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1 戦時下の公務員の職務遂行

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 役場職員

 昭和十三年四月以降の国家総動員体制の強化拡大は地方行政の機能を一層硬直化させ、さらに大政翼賛運動と隣保組織の確立で、国、県、市町村、隣保班(隣組)の上意下達の機構を昭和十六年までに完成させ「二市五郡に一万を突破する隣組が結成され」た。(『読谷村史』第二巻資料編1 戦前新聞集成下、三三九頁参照)。
 沖縄県では、昭和十七年七月一日に島尻、中頭、国頭に地方事務所を開設し、翼賛運動の推進を図った。その後昭和十九年に沖縄守備軍第三十二軍が編成され、各部隊の駐屯が始まると、地方事務所では傘下の市町村共々に食糧供出、飛行場建設、陣地構築などへの労務動員が主たる任務となった。
 戦前の読谷山村役場の様子は、「門前には老松がそびえ四周は大きなふくぎの木に囲まれ、歴史の重みを感じさせる豪壮さがあった。道に面した門柱には片側に『読谷山役場』他の片側には『読谷山村農会』と分厚い板に墨痕鮮やかに描(ママ)かれた標札が吊され、その門を入ると庁舎との間には大きな広場があった。この広場では原山勝負や在郷軍人の集まりなどいろいろな村の集会が催された」(『喜名誌』一八四頁)という。
 当時の三役は、村長の知花清、助役の伊波俊昭、収入役の山城亀吉である。組織としては、庶務・会計・兵事・戸籍・勧業・援護・国務・県税・労務の各主任の下に、馬匹(ばひつ)・戸籍・税務・兵事・庶務・証明の各係りの書記、技手(農業、林業)、使丁・給仕の職が置かれていた。その他に、国民健康保険組合・保健婦・銃後奉公会等の諸機関があった。昭和十九年の役場職員は約二九人で諸機関等の職員六人を加えても総勢三五人にすぎない。
図−1 昭和十九年頃の読谷山村役場内配置図(町田宗美氏作成)

