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1 戦時下の公務員の職務遂行

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 警察官

 沖縄における警察の歴史は、明治十二年七月二十七日の那覇分署、首里分署の設置に始まり、後に県庁の組織体制の整備により県知事の下に警察部が置かれた。大正十五年七月一日に郡役所が廃止されると、通常の治安維持、経済取締り等の警察業務に加え兵事事務中の召集徴発動員事務が警察部に移管され、徴兵業務を行うようになった。昭和十二年七月七日の廬溝橋事件を契機として、兵事事務はいよいよ重要性を加えてきた。昭和十三年四月一日公布の「国家総動員法」により、国の全力を挙げて戦争目的を遂行するとして労務、物資、資金、施設、事業、物価、新聞、出版物などあらゆる部門にわたって命令によって広範かつ強力な制限をなし得るようになり、警察官の職務もまさに軍の作戦行動を支援するための業務へと変わっていった。
 昭和十八年十一月現在、県内には那覇警察署、与那原警察署、糸満警察署、首里警察署、嘉手納警察署、名護警察署、渡久地警察署、宮古島警察署、八重山島警察署の九署があった。
 嘉手納警察署の管轄区域は中頭郡北谷村・読谷山村・越来村・美里村・具志川村・勝連村・与那城村で、読谷山村内には三つの駐在所があった。喜名巡査駐在所の受持区画は喜名・座喜味の一部・伊良皆の一部・波平・上地で、渡慶次巡査駐在所は渡慶次・儀間・宇座・瀬名波・高志保・長浜を、楚辺巡査駐在所は楚辺・古堅・渡具知・伊良皆の一部・座喜味の一部を受け持った。
 昭和十七年から戦争で避難するまで、嘉手納署で情報係として勤務し、字大湾に住んでいた諸見里※※の聞き取り調査から当時の様子を紹介しよう。
 当時の嘉手納署員は約三〇人程で、昭和十六年頃から、特別高等警察として諜報を任務とする特高係が設置された。昭和十八・十九年頃は、情報係として各村を回っていろいろな情報を集めて中央や県に報告するのが彼らの任務であった。どこどこで火の手が上がったとの情報から、村議や村長選挙の情報判断や流言蜚語(りゅうげんひご)(デマ)、「南方の戦況が悪い」等に関する情報の調査、村遊びの許可や夜間の鐘などの鳴り物の取り締まりも行った。他に警防係もいた。
 十・十空襲では、嘉手納署も被害を受けた。その後、警察署員の家族の避難が始まった。警察部輸送課から車の世話を受けて移動したが、国頭方面と南部方面に分けられ、家族だけの避難は大きな不安であった。任務は中飛行場や製糖工場が爆撃された昭和二十年三月二十九日頃まで続けた。日常業務は、情報集めに防空演習、警戒警報のサイレンを鳴らす仕事や、電話で署から各駐在そして役場の警防団に連絡するなど、緊迫する中で多忙を極めた。署には、電気もなくカーバイトランプを使っていた。
 当時警察官であった比謝出身の佐久本※※(二十四歳)は、宜野座村古知屋に避難し、そこで米軍に収容されて終戦を迎えた。彼によると、元警察官ということで民間人と軍人、沖縄人と大和人の区別をする役目を担わされたという。
 ちなみに読谷山村出身の警察官は戦災実態調査票の集計によると三人となっている。
 『昭和十八年日報綴 楚邊駐在所』から、当時の駐在所業務の一端を見ることにしよう(旧漢字は新漢字に改めた)。
 五月一日の「兵事の部」には、「所在不明者捜索手配に関する件 左の通り渡久地署長より通報有る其の持区内再度手配せらるべし」として「本籍国頭郡今帰仁村字湧川□□□ 戸主□□長男 □□□□大正一二年□月□日生 徴用工員なるも一時帰省所在不明となる」とあり、捜索依頼があったことを示している。「徴兵処分未済者所在不明捜査手配」等の人身捜査依頼は随所に見られることから、徴用や徴兵等から逃避した者が少なからず居たことを示している。
