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4 伊良皆

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 出征兵士の見送り

 昭和十二年、日中戦争が始まったころ、当字から屋号※※の伊波※※(当時二十七歳)、屋号※※の呉屋※※(当時二十九歳)が臨時召集令状を受けて初めて出征兵士として応召した。その頃までは名誉の召集という事で字においては親族や字民・友人達による送別会等が盛んに行われた。当日になると字民総出でヒール毛(モー)で杯をあげて見送り、青年団は出征軍人の氏名入りの幟を揚げて太鼓を叩き、軍歌を歌って嘉手納駅まで見送った。その後は日増しに戦争が悪化し、昭和十七年頃までは出征兵士の見送りも嘉手納駅まではあったが、その後は簡略化され、那覇からの出港も秘密にして一般には知らせなかった。

 戦争体制下の生活

 昭和十三年頃からは戦時体制が強化され、「国家総動員法」が施行された。青年団や婦人会等は出征兵士による家庭の奉仕作業が頻繁に行われた。
 同じ頃、消防団は警防団に組織替えされ、警察署で講習を受けて防空訓練等を行った。初めのうちは「訓練空襲警報発令」と「訓練空襲警報解除」等の発声にたいへん苦労した。当時の村の警防団長は比謝矼の比嘉※※だった。また灯火管制時になると警防団は各字事務所に集合し、二人を自転車で役場に伝令係として送り、残りは字事務所で待機していて、伝令から伝達があれば字中に状況を速やかに知らせることが役目となった。
 たまには防火訓練もあり、防空訓練同様警防団が住民を指導した。その時には各家を回り防火用具の点検等も行なっていた。しかしながら、その後若者は軍隊に召集されるか、あるいは徴用され、いざとなった時はあまり役に立たなかった。

 徴用

 当時は十四歳から四十五歳までが「徴用令」によって徴用された。徴用にもいろいろあり、八重山徴用は飛行場建設で、当字から屋号※※の照屋※※(当時二十四歳)が徴用され、解除になり沖縄本島へ帰る途中、空襲に遭い死亡した。
 県外徴用には※※の上地※※、※※の伊波※※、※※の冨着※※らが行った。三人とも当時十九歳であったが、上地※※、伊波※※の二人は佐世保海軍工廠へ、冨着※※は大阪の軍事工場への徴用であった。他に伊良皆では一般に読谷山村内や屋良飛行場、島尻の小禄大嶺や豊見城辺りまで飛行場建設や壕掘りに徴用された。なかには、空襲が激しくなり、昭和二十年三月末頃夜通し歩いて徴用先から逃げ帰ったという話もある。
 村内での徴用人夫の仕事は、読谷飛行場建設と防空壕掘りが主で、国民学校の五、六年から女性たちも動員され、陣地構築に使う松材の皮を剥ぎ取る作業をした。また、馬車組合が各市町村で組織され、民間の馬車も徴用令で動員された。

 読谷飛行場の建設

 昭和十八年の夏頃から飛行場建設が始まった。その当時は地主にも飛行場が建設されるとは知らされてなかった。初めはあちらこちらに赤い旗が立てられ、何か演習でもあるのかと思っていた矢先、そこに飛行場が作られると聞いて、地域住民が騒ぎ始めた。それから二、三か月して建設工事が始まった。飛行場用地にかかった地主たちは畑や住宅等が接収されたが、親戚友人などに土地を分けて貰い、どうにか字内に留まる人々が多かった。しかし、主要作物の甘蔗も作れなくなり、三〇屯の製糖工場も閉鎖することになった。
 飛行場の工事が始まると、徴用人夫や兵隊が集落内に入り込み、伊良皆の民家には作業人が住み込むようになった。そのため、飲料水が不足して、日常生活にも支障が出るようになった。また、工事の方も人力と馬力で進められていたが、思うようには進行しなかった。そのため、村内の男性や馬車はほとんどが徴用された。
 昭和十九年から飛行機が離着陸したが、飛行機を隠す場所も無く、伊良皆集落内の大きい屋敷五軒(後仲宗根(クシナカジュニ)・後呉屋(クシグヤ)・呉屋筑登小(グヤチクドゥングヮー)・門口(ジョーグチ)・東仲嶺(アガリナカンミ))を防衛隊が壊し、機体待避場に使用した。家の主には補償も無く、家族は山に仮小屋を造り生活した。また、飛行場建設のための奉仕作業とか供出物が多くなり大変だった。

