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6 波平

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 概況

 昭和十八年の波平の世帯数は三七八戸、人口は一八九〇人であった(『波平の歩み』)。集落地から南には日本軍の命により構築された北飛行場(現読谷補助飛行場)が見おろせ、特に前原(メーバル)集落は北飛行場に隣接していた。西は広大な農地を隔てて東シナ海に面し、慶良間諸島が見える。
 集落周辺には、シムクガマ、アガリシムクガマ、キジムナーガマなどの鍾乳洞があり、集落から海岸へ向かう途中にチビチリガマ、イングェーガマがあって、空襲時の住民の避難壕となった。しかしながら、米軍上陸直後、チビチリガマでは悲惨な「集団自決」事件も起こっている。

 戦時体制下の生活

 太平洋戦争突入後、昭和十七年頃からは戦時体制下に入り、人的、物的にも不足の状況となり、「生めよ増やせよ」と呼びかけられた。さらに、労働は強制され、指輪、かんざし等金属類はすべて供出されるに至った。波平で、大正八年以来朝五時から夜十時までの一日五回にわたって時を報じた高さ一・二五メートルの時鐘(じしょう)もこの時期に徴発された。
 徴兵検査の年齢も二十一歳から二十歳に繰り下げられ、その後戦争が激しくなってくると、軍の命令で根こそぎ防衛隊として沖縄戦に巻き込まれていった。
 出征兵士の見送りが行われたのは、昭和十八年頃までであった。「赤紙」がくると家族で部落内の拝所(忠魂碑と東門(アガリジョー))や普天間権現を拝んでから応召するのが多かった。その後、戦況がひっ迫してからは、徴兵検査は一緒に受け、召集礼状が来ても現地入隊の時期と場所はそれぞれ別であったので、だいたい四、五人程度がまとまって送り出された。
 日中戦争に突入して以来、「無言の帰還」も相次ぐようになり、婦人会や青年団は多忙を極めた。婦人会は国家総動員法に基づき白いエプロンに「大日本国防婦人会」のタスキを掛け、出征兵士を嘉手納駅まで見送り、逆に戦死者の遺骨を迎え、学校で行われた村葬に参列、さらに食料品の供出、金属類の回収など「戦争協力」の毎日であった。青年団も婦人会同様に兵士の見送りや遺骨を迎え、女子青年は日本軍の炊事要員として徴用され、さらに昭和十九年からは警防団の任務を負わされるなど、生活がまるごと戦争への歩みを刻むことになった。

 国頭避難と供出

 昭和十九年になると国頭に避難するようにという島田知事からの命令が出て字内では大騒ぎとなった。その時の区長は上地※※で警防団長は比嘉※※であったが、日本軍からの要請に基づき、野菜や芋、豚、大根などの供出物資の調達処理に忙殺され、字事務所は毎日ごった返していたため、国頭避難の問題はうやむやになったようである。
 供出は隣組の輪番制で行われた。字内に二四の隣組があり、供出物資の調達は隣組長が行い字事務所に届けた。字事務所には供出された野菜や芋などが山積みされていたが、軍がそれを馬車で引き取りにまわるという状況であった。

 読谷飛行場の建設

 波平では、日本軍兵士は昭和十八年から駐屯するようになった。当初は読谷飛行場の建設を主な目的としており、アサギのある大きな家などが兵舎代わりとなった。その後昭和十九年頃からは山部隊も駐屯するようになった。日本軍のいた家(屋号)は、松根(マーチンニー)、西名城(イリナーグスク)、蒲恩納(カマーウンナ)、野波(ヌーファ)、真志知花(マシチバナ)のメーヌヤーなどであった。東倉根(アガリクランニー)には獣医とその世話役として伍長と兵長二人がいた。この獣医は野砲牽引(けんいん)などで使役していた北海道馬の管理のためだった。玉城(タマグスク)には他の市町村から徴用された人夫が多くいた。その外にも沖縄中から多くの作業員が動員され滞在していた。字のカミアサギには大きな松の木があってそこには対空監視哨が造られ、見張りに立つ兵士の姿がみられた。
 飛行場の建設本部は、伊良皆と喜名の境界あたりの三角兵舎にあった。北飛行場の建設工事は、陸軍航空本部と国場組の契約により、球九一七三部隊(第五十六飛行場大隊 黒澤巌少佐)の指揮下に進められた。工事の概要は、先ず第一滑走路(南北約二〇〇〇メートル)から始まり、その後に北東から南西に走るほぼ同じ長さの第二滑走路の順に進められた。作業内容は南側の岩盤地域を爆破してトロッコや馬車で石を運びでこぼこのある大地を大型のローラーで地均(じなら)しするといったことが主なものであった。滑走路には石を敷き詰めて、その合間に小石を敷いて造られた。飛行場の中心部から北側の部分は土が混じっていた。その土を掘りだし、上から石材を投入するという作業中に、波平の上地という人が土砂の下敷きになって亡くなるという事故もあった。その人の葬式は国場組が執り行った。