 五月八日の「衛生の部」には、「伝染病予防法及結核予防法並癩予防法に依る医師届出に関する件」のなかで、「大東亜戦下国策としての人的資源確保の要切なるに鑑み政府」は「国民優生法」を公布して、「量質共に健全なる国民確保」を期しつつあるのに、医師が報告を怠っているので、「届出義務履行」を督励し、開業医に法の趣旨を知らしめて、それでも違反のある者(医師)は検挙に努めよとの示達がある。同日の「文書督促の件」には、「一、昭和十八年四月十二日付 海外帰朝者等調査に関する件 未報告者 喜名 渡慶次 第四区 桑江 胡屋 宇久田」、「二、昭和十八年四月八日付 嘉特秘二二二号 米英音楽蓄音機レコード一斉取締実施に関する件 未報告者 第四区 喜名 渡慶次 桑江 胡屋 宇久田 東恩納」とあり、いずれも時代を反映している。
 六月五日の「徴用工員逃走犯手配に関する件」には、大村第二十一海軍航空隊所属で「朝鮮忠清南道」出身の二人の徴用工員が「共謀の上逃走」したので「厳重手配」せよとあり、朝鮮半島出身者が沖縄に来ていたことが分かる。
 六月八日の「特高の部」には、牛乳配達をしていた読谷山村字渡慶次の□□□□(十三歳)□□□□(十一歳)が六月七日午前五時半頃「高志保と渡慶次の中間の石粉採掘場付近」でスパイ容疑者を見たとの申告があるので手配するとの内容が記されている。容疑者は「人相 半ズボン 靴 背高 色白 年齢三十四歳位 本県語を使用す 特徴 蚊に刺された痕跡身体中にあり」となっている。
 六月十五日では、「軍人軍属に対する酒類時間外販売取締に関する件」として、従来制服の軍人に限り例外的取扱をしていたが、「特別の場合を除き爾今一般国民の一員として軍人を特別待遇することなく販売時間外に於ける酒類の販売を厳禁する」旨、西部第四一一三部隊長より通牒があった、としている。同日の後半には、「荷馬車運送業組合結成も終り愈々本格的報国軌道に乗りつつある事同慶の至りに有」と見え、このころには各地に荷馬車組合が結成されていたことを知ることが出来る。
 七月十九日には、「密屠殺の取締強化に関する件」として「近時密屠殺業者の動向巧妙を極め常習者等に於いては之が取締の緩急を慮り昼間に於いて為す等或は定例召集等を見計ひ為して屠肉も午後八時以後に於て戸別訪問の方法に依り為す」といった状況であり、「徹底的払拭」の必要があり、取締り検挙に尚一層尽力せよ、となっている。

 今一度県警察部と嘉手納署の動きに戻ると、県警察部では米軍の沖縄本島上陸必至の状況で、警察部を「警察警備隊」に改編した。任務は、直接軍の作戦体制を補完するため、住民の避難誘導、スパイ取締り、弾薬運送の労働力提供などが主なものであったが、次第に守備軍と共に南部への移動を余儀なくされ、遂に昭和二十年六月九日に荒井警察部長により解散命令が出され、警察行政は崩壊した。
 嘉手納警察署は、米軍の上陸前空襲が激化する昭和二十年三月末、美里村西原在の美里駐在所に移動し、四月一日の米軍上陸の報を聞いて北部への移動を決定した。経路は具志川の平良川壕から石川を経て金武、そこから名護署との合流を目指し名護に向かうが既に名護署員はカニ川(当時の羽地村伊差川)に移動しており、そこで合流した。しかし、食糧不足から分散配置となり、座波署長以下数人が残り、他は渡久地署などへ向かったが、解散命令もなく戦火の中、自然に体制は崩壊していった(『沖縄県警察史』第二巻・昭和前編、平成五年三月二十二日発刊、四〇頁及び六二三頁参照)。

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