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2 女性たちの戦争体験

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 女性たちは如何にして戦争体制へ組み込まれていったか

 まず全国の女性団体の代表「婦人会」の歴史をみることにしよう。戦前の婦人会は、いくつもの団体が同時期に存在しており、最終的には一九四二年(昭和十七)に「大日本婦人会」として統合されるが、その複雑な変遷から始める。

 愛国婦人会

 最初に組織されたのは「愛国婦人会」である。一九〇一年(明治三十四)三月二日に奥村五百子(いほこ)の提唱により、華族夫人たちが発起人となり東京で結成された。前年に起こった「北支事変」の日本軍人慰問のため、奥村が中国に出かけた際、出征軍人の惨憺たる状況や苦労を目撃し、兵士の慰問、遺家族の救護の必要を感じたことが直接の動機とされている。ここに、内務省のバックアップと、軍部指導の婦人会が初めてできたのである。
 同年三月末、愛国婦人会初代会長に岩倉久子(岩倉具定公爵夫人)が就任し、組織拡大のため陸軍大臣の勧告で各陸軍将官夫人に入会を呼びかけてもらい、内務大臣名で、郡区市町村長に対して会員拡張に協力するよう、府県知事あて文書を通達してもらった。国家を挙げての勧誘を図った結果、会員は発足の年の末に一三、〇〇〇人余りだったのが、二年後には四五、〇〇〇人あまりになり、会費等の収入は設立当初の約八倍にのぼった。
 発足から二年後一九〇三年、皇妃を総裁に迎えて、あくまでも上流階級の夫人たちで組織する会であったが、一九〇四年(明治三十七)二月十日に日露戦争が勃発したため、会員を一般婦人にまで拡大し、勧誘にのりだした。その結果会員は、二六八、〇〇〇人あまりになり、慰問袋作り、兵士送迎等、軍国主義と戦争に協力する活動を開始した。
 沖縄県内でもこの年、愛国婦人会沖縄県支部が発会した。後述するが一九二五年(大正十四)には、読谷山村字渡慶次からも二人の女性が加入した記録がある。このことからこの間、継続して勧誘活動が行われていたことを窺わせている。

 大日本連合婦人会

 愛国婦人会の後に、文部省主唱で新たな婦人会組織が芽を出した。
 一九三〇年(昭和五)十二月二十三日、田中文部大臣は「国運の進展、思想善導のため家庭教育振興・家庭生活改善を中心とした新たな婦人団体の創設を意図」し、同日文部次官が「婦人団体の設置及び活動に関する件」を通牒し、婦人団体(母の会、婦人会、主婦会、母姉会竝同窓会等を統合した連合会)を組織するよう示達するのである。
 一九三一年(昭和六)三月六日、地域婦人会など全国六、〇〇〇余りの婦人団体を一つに統合した文部省後援の大日本連合婦人会が結成された。
 通達文書から当時の婦人団体として、「母の会」「婦人会」「主婦会」「母姉会」といったものがあったことがわかるが、大日本連合婦人会は、結局のところ家庭教育の振興を名目に、戦争遂行体制への家庭婦人の動員がねらいであった。つまり、国の軍事・経済政策との抱き合わせで結成されたものであった。

 大日本国防婦人会

読谷山村、大日本国防婦人会の幹部(戦前昭和期)
 沖縄戦の体験談を聞き取る際に最も頻繁に婦人団体として話者から出てくるのが、「国防婦人会」である。
 「国防」と名の付くとおり、直接「国防」を与(あずか)る陸海軍省がバックアップしたもので、一九三二年(昭和七)三月十八日の大阪国防婦人会の結成をきっかけに、同年十月二十四日、東京の国防婦人会が結成された。これが実質的な大日本国防婦人会の結成となり、台所と直結したイメージの白のエプロン(割烹着)を制服に、「大日本国防婦人会」のタスキをかけた勇ましい女性団体が誕生した。

 『大日本国防婦人会十年史』によれば国防婦人会の目的は、
世界に比なき日本婦徳を基とし益々之を顕揚し悪風と不良思想に染まず国防の堅き礎となり強き銃後の力となりませう
心身共に健全に子女を養育して皇国の御用に立てませう
台所を整へ如何なる非常時に際しても家庭より弱音を挙げない様に致しませう
国防の第一線に立つ方々を慰め、其の後顧の憂を除きませう
母や姉妹同様の心を以て軍人及傷痍軍人竝に其の遺族、家族の御世話を致しませう
一旦緩急の場合慌てず迷はぬやう常に用意を致しませう

