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1 戦時下の公務員の職務遂行

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 警防団

 警防団は、警察官と最も関わりが深く、常に行動を共にした。全国的には昭和十四年一月二十五日の勅令第二〇号「警防団令」に基づき、同年四月一日を期して、従前の消防組と防護団を発展的に解消して新たに警防団を発足させることになった。ところが、沖縄では既に昭和十三年に那覇市で設立されていた。
 「警防団本来の業務は消火・防火にあったが、青壮年をもって組織された団はそのまま戦時下の国家総動員体制の一環として防空業務に携った」(前掲『沖縄県警察史』、五二六頁)のである。
 読谷山村警防団の前身は、昭和十二年に結成された嘉手納署所管の消防団である。古堅尋常高等小学校区内を管轄する小規模のもので、消火防火を目的とした。それが昭和十四年になると、名称も読谷山村警防団となり、本部も役場に置かれた。消防団の組頭であった比嘉※※が初代団長(非常勤)に、副組頭の比嘉※※が副団長に就任した。下部組織として、第一、第二分団が古堅校区(第一第二分団長、砂辺※※)、第三分団が読谷山校区(分団長、山城※※)、第四分団が渡慶次校区(分団長、山内※※)が置かれ、役場の係として上地※※が当たった。
 昭和十八年になると、いよいよ戦況は逼迫し各字に対空監視所も設置された。当時の態勢を「警防団に関する調査」(昭和十八年)からみると、団長一、副団長一、分団長四、部長八、警防団員数三四二、計三五六、ポンプ一台となっている(前掲書、五三四頁)。具体的な活動としては、各字毎に防空訓練や消火訓練を行った。
 防空訓練では嘉手納署で発せられた「訓練空襲警報発令」や「訓練空襲警報解除」の報を各字に伝え、訓練を見届け嘉手納署に報告するなどといったことが任務であった。
 消火訓練は、バケツリレーによる訓練が主なものであったが、戦意昂揚につながるとして頻繁に行われた。しかし、徴兵、徴用により青壮年が抜けてくると次第に弱体化していった。そして昭和二十年になると「空襲警報発令」「空襲警報解除」がサイレンや銅鑼(ドラ)などで知らされた。空襲が激しくなると同時に、監視活動も続けられ、数少ない団員は伝令としての役割なども担うようになるが、米軍の上陸前空襲が始まった頃からは山原避難などで、こうした活動も自然消滅していった。

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