空襲を開始し、港川への艦砲射撃を加えて、急反転し、二十六日にはついに慶良間諸島へ上陸した。米軍の慶良間諸島第一次上陸の目的は、慶良間海峡、阿嘉海峡を占領して有力な艦船投錨地にするためであった。
 米軍は引続いて四月一日には沖縄島中部西海岸に艦船一四〇〇〜一五〇〇隻、兵員約一八万三〇〇〇人をもって沖縄上陸作戦を展開した。しかも補給部隊を含めると、約五四万八〇〇〇人という大軍であった。
 米軍の大々的な上陸作戦に対して、守備軍はほとんど反撃を加えることなく米軍の“無血上陸”を許した。そのため、米軍はあっさりと北・中飛行場を占領することができた。そして、四日目には沖縄島を南北に分断するほど進撃していった。
 読谷(北)、嘉手納(中)両飛行場を占領した米軍は、いちはやく守備軍が破壊した両飛行場の整備に着手した。そして四月七日からは、早くもマリアナ基地との連携を開始し、四月十六日からは読谷、嘉手納両基地から南九州の飛行場を叩くための爆撃機が出撃している。一方では占領した地域に次々に飛行場を造っていった。これは次なる本土侵攻のための米航空作戦の一環であった。
 ちなみに残波岬から南の波平に至る広大な海岸線の平野部を利用して造られたボーロー飛行場はその一つであった。

 独立混成第三十二聯隊の沖縄派遣中止

 「大本営の指示により北、中飛行場確保のため台湾から沖縄に派遣することになっていた独立混成第三十二聯隊は、基隆付近に集結し輸送を準備したが、配船の都合悪く待機中であった。二十三日以来沖縄は空襲を受け、二十四日艦砲射撃を受けるに至り、輸送不可能の状況となったため、大本営陸軍部は、二十五日第十方面軍に対し聯隊の派遣を中止するよう指示した。
 第十方面軍司令官は、万難を排して混成聯隊を沖縄に輸送しようと企図したが、成功の見込み立たず、遂に二十六日派遣中止を命令した。
 第三十二軍司令官は、独立混成第三十二聯隊の派遣中止に伴い特設第一聯隊を軍直轄とし、同聯隊に対し『一部をもって座喜味付近、主力を持って讀谷山(二二〇高地)の既設陣地により努めて長く北飛行場を制扼する』ことを命令した」
 「従って、米軍の上陸正面には、特設第一聯体(二コ飛行場大隊基幹)と独立歩兵第十二大隊(賀谷支隊と称す)が所在したのみであった。賀谷支隊は精鋭ではあるが歩兵五コ中隊、機関銃一コ中隊、歩兵砲一コ中隊の戦力しかなく、特設第一聯隊は基幹部隊が二コ飛行場大隊で、地上戦闘能力はきわめて低かった。
 特に特設第一聯隊は三月三十日まで、北及び中飛行場の整備、特攻機の発進に協力し、三十日夜から讀谷山地区の陣地配備についたばかりで、米軍上陸時には防禦配備の組織化もできていなかった。聯隊には砲兵力は皆無であった。各飛行場大隊はそれぞれ二十粍機関砲二〜三を装備していた。
 軍としてはこれらの部隊に大きな抵抗は望んでおらず、警戒と前進遅滞を期待した程度で、北、中飛行場付近の戦闘に増援はもとより砲兵による支援も計画していなかった」
 それにしても、その破綻ぶりはあっけなく四月三日頃までには、すべて壊滅した。
 そのなかにあって、独立歩兵第十二大隊(隊長賀谷與吉中佐)は、「当初の本拠は越来国民学校に置かれていたが、三月八日に喜舎場国民学校へ移転した。同隊の守備範囲は、読谷、北谷、越来、美里、具志川、中城、宜野湾などいわゆる中頭地域であった。(中略)
 米軍が中部地域で相対した日本軍ゲリラのほとんどがこの隊の兵であった。
 同隊は、桃原高地、中城高地、普天間付近で果敢に米軍と応戦、約一、〇〇〇名の米軍に損失を与え、自軍の死者は約三〇〇名で、沖縄戦線では珍しく比率が逆になった奮戦ぶりであった」と記している。

 特設第一聯隊の編成と運用

 「特設第一聯隊は第十九航空地区司令官青柳時香中佐(29期)を長として昭和二十年三月二十三日以降次のように編成された。
特設第一聯隊長 青柳時香中佐
聯隊本部(第十九航空地区司令部) 約四五名
第一大隊長 第五十六飛行場大隊長 黒澤巌少佐
 第五十六飛行場大隊 約三七〇名
第五百三特設警備工兵隊 約八〇〇名
第二大隊長 第四十四飛行場大隊長 野崎眞一大尉
 第四十四飛行場大隊 約三九〇名
 第五百四特設警備工兵隊 約八〇〇名
 要塞建築勤務第六中隊 約三〇〇名
 誠第一整備隊
 学生隊(尚(しょう)謙少尉の指揮する県立農林学校生徒隊一七〇名)

 伊江島所在の第五十飛行場大隊、第五百二特設警備工兵隊も特設第一聯隊の編成部隊であったが、伊江島から本島への移転不能となって伊江島で戦闘することとなった」。
 なお、球九一七三部隊(隊長黒澤巌少佐)の戦闘並びに独立歩兵第十二大隊(隊長賀谷與吉中佐)の戦闘及び、昭和二十年五月二十四日の「義烈空挺隊」(指揮官奥山道雄大尉 飛行隊長諏訪部忠一)による北(読谷)飛行場の攻撃等については次を参照されたい。
 『喜名誌』(発行 一九九八年二月一日)第十五章 戦争記録
 『読谷村誌』(発行 昭和四十四年三月三十日)第六章 大東亜戦争

 <参照>
 [表5]戦没者調べ

兵隊
軍人
軍属
準軍属
一般住民
不明
合計
喜名
98
36
40
68
2
244
親志
24
0
1
12
0
37
座喜味
125
38
63
119
2
347
伊良皆
60
14
21
99
0
194
上地
10
3
1
7
0
21
波平
166
59
97
135
2
459
都屋
25
1
7
20
0
53
高志保
83
18
8
154
0
263
渡慶次
67
31
9
110
2
219
儀間
47
14
12
81
0
154
宇座
58
24
38
48
0
168
瀬名波
61
13
10
51
2
137
長浜
85
17
28
128
1
259
楚辺
123
31
47
273
0
474
渡具知
40
12
59
75
1
187
比謝
19
5
1
32
0
57
大湾
39
13
10
79
0
141
古堅
30
12
10
61
0
113
大木
29
17
16
39
1
102
比謝矼
31
12
15
42
1
101
牧原
37
9
1
25
0
72
長田
9
2
5
22
0
38
合計
1266
381
499
1680
14
3840

(読谷村戦没者名簿・村史編集室調査 二〇〇一年三月現在)

 

米軍上陸時における「集団死」(「集団自決」)事件

本村では米軍上陸時に多くの「集団死」事件が起こった。波平のチビチリガマでのそれは有名だが、その他にも楚辺クラガー、長田、クーニー山壕、それに恩納村安冨祖で村民が「集団死」した事件などがある。詳細は本章第三節「集団自決」を参照いただきたい。

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