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1 戦時下の公務員の職務遂行

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 区長

 区長は字の運営全般と伝統的祭事関係を総理する役目で、それぞれの字で選挙や推薦などの方法で選ばれ、当時の村議会にあたる村会での承認を得て職務に就いた。戦前の新聞での「読谷山村会招集」の記事は、昭和十四年九月七日付『琉球新報』が最後であるが、「区長辞任承認」が附議されている。その後、戦況悪化で青壮年の多くが出征し、区長の選任が難しくなり、さらに戦時行政体制に移っていく中で自然消滅的に「承認事項」ではなくなったと考えられるが、一般的には公務員に準ずる職務であり、村行政の一端を担って役場との関係は深かった。
 字事務所が区長や書記らの職場であるが、「昭和に入ってからは末端行政の事務量も増え、特に戦時体制に入ってからは、防衛隊、徴用、供出など、本来の行政事務以外の仕事に追いまくられたと言う。沖縄戦直前に村の書記をしていた又吉※※氏の話では、近くに駐屯する各部隊から供出を要求する将校がとぎれることなく事務所を訪れ、ほとんどその対応が仕事だった」(『喜名誌』、三二頁。村とは字喜名のこと)という。
 当時厚生省は、国民を徴用するため「国民労務手帳」を発行し、労務管理に勤めた。その労務管理も、各字毎に区長が行う労務動態調査に基づいて、役場で徴用の段取りをつけたものであった。
 また、楚辺では「飛行場建設が始まってからは、村役場の仕事も軍の命令で飛行場建設労務者、荷馬車の徴用・調達と食糧物資の供出等に終始した。字楚辺においても村役場からの割当人夫と荷馬車の確保や、軍への食糧供出(甘蔗・豆類・野菜等)に追われる毎日であった。又、読谷山に駐屯している兵隊の宿舎にも民家が使用されるようになり、宿舎の確保も区長の責務であった、さらに、飛行場建設に県内各地から徴用されて来た人夫や、荷馬車等の宿舎と炊き出しも字の仕事として行われ、字行政の大半が軍事協力に費やされた」(『楚辺誌』民俗編、字楚辺公民館一九九九年六月発行、五九頁)状況であった。守備軍が駐屯したその他の字でも事態はおおむね似たものであった。
比嘉※※氏(昭和16年1月〜19年8月まで区長代理・区長)の功績に対する字楚辺自治会からの感謝状。この4日後に比嘉家は率先垂範して宮崎へ疎開
 いよいよ米軍上陸の直前、波平区の区長であった上地※※は、最後まで集落内を見回った。
 楚辺の場合は、昭和十九年九月に現職が本土疎開し空席となり、急きょ区長に選任されたのが上地※※であったが、補佐としての区長代理も召集され、孤軍奮闘した様子が家族の手記から窺える(「広報よみたん」、第四三二号、平成七年十一月五日)。区民が避難していた三つの壕での世話から、最後の強制避難命令を巡査と共に区民に言い渡すまでしっかりと務めを果たしている。そして、避難地から下山するときも、読谷山村の警防団長比嘉※※の指示により、家族と共に最後に下山するという行動を取っている。
 比謝矼区長の比嘉※※は、昭和二十年二月頃から、国頭村へ避難する人々を引率している。同じ頃、渡慶次区長の玉城※※は、役場からの疎開指定先である国頭村桃原へ渡慶次からの第一陣として家族を疎開させ、自らは守備軍からの農産物や畜産物の供出要請等の対応に奔走した。その後、三月二十五日には区民に区長として最後の避難命令を伝達し、避難を渋る一部の人々を説得し、最後までその責務を果たした。そして山原に避難し家族と合流した。四月中旬、国頭村桃原の山中で食糧がなくなると、桃原の区長の許可を得て、桃原のお寺に保管されていた避難民用の米を危険を冒して運び上げ、皆に分配している(字概況「渡慶次」の項、一六九頁参照)。
 こうして各字の区長たちが、それぞれの職責を全うできたのは彼ら自身の責任感と共に、彼らを補佐した字の役員やわずかに残った警防団や婦人会、字民の全面的な協力のお陰であり、そこにも共同体としての字の姿があったのである。

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