 住民と日本兵との関係

 波平には北海道出身の兵士が多かった。住民から軍への供出物資の中には普段あまり住民の食卓に上がらない卵も含まれるほどで、住民は兵隊さんを大事にしていたし、子ども達も三角兵舎に遊びに行ったり、飛行機に乗せて貰うなど、極めて良好であった。また、新兵は食事の量が少なかったのか、住民の所にきては食べ物を分けてもらったりした。その場合でも、他の兵士に見られないように配慮するほどであった。

 献粟

献穀粟御播種式の乙女たち(昭和14年)
 昭和十四年(一九三九)に、屋号※※の宮里※※は昭和天皇に粟を献納した。彼は篤農家で且つ以前九年間(明治三十五年から四十四年)も耕作(区長)を勤め、字民の信望の厚い人格者であったことから、沖縄県でただ一人の献納粟作りに選ばれたという。
 畑は端から約四尺内側にいれ、六〇坪程を区切り、山原竹で竹壁をたてて囲み、縄を張りめぐらして、聖地と一目でわかるようにし厳重に管理された。粟の種まきは波平の女性一二名が選ばれ、あねさんかぶりに絣の着物にダテまきを締め、足袋わらじをはき、手甲をはめ、たすきがけの清楚な早乙女姿で行われた。その後、草取り、間引き等五、六回にわたって同じ服装で作業をした。
 刈り取りも乙女たちがやり、刈り取った粟は男子青年団員が抱えて運んだ。その粟の穂を手もみにして、更に粟を一粒一粒えらんで切枡五合をえり出すのに一八人が一日がかりで取り組んだ。
 献納する粟は白布の袋に入れ、桐の小箱につめられ天皇陛下に献上された。その外に波の上宮、野國総管宮、世持神社にも奉納された。天皇陛下に献上するために宮里※※、比嘉幸太郎(村長)、宮里※※(※※の五男)の三人が上京した。
 種まきの際に歌われたのが「粟まきの歌」で、「ヨラテコヨラテコ」というお囃子の部分は今でも口ずさむことができる人が多い。


 警防団と戦時訓練

 警防団を組織していたのは青年団であった。警防団の一番の役目は、戦時訓練を実施することであった。防空訓練では、まず「訓練警戒警報発令」となると鐘が鳴り、あるいはサイレンも鳴らし、次いで「訓練空襲警報発令」となると住民は自家製の防空壕に入る。また夜の「訓練警戒警報発令」となると、ランプの明かりが漏れないように黒い布でカバーし、防空頭巾をかぶって静かにする。消火訓練ではバケツリレーや火たたきなども行った。そのほかに実際に空襲で焼けた家の消火に当たったり、米軍の動静や戦況を知るため役場に行ったり、海岸線から敵が上陸して来ないかと監視に出たりした。
 しかし、沖縄戦が近づいてくると青年団は数が少なくなり、生徒までも動員されるようになった。

 十・十空襲

 昭和十九年十月十日の大空襲は、誰もが最初は日本軍の訓練・演習だと思っていた。この大空襲は、現実に自分達の住んでいるところに戦争がやってきたことを実感させるに余りあった。ここでは何名かの個人的体験を通して十・十空襲を綴ることにした。

 知花※※(昭和四年生・屋号 ※※)
 それ以前までは、日本はすべて勝ち戦だと、みんな信じ込まされていた。その日の朝、隣の蒲前宇座(カマーメーウジャ)のガジマルの木に登って「大規模演習」を見ていた。空襲というのを体験したこともないので、自分の頭の上を、今まで見たことのない星の形のマークを付けた飛行機が爆弾を落としながらやってきたことに、何が何だか分からなくなった。でもあっちこっちで煙が出て、本物の空襲だと気づいたとたんに木を降りて屋敷内に掘ってあった防空壕に入った。でも蒲前宇座(カマーメーウジャ)のすぐ近くに焼夷弾が落ちて、家が燃えその火が自分の家にも燃え移り、煙がもうもうとしてきたので、家族と一緒にシムクガマに逃げた。