 日本軍の駐屯

 初めは伊良皆の東側の山に三角兵舎があり、球部隊がいた。掟地原(ウチジバル)にも球部隊の高射砲隊が陣地を構築していた。他の場所には山部隊も駐屯したが、兵隊は北海道出身者が多かった。アシビナーには速射砲隊がテントを張っていたが、後に南部に移動した。読谷飛行場の東側、伊良皆の西側には大刀洗陸軍航空廠那覇分廠があって、宿舎や医務室・事務所等があり、軍人や軍属がいっぱいいた。また、屋号前百次(メームンナン)に高射砲隊の炊事場があったが、戦況が悪くなってからは、東山(アガリヤマ)近くの前ヌ川(メーヌカー)という所に炊事場を移動した。その近く屋号仲吉(ナカユシ)という所に経理室があって、中尉・曹長・軍曹がそれぞれ一人ずつと一般兵が二人居た。屋号※※の呉屋※※宅は食糧・衣類倉庫であった。屋号※※の伊波※※宅には炊事の兵隊と手伝いの女性達が徴用されて、毎日玄米を白米にするために米つきをしていた。その女性達は楚辺の人でツルさん・タケさん・シゲさんと呼ばれ、あと一人は大木の人だった。

 供出

 供出は区長を中心に字役員達が徴収に当たった。供出物は主に甘藷・野菜・カンダバー(葛)・卵などであった。また、皮革不足のため豚や山羊の皮も割り当てされた。割当が来た時は各班で豚や山羊等を買って屠殺し、革を供出したこともあった。その以前にはジーファー(簪(かんざし))・学生服のボタン・寺の仏像等金属類の供出もあった。

 日本軍と字民との関わり

 十・十空襲後は伊良皆にはたくさんの兵隊が入り込んで来て、大きな家には兵隊が駐屯し家族は家の片隅で生活していた。住民は兵隊に敬意を表しており大きなトラブルは無かった。だが、兵隊たちは食事が不足がちだったらしく、夕方になると民家に芋を買いにきたり、その民家の家族と一緒に夕飯を食べる者もいた。民間では煙草や石鹸が配給制になっていてなかなか手に入らない時代であった。それで、お礼に煙草や石鹸・地下足袋を持って来る兵士もいた。軍隊内での兵隊同志の階級差別は厳しく、食べ物でも将校達は贅沢で、下級兵は量も少なく粗末な物を食べていたという。伊良皆に駐屯していた兵隊の中には、出征する時に「沖縄の土になって来い」と見送られたというが、「たった二十三歳で死ぬのか」とつぶやいていた兵士もいた。

 慰安所

 伊良皆の屋号松伊波(マチーイファ)に慰安所があった。そこにいた四人の女性たちは那覇市辻から来た尾類小(ジュリグヮー)風で炊事係のおばさんも一緒であった。夕方になると兵隊達が並んでいた。慰安婦の一人は過労と栄養失調で重症だったという。