 労務主任は、北飛行場の建設に伴って「徴用」等の仕事と他村から徴用された人々の宿舎造りや寝泊まり先の世話に当たった。飛行場建設の主体は、請け負った民間の国場組であった。また、労働一般に関する徴用に対応するため、区長を通して労務動態調査を行わしめ、村民には「国民労務手帳」を発行し、県などからの要請に応じた。
「国民労務手帳」(表紙)昭和十八年三月十六日 中頭国民職業指導所長交付・波平※※氏(座喜味)所有
 昭和十九年になると、役場周辺はにわかに戦時色を帯びるようになり、役場の会議室が軍に使われるようになる。それと同時に徴用が始まる。その頃の役場周辺の様子を『喜名誌』からみると、「沖縄守備軍が配備され、喜名周辺にぞくぞくと兵隊が入ってきたのは昭和十九年六月頃であった」「山部隊、球部隊、石部隊、山根部隊(海軍)、巌部隊(海軍)、風部隊、誠部隊などがあり、その枝葉の隊である中村隊、小針隊、藤井隊などたくさんの部隊が駐屯していた」。「喜名メーバルには高射砲陣地が築かれ」、その場所は「観音堂の西隣り、現在の公民館から四百メートルくらいの中原、イリバルの金城小の近く、ウスクドーの下、東のサーターヤーの東隣り」(以上三四七頁)であった。さらに「いつの間にか民家の庭も弾薬置き場」に変わり、「学校や役場、村の事務所などの公共施設はもちろん、民家も兵隊の宿舎になっていた。座喜味にあった読谷山国民学校は飛行場用地になったため、現在の喜名小学校敷地に移っていた。飛行場建設のために強制立ち退きされたということもあって赤瓦葺きの、木の香も新しい立派な校舎が出来ていた。しかし建つのを待っていたように、そこも兵隊の宿舎になった。この校舎だけでも二百名ぐらいの兵隊が入っていた」(三四八頁)のである。
 こうした守備軍の駐屯に伴って、各部落の婦人会を中心に食料品(芋・大豆・もやし・野菜・卵・味噌・馬草(まぐさ)等)を調達し、各部隊に分けるという仕事が始まっている。中でも卵が少なく、特攻隊員用の特別食として大事にされた。後には、部落を指定して調達するようになった。十・十空襲後は、金具類は県庁へ部隊の車で搬入するようになり、牛や山羊の皮等は、区長会を通して村長が直に受け取りに行っていたようである。また、十・十空襲で焼け出された那覇方面からの避難民に対して、役場職員は総動員されて、婦人会の炊き出したおにぎりを配り回った。米は「非常米」として役場で蓄えてあった分を使った。
 昭和二十年二月島田知事の「老婦女子に対する避難命令」を受けて、村行政としての避難事業が始まる。当初、大宜味村を村民避難指定地としていたが、調査の結果、村長は同地が海岸線に立地し、万一戦場と化した場合不利であるとの判断から国頭村に変更している。村は、国頭村奥間に読谷山村仮役場を設置し、比地から与那そして辺土名辺りに部落単位に集団避難地を指定した。例えば、高志保は奥間、座喜味は辺土名、渡慶次は桃原、比謝矼は比地、渡具知は与那というぐあいである(本書第二章一節、各字別避難指定地一覧表、八四頁参照)。当初は役場の職員が引率して避難を始めた。避難小屋も国頭村民の奉仕で作られた。各避難部落では、区長をおいて、地元部落との緊密な連携を図り、食糧の配給や村民の保護に万全を期している。特に、援護課では、読谷山村民の疎開中継地点の恩納村安富祖国民学校へ渡久山※※氏を世話人として出張を命じて、避難民の安全保護を図っている。
 『国頭村史』によれば、当初約六、三九〇人の読谷村民が避難する計画であったとされている(一九六七年三月発行・五四一頁)。
 兵事主任(係)は、召集令状が来ると該当者に配達し、本人を激励した。特に新兵の場合は現地入隊のため那覇までの引率もした。そして戦死者のための村葬の準備とその執行の任にも当たった。時局が切迫するにつれ、頻繁に来る召集令状に兵事係だけでは対応できなくなり、各字から吏員を雇い、受付・確認・配達まで行わせるようになるが、それでも、兵事主任は司令部への電話連絡や電報やらで多忙をきわめた。その頃、男子は召集され、女子がお国の奉公として役場で働くようにもなった。
 『読谷村史』第二巻 資料編1 戦前新聞集成(下)から日中戦争勃発後、読谷山村出身者の「名誉の戦死」に類する表現で当時の新聞に掲載された人々を見ると、琉球新報・昭和十四年六月二日の「読谷山 砲上 比嘉※※」が最初である。続いて同紙・昭和十四年七月八日には、名誉の戦病死による金鵄勲章授与者として「功七旭八 読谷山 歩上 大城※※」と「同 同 輜上 山内※※」の名が見える。沖縄日報・昭和十四年八月二日には、合同慰霊祭の一員に「読谷山村 騎上 島袋※※」と見え、同紙・昭和十四年九月十二日には、余栄に輝く英霊として「旭八 読谷山 輜上 與儀※※」とある。新聞紙上で初めて村葬、「読谷山葬」として載ったのは、琉球新報・昭和十四年十月二十九日の「歩兵伍長知花※※、同上等兵比嘉※※」で、最後は、沖縄日報・昭和十四年十二月四日の「歩伍山内※※」となっている。その後は「合同葬」「戦没者」「英霊」などとして戦死者の氏名がたまに見える。昭和十五年以降は、戦死者の増加や戦況の悪化でこうした記事が次第に掲載されなくなったと考えられる。そのことの裏を返せば、役場職員が村葬の準備等で煩雑を極めていたという状況だったことを物語るものであろう。