 比嘉※※(昭和三年生・屋号 ※※)
 私の場合は、学校を卒業して飛行場作りに従事していたんです。その日はちょうど八時頃ですが、私はその日に限って朝寝坊してしまって飛行場作りには行かなかったんです。それで畑に行こうと、堆肥を桶三杯分家の門に出して、馬に鞍を掛けようとしたら、うちの前は全部飛行場だから、喜名と伊良皆の境あたりから飛行機が降下してくるのが見えました。最初は伊良皆の北の三角兵舎の所に爆弾を落として、それから飛行場に駐機していた戦闘機を爆破してうちの家の真上を飛んで行った。見たら星のマークだし、すぐに両親に「空襲だよ、空襲だよ」と叫んで自分達で掘った防空壕に入った。結局その日は一日中その中に隠れていました。でも、飛行場のすぐそばだから、地面は揺れるし、恐怖心でいっぱいだった。次の空襲からはシムクガマに避難するようにしました。でも、終戦後も家の防空壕は残っていました。

 幸喜※※(昭和五年生・屋号 ※※)
 僕は飛行場の建設作業に出ていたので、ちょうど飛行場の真ん中あたりにいました。僕らの監督者が天久※※さんだったんです。彼は、「支那事変」にも行って空襲のことには詳しいもんだから、「これは日本のものじゃない、アメリカのものだからよく見ておきなさい」と言われた。自分達のいる周辺には爆弾は落ちてこない、大丈夫という感じなんです。それで十時半ぐらいまでその場でただ見ていました。すると今度は、「人をめがけてくるよ、あっちから飛行機が来るときには、こちら側の岩蔭に、逆の時には向こう側の岩蔭に隠れなさい」とおっしゃる。それから空襲の合間を見て楚辺通信所(ハンザタワー)の所まで逃げてきた。五、六人一緒だった。
 この空襲で、シムクガマの上にあった共同製糖工場が爆破された。その工場は日本軍が米の貯蔵倉庫として使用していたが、大方の米も焼けてしまった。

 知花※※(昭和四年生・屋号 ※※)
 私は航空隊員たちの飯あげ(炊事係)をやっていた。伊良皆の北の三角兵舎のところに航空兵の宿舎や炊事場もあったから、その日も朝五時半に起きて歩いて向かった。私が第一滑走路のそばにある物見台のところを通ると、日本軍の飛行機が一機飛んで来て、通信筒(情報が書き込まれたもの)を一つ落とした。物見台にいる兵隊はそれを取って隊長にみせたが、サイレンも何もならないし、何でもないと思ってそのまま炊事場に行って、ご飯を取ろうとしたらすぐにパラパラとやってきた。第一滑走路の東側は航空兵の宿舎だから、まずそこをめがけて爆弾を落として、私はあわてて伊良皆の集落内に走って壕を捜して逃げ込んだ。
 十時頃になって少し止んだから、今の役場(新庁舎)のあたりに海軍の参謀達がいたから、そこまで駆けて行ってみたら、今日はもういいから、ご飯を食べて早く家に帰りなさいと言われて、それでご飯を食べて座喜味の高射砲部隊のところを抜けて家に帰った。家に帰ってみると、どうも飛行場だけに爆弾を落としてるから、ヒジャ(屋号・比嘉)のガジマルの木に登って見ていた。白い土煙がどんどん舞い上がった。とにかく、最初は日本の飛行機が飛んで来て、何かを落として、そのあとで空襲が始まった。

 比嘉※※(昭和五年生・屋号 ※※)
 僕はずっと馬車ムッチャーで飛行場の仕事をしていたから、その日も仕事に出ようと馬に鞍掛けて準備をしていた。そうするといきなりパラパラと来るもんだから、鞍をはずして馬を中に入れようとしていた。でも、鶏にも弾があたって死んでいるし、バケツにも穴がいっぱい空いているし、生きた心地はしなかった。馬を入れたり、なんやかんやしてから屋敷内の壕に入ったら、すぐに一メートル程離れたところに二つの爆弾が落ちた。その防空壕は、上部に簡単なかぶせものをしてある程度だったが、それが落ちて真っ黒い煙に包まれた。周辺が見えない状況だったので、「死んでいるのか生きているのか」と声を掛け合ったのが二回あった。防空壕は狭められて、壁がくっついたようになっていた。