 県外疎開

 昭和十九年八月、伊良皆から県外に疎開したのは、屋号※※の宮城※※、※※夫妻に※※、※※、※※、※※、※※の子供五人と、屋号※※の松田※※の妻※※と※※、※※の子供二人で、合計二世帯一〇人が宮崎に疎開した。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日朝、東の方から大編隊の飛行機が飛んで来て機銃掃射が始まった。低空飛行していく飛行機の星のマークを見て初めて空襲と分かった。その日飛行場は爆撃され火の海となり、飛行場から日本兵や那覇分廠の軍属等が部落内に逃げ込み大騒動となった。屋敷内の壕は軍民がひしめき座る所もなく立ちっぱなしだった。空襲は部落内にも及んだ。爆弾が落ち、爆風が起こると子供達は泣いた。部落のあちこちに爆弾が落ちると真っ黒い煙が充満し夜のように暗くなった。午後になって少し止んだ。飛行場周辺の民家はほとんど爆破され、那覇分廠の建物は全部焼失していた。
 伊良皆では部落内や近辺の山でたくさんの犠牲者が出ていた。屋号※※の家族四人(母親の松田※※と長女※※、次女※※、三女※※)が爆弾でやられて死んだ。また、那覇分廠の事務員(越来村胡屋出身の女学校を卒業したばかりの女性)も破片でやられて死んだ。その他軍人・軍属でも多くの犠牲者が出た。その夜伊良皆地内二か所で薪や丸太材で火葬した。昭和二十年一月、伊良皆前原辺りに三角兵舎が完成したので、那覇分廠はそこに移った。

 やんばる避難

 十・十空襲後もひっきりなしに空襲があったので昼間は山に逃げ、夜は家に帰るという状態となった。その後、男性はほとんど防衛隊に召集されるようになり、年寄りと女性、子供たちだけが残ったため、出来るだけ国頭に避難することにした。飛行場警備隊では対空部隊と被弾整備隊を残して南部に移動し始めた。伊良皆高射砲隊も十・十空襲で陣地が爆破され、その後南部に移動して兵隊も砲も少なくなっていた。
 そんな中、昭和二十年二月、先発の四、五世帯が荷馬車に荷物や子供達を乗せて避難指定先であった国頭村宇良に向かった。その後も羽地村、恩納村辺りへ避難する人々がいたが、そうした方々ほど大変な苦労をすることになったのである。
 字民や親戚同士助け合って生活しようと山中に仮避難小屋を作り住んでいた。最初のうちは何とか食糧も確保できたが、次第に食べ尽くし栄養不足で子どもたちはやせ細り顔色も青ざめてきた。このままでは死んでしまうと、皆んなで山中を南に向かった。自分の生まれ島に行けばどうにかなるのではないか、そんな思いからであった。山道で迷い一晩中同じ所をさまよい歩くこともあり、お金を出して道案内を頼んだこともあった。疲れはて、極限状態に陥りながら、親戚の人たちや字民と出会い、一緒に山を降り、収容所に向かった。
 伊良皆の人々の収容先は、田井等、久志、宜野座、漢那、金武、石川、越来、前原などで、戦争終結までそこで生活した。字民が多く収容されたのは石川、漢那の収容所であった。