 当時の役場職員の仕事内容をもっと詳しく前掲の「読谷村史研究資料」から見ることにしよう。まず召集令状に関しては、事前に行われた徴兵検査に基づいた「徴兵名簿」が県にあり、召集者の氏名が書かれた召集令状が県から役場に届く。まず何時何分に誰に対する召集令状が来たと受付し、村内在住かどうかを確認する。在住者の分はすぐに配達し、本土などの在外者には電報を打つ。当時は、「出寄留簿」と呼ばれるものがあり、出稼ぎや徴用で村を出ていく者は住所を役場に届ける義務があったので、それから住所を探して電報を打ったのである。逆に他の市町村から村内に寄留する人々には、「寄留届」が義務づけられ、戸籍簿とは別に「寄留簿」が整備されていた。
 実際に徴兵検査に関しても、受験する壮丁(そうてい)に対して、沖縄連隊区本部は新聞を通して、「徴兵検査を受けるに当つて先づ受験者各自が戸籍を整備し寄留地にをる者は寄留届を速かに手続きすること幹部候補生志願者は検査当日志願に関する一切の書類を整備持参すること」(毎日新聞、昭和十八年三月七日)と注意を喚起している。コピー機はないので全部手書きであり、戸籍係は他の職員に応援を頼んで必死に間に合わせた。徴兵や出征以外での戸籍謄本等の発行を村民から要請されても後日回しにすることが度々あった。
 また、召集令状を持っていくと、「ワッターチネーヤチャーナイガヤー(うちの家族はどうなるんだろう)」とその家の人に泣かれるのが辛くて、一緒に泣いたり、中には男兄弟が全部召集され、残った末の男の子への令状だと持っていくのが本当に辛かった。一方では村葬の準備をしながら、こちらでは出征兵士の送り出しと、本当に複雑な思いがあった。
比嘉幸太郎第7代村長(1934〜41年・2列目中央)と村役場吏員・村会議員・区長の皆さん
 戸籍主任(係)は、出生届けや家督相続届け寄留届等の日課に加えて、兵隊に行くにも徴用に行くにも兵事係と連動していて、前述のように謄本や抄本を一日何十枚も書くという作業に追われていた。
 証明主事では、印鑑証明や身分証明などの仕事があり、特に戦時下に本土から子供を呼び寄せるための嘘の証明等が出てきて、それを調査することもあった。
 税務関係では、村税の場合は会計主任が担当し、議員や部落担当職員が調査して賦課し、徴税した。その他に県税や国税もあった。税の種類として、自転車税や屠畜税、そして酌婦税という特殊な税もあった。特記すべき事項としては、日本軍による北飛行場用地の接収では県の税務署と調整が頻繁で、税務主任は多忙を極めた。ということは、接収された分は税金が免除となるため、軍から接収地の報告があるとすぐに手続きをしなければならなかったのである。また、天野少尉や将校達がやって来て、図面を広げての地主確認や、説明会を開催するための通知なども役場が出した。
 戦況がさしせまってくると、頻繁にくる召集にも拘わらず、役場職員には召集免除という特典があり、さらに防毒マスクや地下足袋、戦闘帽や鉄兜なども戦闘員として特別扱いで配給された。全員が地下足袋を履き、非常袋を常に携帯し、名札も付けていた。灯火管制や防火訓練等の指導者的立場にあった警防団にも、国民服が支給されていた。また、役場職員は海軍部隊主催の演芸会に招待されたこともあった。部隊には国内各地からいろんな人が来ており、演芸が上手な人が舞台を盛り上げ、とても賑やかで、ご馳走も沢山あった。また、慰問演芸会については村が主催したものもあり、昭和十九年十二月二十六日付、沖縄新報紙に「読谷山村では二十五日同村で皇軍慰問演芸大会を開催、村民が郷土の舞踊を熱演して兵隊さんのさゝやかな一日を慰めた」(前掲『読谷村史』、四〇七頁)と見える。
 銃後奉公会には、県から出征した第一線勇士を慰問するための慰問袋作りの割り当てがあり、各字婦人会などと協力して作り、そして送った。
 使丁は、昭和十八年頃から毎日午後には交代で村内二一か字を自転車で回り、状況を調査するのが日課になっていた。そして、空襲警報や警戒警報が発令されると、各部落の伝令に連絡し、櫓(やぐら)に登ってサイレンを鳴らした。
 兵士や翼賛会の人々を歓待する酒と山羊料理は頻繁にあるかと思えば、事務用品としての紙は金庫に保管されていて、会計主任(収入役代理)が鍵を開けない限り使えないほどの逼迫(ひっぱく)した状況であった。
 役場業務は、最後まで役場の事務室で行い、空襲があるときは防空壕に避難した。村長は、三月二十八日前後に村民に避難命令を告げて、役場業務も停止して、職員はそれぞれ国頭などへ避難した。

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