 字民が避難したガマ

 十・十空襲以降も断続的に空襲があった。アメリカ軍の破壊力を見せつけられた住民は、その多くが字内に散在する自然の鍾乳洞に避難するようになった。住民が避難したのは、シムクガマ、アガリシムクガマ、キジムナーガマ、チビチリガマ、イングェーガマである。中でもシムクガマは入り口の広さ、奥行きともに最大で、米軍上陸当時約一〇〇〇人が避難しており、一部の家財家具も運び込まれていて、その中での避難生活が数か月におよんだ人々もいた。
 避難した人々の数は、アガリシムクに約二〇人、キジムナーガマに約二〇人、チビチリガマに約一四〇人、イングェーガマが約三〇人、シムクガマも合わせると約一二〇〇名が北部への避難もせず字内に留まっている。そのことについては、何名かの証言を紹介することにする。

 知花※※(昭和九年生・屋号 ※※)
 僕たちは艦砲射撃がものすごい頃、チビチリガマに日本兵が来て米軍は西海岸から上陸するから早く避難しなさい、敵は友軍が一里以内ではくい止めるからと言われ、その日の夕方家族全員でチビチリガマから山原へと向かって出てきた。家族の様子は、病気の父を母と姉がモッコゥで担ぎ、私(十一歳)が四歳の弟を背負ってヤナギゴウリを持ち、妹(九歳)が、生まれたばかりの末の妹(三か月)を背負って風呂敷包みを持ち、弟(七歳)が薬ケースと風呂敷包みを持って、といった出で立ちであった。
 チビチリガマから東へ向かい傾斜を登りきり、現在の県道近くまで来たとき、敵艦から艦砲射撃が始まった。ものすごい轟音とともに砲弾が我々の頭上をかすめ、全員が「ウリヒャー」といって岩蔭に飛び込んだ。それでも少しずつ前へ進もうと歩き出すが遅々として進まず困り果てていた。その時軍隊帰りの父は、「シムクガマに行けば誰かがいるはず」と言うので、私たちはそこへ向かった。夕闇の迫る頃で行く先々の道も穴ぼこだらけでつまずきながら歩いた。
 シムクガマに着いたら多くの人と親戚が居てほっとしたが、ガマの入り口付近では、山原に避難する人々が行き来していた。私たちも叔父に山田辺りまでは馬車で連れて行けると言われ、母は準備をしたが父が米軍が上陸してきたら何処に居ても同じ、敢えて山原まで行くことはないということで、シムクガマに入って、そこで終戦を迎えた。

 知花※※(昭和四年生・屋号 ※※)
 ハワイ帰りのおじいにこう言われましたよ。土の中から石油もガソリンも水のように湧き出てくるところと戦いくさして勝つわけないよ。それで、疎開しなさいと言われても、沖縄は小さい島だから何処に逃げても同じ。自分達がここで死ぬなら、それが運命だから、それでいい。それでシムクガマから動かなかった。

 知花※※(昭和八年生・屋号 ※※)
 避難しなさいということはあった。僕たちも母親と一緒に行くことにしていた。ところが、おじいがダメだと。家族が分かれ分かれになって、どちらか一方が生きたり、死んだりしてはおもしろくない。死ぬなら一緒で、ということでシムクガマから動かなかった。

 波平の人々が山原へあまり避難しなかったのは、シムクガマをはじめ強固な自然の鍾乳洞があって、艦砲射撃等から身を守ることが出来たこと、十・十空襲で焼けた共同製糖工場に残った日本軍の米が食糧となったことだと思う。そこにいた人々は、いくつかの証言でも明らかなように、死ぬならしかたないが、でも生きたいんだという意思があり、現に生き抜いてきたことは見逃せない。しかしながら同じ波平で、チビチリガマでの悲惨な「集団自決」事件も起こっている。