というものであった。

 「男は国外の〈前線〉に、女は国内の〈銃後〉に―。侵略戦争のための総力戦のなかで、これまで〈家〉の内と外に分けられていた性別役割分業は、その規模を、一挙に国家大にまで拡大したのだ」(加納実紀代著『女たちの〈銃後〉』六七頁)。

 会員は当初、満十六歳以上二十五歳以下の未婚の女性で一年分の会費六〇銭を前納した「処女会員」と、二十五歳以上もしくは既婚者で一年分の会費一円二〇銭を前納した「正会員」などからなり、一九三八年(昭和十三)には会員数が約七九三万人にのぼった。
一九三九年(昭和十四)には、年齢制限をなくしたことや戦時色が濃くなった社会情勢なども相まって、一九四〇年(昭和十五)には九〇五万人余りに膨れ上がっている。
 各地域で組織された国防婦人会は「分会」として活動することになるが、その役割は、
一、

国防婦人会分会は傷痍軍人及遺家族を囲繞し、世話係の依頼又は其の指示を受け、母性愛に依る軟かき内面的の主として教化慰憮に任ず。
 (囲繞(いじょう)=かこいめぐらすこと)
 (慰憮(いぶ)=慰めいたわること)

二、
在郷軍人分会(又は班)は国防婦人会と緊密に連携し、其の周囲に男性的強硬なる外郭となり、主として強化警戒に任ず。
三、
憲兵及警官は傷痍軍人及遺家族に対する不逞の策謀を警戒す。
 (不逞(ふてい)=不平を抱き、従順でないこと)
 (『大日本国防婦人会十年史』三一頁)

 「つまり、反戦、厭戦思想の発生地になりやすい傷病兵や遺家族を監視するのに、警察や憲兵といったむき出しの権力ではカドが立つ。当たりのやわらかい女たちをクッションにして抑え込もうというわけだ」(加納前掲書七三頁)。
 国防婦人会は、「国防思想の普及徹底」をはかりながら、出征軍人・傷痍軍人の家族や戦死者遺家族の慰問、救護活動を行い、また出征軍人の慰問、送迎に駆けつけるなどの事業を開始した。さらに「銃後の女の役割」として、戦場で消費される「物的資源」を確保するための「経済戦の戦士」にされ、生産現場にも動員されることになるが、沖縄ではさらに「風俗改良」の推進など、他府県とはまた別の役割もあった。
 こうして、女性たちは前線に赴いた男性たちとは性格は異なるものの、日本の侵略戦争に加担していくのであるが、国防婦人会にはもう一つ別の意味から重要な役割があった。それは、出征兵士の後顧の憂いの最たるものは、残してきた妻が貞操上の過ちを起こさないかということであり、国防婦人会の目的「母や姉妹同様の心を以て軍人及傷痍軍人竝に其の遺族、家族の御世話を致しませう」のなかで軍人家族の「御世話」は、特に妻の品行を監視することでもあったという。「一九三八年、神戸国防婦人会では、軍の要請により、軍人遺家族、とくに出征兵士の妻の『保護善導』に関して各分会に指令を発した。皇軍兵士の妻が、いやしくも品行上の疑いを受けることがないように有効適切な措置を、しかも秘密裡に実施せよ、というものであった」(加納前掲書七三頁)ということからも、そのことを窺い知ることが出来る。
 国防婦人会は、「国防の第一線に立つ方々を慰め、其の後顧の憂を除きませう」という目的に沿い「後顧の憂い」を除去することに懸命になったが、「銃後に貞淑な妻、前線に性欲処理の『現地妻』―この二つがあってこそ、男たちの戦意は昂揚させ得る―。その意味でも、国防婦人会は、侵略戦争における女の役割を、もっとも典型的に果たしたといえるだろう」(加納前掲書七六頁)と言わしめるほどの役割を果たしたことになる。なお、「現地妻」すなわち「慰安婦」については後述する。

 大日本婦人会へ統合

 地方の三つの婦人団体が組織の枠を超えて活動しているのに対して、中央の婦人団体はテリトリー争いを含め対立を続けていた。そこで一九四一年(昭和十六)六月十日、二十歳以上の女性全員参加を意図した「婦人団体統合要綱」が閣議決定され、翌年二月二日、「大日本婦人会」が結成された。そして翌日には、それまでの三つの婦人団体が解散した。

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