 クーニー山壕での「集団自決」事件

伊良皆東の壕から出てくる老人。このような壕がいくつかあった
 やんばるへ向け避難を始める人々の他に、東の山では個人や隣組の壕掘りが盛んになった。山の壕の中で避難生活を始める家族もあり、また軍が作ってあったクーニー山の壕等に避難した者も多かった。
 クーニー山壕には比謝・大湾・楚辺辺りからも避難していたので、伊良皆からの避難民の全てがクーニー山壕に入れたわけではなく、隣組で掘った壕や佐敷川(サシジャーガー)にあったもう一つの大きな壕などに分散して避難した。
 クーニー山壕に上陸三日前に地元出身の防衛隊員二人が来て「米軍は沖縄に必ず上陸するから早く国頭辺りに避難しなさい。アメリカーが上陸すると住民はたいへんな事になる。どんな意地悪をするかわからない」と話した。そして人々は彼らの話す中国での戦争体験を聞き、心配していた。そこへ四月二日夕方、一人のアメリカ兵が壕の前に現れた。日本語で「デテコイ」と声をかけてから電灯をつけて壕の中に入って来た。すると壕の中にいた防衛隊の一人がそのアメリカ兵を銃で撃った。アメリカ兵は壕の入口で倒れて死んだ。すぐに他のアメリカ兵が来て壕の上から金具のような物を使って死体を引き上げた。重苦しい雰囲気のなか翌四月三日の朝を迎えた。
 手榴弾での「自決」に加わりながら、かすり傷程度で生き残った呉屋※※(当時十五歳)は壕内の様子を次のように語っている。
 朝になったら油の焦げるような臭いがしてきた。後でそれと分かったが、米軍はクーニー山を焼き払っていた。やがて、ガス弾が打ち込まれ、壕内にガスが充満して、あちらこちらから苦しそうな声が聞こえてきた。そして、苦しい思いをして死ぬより外に出て米兵の弾に当たって死んだ方がいいと、外に出ていく者たちも結構いた。母親と弟たち二人も壕から出た。
 しばらくすると、壕の中の防衛隊員が「死にたいのは集まれ」と大声で叫んだ。すると二人の防衛隊員を囲んで幾重にも人が集まった。父と一緒にその輪に加わった。やがて爆発音が壕内に響きわたった。気がついてみると父は死んでいたが、自分は後ろの列だったからか、かすり傷で済んでいた。壕内で亡くなったのは、二人の防衛隊員も含めて一四、五人であったが、伊良皆の人が多かった。先に出ていた弟が迎えにきて外に出た。

 捕らえられた人々は大きな車に乗せられて喜名の元役場の近くに収容された。元の役場は米軍病院になっていた。軍医や衛生兵達が一般住民の傷の治療もしてくれた。そこには一か月くらい居て、その後金武、漢那と収容所を転々と移された。漢那収容所に移された頃からは食糧も配給され、作業もあった。作業に出ると特配が貰えた。

 伊良皆に残った人々

 伊良皆に残って居た人々は四月三日迄には捕らえられた。大きな戦車に乗せられて海辺に向かうので、住民は海に投げ込まれると思って、老人も若者も皆諦めていたという。だが、着いた所は楚辺の収容所だった。そこには思いもよらぬほどたくさんの収容難民がいた。収容された翌日、日本軍機に爆撃され、収容所の難民からも犠牲者が出た。そこには二十日ほどいて、金武や漢那、宜野座の収容所に分散して移された。

 読谷村への復帰

 一九四六年八月頃、読谷山村に帰れるということで読谷山村建設隊が組織されることになり、隊員の割り当てが来た。伊良皆は漢那・石川・越来の三か所から建設隊員を出した。同年末頃から読谷山村への移動が始まり、一九四八年四月頃までに高志保、波平と楚辺、大木の一部に移動完了した。また、一九四六年十一月には伊良皆地域に農耕の許可がおりた。波平から伊良皆までは約三キロの道のりがあり、通勤もたいへんなので農耕小屋や休憩用の小屋を建てたが、米軍からは何ともなかった。一九四九年、グロリア台風(最大風速七〇メートル)が沖縄を直撃し、多くの家が全壊した。字民はこの機会に早く自分の部落で農耕小屋を造る方がいいということで、伊良皆地内に許可なく入り込み、字民の八割程が移り住んでいた。ところが、三か月程して米軍から立ち退くよう命令が下された。移動する場所を求めて再度波平にお願いしたが、波平では本建築が始まっていて無理であった。心配した住民は区民常会を開催して色々話し合い、隣の喜名にお願いして松川原に引っ越し、二か年間喜名で暮らした。その後、一九五一年十一月伊良皆地域に居住許可がおり、一九五二年五月までに全区民が生まれ島に帰って来た。その当時の戸数は一三八戸、人口は七一三人であった(伊波勇一所有の当時の資料より)。それから伊良皆の新しい字づくりが始まった。(伊波勇一)

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