 米軍上陸

 三月三十一日深夜に比嘉※※、幸喜※※、上地※※の三人は、昼間機銃で殺(や)られた馬の肉を警防団の食糧にしようと思いシムクガマを出た。帰り際、米軍の照明弾がピカッと光り、続いて艦砲弾が飛んできた。転がり込むようにガマの中に入った。
 明け方になって、ガマの上を戦車が轟音をたてて通り過ぎた。アメリカ軍の先遣隊は既に上陸していて、自分たちが歩き回っているのを見られていたことに初めて気づいた。朝六時頃、警防団員の天久※※は、チビチリガマにいる家族が気がかりでシムクガマの上に出てみて、あわててガマに戻ってきた。日本の兵隊じゃないアメリカ軍が上陸しているんだ、と大変な騒ぎになった。見ると海上は米軍の艦船でいっぱいであった。そして、突然戦車砲弾が入り口で炸裂した。東之当(アガリントー)のおじい、新里小(シンザトゥグヮー)の親子、それに一緒に肉を取りに行った上地※※の四人が死んだ。
 四月一日午後になって、アメリカ兵はシムクガマにやってきた。ハワイ帰りの比嘉※※は同じハワイ帰りで英語が話せる比嘉※※を呼び寄せた。米兵は「英語が出来るか」「日本兵はいるか」と尋ねた。※※は「日本兵はいない」。米兵「どれくらいいるか」、※※「約千名だ」。こんな会話が交わされた。米兵は住民に発砲することはなかった。みんなが出るまで約一時間ぐらいかかった。外に出てみると戦車や機関銃がガマの入り口めがけて狙っていた。これで自分達も殺されると、多くの人が思った。出てきた全員は、東倉根(アガリクランニー)の畑に集められ、その後最初の難民収容所となった都屋に連行された。米軍が水陸両用車を持ってきて、子供や年寄りに乗るように勧めるが、海に捨てられるものと思い、なかなか乗ろうとはしなかった。
 都屋のトゥクブサーには一週間ほどいた。その後人々は楚辺、渡慶次、瀬名波から長浜などの別々の経路をたどりながら、最終的には石川、コザ、漢那、宜野座、金武などの収容所に落ちついた。
 キジムナーガマにいた五、六世帯の人々は、シムクガマの人々がアメリカーに引っ張られて行ったよ、ということでその日のうちに山原に避難しようとして、親志あたりで亡くなった人もいた。
 また、米軍上陸直前に村内にいた日本軍が撤退するということで、残した食糧(乾パン、野菜、缶詰類等)をシムクガマの人々は運んで来ていたので、長浜あたりに避難していた人までシムクガマに行けば食糧があるという情報があって、米軍の上陸した朝、シムクガマに向かって来る途中で波平の倉元(クラムトゥ)の家族が殺られてしまったということもあった。

 戦後復興と平和の塔建設へ

家々はほとんど吹き飛ばされ、屋敷囲いだけが残った波平
 読谷村の戦後復興の初めは波平と高志保の一部地域であった。波平の人々にとって、自分の屋敷だから自分達が住めるようにという要求など出来るはずもなかった。とにかく村民みんなが生き残ったことを大事にして、村を復興しよう、そんな思いであった。波平には村内南部の字の人たちが規格住宅に住むようになり、その後楚辺大木地域の一部開放でその人々の一部が移動して行った。昭和二十五年(一九五〇)最後まで残った都屋の人々が自字へ戻ったが、その後も役場所在地となり、村政の中心地となった。波平は、こうした戦後の読谷村再建の基礎をつくるという大任を果たした部落でもある。
 次第に落ちつきを取り戻してくると慰霊の塔再建の話しが持ち上がった。今日の「平和の塔」の前身は昭和三年(一九二八)に国威宣揚の目的を持って、国へ忠義を尽くし尊い生命を失った軍人の魂を祀る為に建立された忠魂碑であった。その忠魂碑も沖縄戦で戦禍を被り痛々しい姿になっていた。そこで昭和二十六年(一九五一)十一月二十四日の区民常会で、当時の青年会代表、大城※※、大城※※、その他幹部の主唱によって忌まわしい戦争の犠牲になられた諸氏の慰霊の為の塔を建設するとの提案が満場一致で承認された。そして同年十二月九日から青年団員が総動員で建設作業に取りかかり十二月三十日に総工費二万二二〇八円で完成した。除幕式は翌昭和二十七年(一九五二)一月二十日に執り行われ、塔名は知花英康翁が応募された「平和の塔」と命名された。その後、今日まで字民総出で慰霊祭が行われるとともに永遠に平和を祈念する塔として大切にされている。(小橋川清弘)

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