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2 親志

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 概況

 親志は、廃藩置県後に田舎下りした首里士族の屋取集落から発祥したもので、周囲を山に囲まれた盆地にあった。大木におおわれた山村集落であり、少しの畑と細々とした林業で成り立ち、人々の生活はあまり楽ではなく、本土や南洋諸島に出稼ぎに行った人々もいた。
 「読谷村戦没者名簿」(読谷村史編集室調製)と戦災実態調査票の集計によると、沖縄戦当時の親志の世帯数は五八戸、人口二二九人、戦災による死亡者数は三七人となっている。死亡者の内訳は軍人二五人、住民一二人で、死亡場所は軍人は摩文仁五(現糸満市)、首里二、真壁二(現糸満市)、西原一、読谷一、北谷一、八重山一、本土一、海外九、不明二となっている。住民の死亡場所は、鹿児島の二人の外はほとんど沖縄本島北部である。

 戦時体制下の生活

 太平洋戦争勃発後、戦局の推移によって日々竹槍訓練やバケツリレーでの消火訓練、さらには出征兵士のための千人針作りなど、戦時色が一段と濃厚となった。
 人々は、頻繁に北飛行場建設のための徴用に駆り出され、畑仕事もままならない状況であったが、日本軍への相次ぐ食糧の供出はさらなる食糧事情の悪化を招いた。元々耕地面積があまり広くなく、林間地の細々とした農業であったので、次第にその厳しさは増していった。そのような中で、家族の夕食用に煮ておいた芋などもいつの間にか持っていかれてしまい、悔しい思いをすることもしばしばであった。

 徴兵と徴兵拒否

 沖縄にも徴兵制が適用された初期の頃、日露戦争の頃に浦崎※※は徴兵拒否でハワイに渡り、その後アメリカ本国で一生を閉じた。
 その後は、親志からも応召する兵士が多くなった。出征する兵士は出発の数日前には土帝君(トゥーティークー)を拝み、出発当日は嘉手納の駅まで家族や親戚に見送られた。

 日本軍の駐屯

 守備隊の親志への駐屯は昭和十九年夏頃からであった。当時防衛隊に取られ、監視係をしていた吉山※※(※※・明治四十二年生)の証言によると、本家の大屋※※の瓦家に門脇、山本と呼ばれた将校ら四、五人が寝泊まりし、他の兵隊たちは集落のあちらこちらにテントを張って駐屯していた。
 日本軍の一部は特攻艇の部隊で、昼間は土帝君(トゥーティークー)の後ろの畑で艇の整備や修理をして、夜になるとトラックで北谷の海岸に運んでいた。特攻艇は上から見えないように草や木の枝で覆い偽装してあり、土帝君周辺へは住民を寄せ付けなかった。さらに、当時の県道から東側の集落内のあちらこちらには道路沿いに横穴式の壕を掘り、軍の車両や弾薬を隠してあったが、その数は約四〇か所ほどもあって、その監視が吉山※※の役目であったと言う。防衛隊とはいっても銃はなく、彼が持っていたのは竹槍だけであった。

 十・十空襲

多幸山の道沿にあった日本海軍燃料貯蔵庫壕
 昭和十九年の十・十空襲は、当初ほとんどの親志の人々は日本軍の演習だと思ってながめていたが、すぐに本物の空襲と分かり各家庭の防空壕に避難した。防空壕は屋敷内や自宅近くの空き地に掘られていた。その構造は、松材で入口や天井を支えるような形にしてあり、広さは概ね八畳ぐらいで六、七人は入れた。
 最初、米軍機は低空で伊江島方面から那覇の方面に飛んで行くように見えた。低空だったため星のマークですぐに敵機だと分かった。そして北飛行場や喜名集落が燃え始め、あまりの恐ろしさにほとんどの人々が壕の中に隠れていたため、その詳細を見ている人は少なかった。住民のなかには、崖下の自然の岩穴(鍾乳洞ではなく、大きな岩と岩との間に空間があるような、そんな岩穴)に避難した人々もいた。幸い親志集落への爆弾投下はなく、被害はなかった。
 前述の吉山※※は、家の近くを流れる小川に架けられた橋の下で難を逃れ、この空襲後、家の近くに防空壕を掘ったという。

 山原への避難

 十・十空襲で見せつけられた米軍爆撃のすごさと度重なる日本軍への食糧の供出などで住民の物心両面からの生活不安は高まった。そして十一月頃からはそれぞれの親戚を頼って避難する者が出始め、その後まとまって山原へ避難をするようになった。昭和二十年の年明けには、部落の役員や軍属等の一部の人々を残すだけとなっていた。避難先は、最初恩納村の名嘉真(安富祖の近く)が指定されていたが、そこに行ってみると辺土名に行きなさいということですぐに変更になり、ほとんどの人々が辺土名に避難した。辺土名では周辺の小さな集落の中に入り込んで生活を始めた。しかし米軍上陸が近づくにつれて、辺土名周辺の山の中に五、六〇人が一緒になって、仮小屋をいくつか作り避難した。

 山中の生活

 四月一日の夜は山の上で煌々と光る照明弾の明かりが集中する南の海をながめていた。「あの辺が残波岬だ。米軍が上陸した」とある者は言い、「子ども達、今度こそ命はない、食べ物は美味しい物から全部食べてしまいなさい、残さないで」とあるおじいは言った。その後、しばらくはそのまま辺土名の山の中にいた。食糧も底をついてくると、夜間に近くの集落に降りて畑で芋を掘ったりキャベツや豆などを盗んでくるよりほかに仕方がなかった。最初の頃は、盗みに行ってもどうも上手くいかず、親が付いていって一緒に取り方を教えて貰う者もいた。小屋で待つ家族は照明弾の明かりで見つかって米軍に殺されないかと心配して過ごした。そんな様子を「出ていく人も苦労、小屋にいる人も心労」という言葉で表現した。そして、米軍の山原方面への進撃によって、人々はそれぞれさらに山の中を転々と移動し始めた。

 投降

 腹をすかしてさまよう人々に、いろんな情報が伝わってきた。飛行機から米軍のビラがまかれたが、それには「米軍は民間人は殺さない、食べ物あるからみんな出ておいで」とか、「山原のあちらこちらで民間人が収容されているが、早くこないと配給食糧もなくなるから出てきなさい」といった内容であったという。こうした伝聞は人々の心を揺さぶり、ついに投降するようになった。ある家族は、投降したのは七夕の日であったと記憶している。
 なかには、芋を取りに行こうとして捕虜になった者もいた。いったん捕虜になりながらも、山の中にいる家族を連れてくるからと米軍から食料を貰い、家族のもとへ帰り、そのまま山中を逃げ回った人々もいた。捕虜になったら殺されると信じきっていたところへ、生きて帰ってきたのでびっくりして、本当に殺さないかもしれないと思って投降したという家族もいる。
 昭和二十一年九月現在の親志の人々の分散収容状況は、石川(一〇二人)、宜野座(五一人)、辺土名(三〇人)、漢那(一六人)、コザ(一二人)、田井等(一二人)、中川(九人)の合計二三二人となっている(『村の歩み』読谷村役所発行、一九五七年刊 仲本政公氏提供資料)。

 帰村

 各地の収容所から読谷村に戻ったのは、村内他字の人々同様に帰村が始まる昭和二十一年の秋以降である。波平での共同生活後、喜名方面の開放により現在の共同販売センター辺りに移った。しかし、その地域にはまだ米軍が大勢駐屯しており、安心して生活できる状況ではなかった。その為、大方の字民は願い出て喜名観音堂北側に住宅を建てて再移動し、今日に至っている。かつての集落は、今なお米軍用地(嘉手納弾薬庫地区)内にある。
(小橋川清弘)

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