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2 女性たちの戦争体験

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 沖縄県内の「婦人会」の変遷と動向

 全国的な動きと連動して、沖縄でも婦人会組織の変遷があった。年代を追って見ることにする。

 愛国婦人会沖縄支部

愛国婦人会「通常会員」会員証書(儀間公民館提供)
 内務省と軍部指導のもとに一九〇一年(明治三十四)に結成された愛国婦人会の沖縄支部は、奈良原繁沖縄県知事が顧問を務め、管子知事夫人が支部長を、後に知事に就任する日比重明氏の松子夫人が副長となって、一九〇四年(明治三十七)三月二十五日に発会した(那覇市内南陽館、六七七人参加。兼第一回総会)。
 当時の沖縄はその前月に勃発した日露戦争への対応のため、沖縄からも男たちが出征しなければならないというせっぱ詰まった事態を迎えており、急いで結成した感を免れないが、役員の顔ぶれをみると、すべて他県出身の役人夫人で、いかに官製の婦人会であったかを窺い知ることができる。
 戦場の男たちを、留守を預かる女性たちが精神的に支えることをねらいとしたものであったが、一般女性たちには愛国婦人会への関心はほとんどなかったと思われる。と言うのは、役員を県上級官吏婦人など他県出身者が占めたことも一因したが、この年の沖縄では地租条例と国税徴収法が施行されたため、県民は私有財産を得ることができるようになり、納税主体が村単位の物納から個人単位の金銭納に変わるという、歴史的大変革のあった年にあり、さらに大旱ばつに襲われたことなどが、その原因と考えられている。したがって、沖縄支部がどのように会員を拡大し、具体的に行動していったか詳(つまび)らかではない。ただ、新聞から読谷山村に関する記事を拾ってみると、

琉球新報 明治四十年十月六日
 愛国婦人会定期救護金贈与人名(一)
 金六円読谷山間切波平村六七 比嘉※※
大阪毎日新聞 昭和十一年三月十日
 節婦三人/輝く事績
 既報、去る二日の愛国婦人会沖縄支部記念祝賀会で表 彰された節婦三名の事績は左の通り。
 中頭郡読谷山村字儀間(ママ) 山城※※(六二)
 (注・座喜味 山城※※が正しい。二九五頁参照)

 「若年にして山城家に嫁したるも不幸にして廿五歳の時夫と死別し、また舅はわが子の死を苦にして遂に病床に親しむ身となつたゝめ家計はいよゝゝ不如意となり困憊その極に達した。そこで一大決心をもつて家運挽回を期し家業に精励した結果、家計は漸次順調に赴きなほその間舅姑への孝養、子女の養育を怠らずかつ貞節を完うして世人に範を示した。」

とあり、率先垂範した人々に援護金を与えたり、表彰するなどして女性たちを鼓舞したことがわかる。なお、明治四十年で六円の救援金はどの程度のものであろうか。昭和七、八年頃の男性の住み込み働きで、一月六円から七円程度(渡慶次婦人会八十周年記念誌、一四八頁)ということからすると、かなりの多額であることがわかる。

 沖縄県内での独自の婦人会組織の結成

 全国的に、内務省系列の愛国婦人会の動きとは別組織の地域婦人会が各地で結成されるようになっていた。
 県内でも町村単位で婦人会が結成されたが、これらは直接戦争と結びついたものではなく、地元有力者の講演、農事奨励会、品評会などに参加するといったものであった。その時代背景を見ることにする。
 一九一四年(大正三)第一次大戦が始まり、交戦国に代わって未曾有の好景気を呈した日本だったが、終戦後の交戦国の経済復興により、商品の販売市場を失ったり、過剰生産によって深刻な恐慌に見舞われることになる。一時は回復するものの、一九二三年(大正十二)の関東大震災、一九二七年(昭和二)の金融恐慌、一九二九年(昭和四)の世界大恐慌などが相次ぎ、日本は慢性的な不況に突入していった。
 当時の沖縄の経済・社会状況は、第一次大戦後の特需を得た最好景気で、大正八、九年は糖価の高騰で県民が景気に陶酔したほどであった。ところが、ヨーロッパ市場が第一次大戦の被害から立ち直ったことで、大正九年の秋から沖縄の糖価は暴落を続け、慢性的不況へと突入した。
そして昭和初期には、「ソテツ地獄」という言葉を生み出すほどに県経済は最悪の事態を迎えた。
 一九三二年(昭和七)この窮状を打開するため、沖縄県では港湾、道路、橋梁の整備、産業の合理化、金融の円滑化を図ることなどを盛り込んだ「沖縄県振興計画」を立案し、その実現をめざして、翌年から一五年間、国の援助を求めるという要請を日本政府に提出した。
折しも日本は、「満州事変」がおきた一九三一年(昭和六)から景気回復策として巨額の軍事費を投入し、軍需産業・重化学工業の発達によって翌年秋頃から不況脱出のきざしが見えてきていた。さらに、一九三二年から三四年までの三年間、失業農民に就労の機会を与える名目で道路建設、河川改修、港湾改良などの公共事業を行う一方で、「農山漁村経済更生計画」を実施して農民の自力更生を図ろうとしていた。つまり、戦争準備を着々と進める日本政府にとって、国民の窮乏状態が続いては戦争政策を遂行できないため、わずかばかりの救済費とひきかえに、「精神作興」と「自力更生」のスローガンを押しつけてきたのである。沖縄が要請した「振興計画」も、この「自力更生」とひきかえに承認された。
 一九三二年(昭和七)十一月十八日、美里村美東小学校区で美東学区婦人会が結成され、二十五歳以上六十歳以下の婦人約四〇〇名が集まって発会式が行われた。「国民精神の発揚、自力更生の高潮、家庭生活の合理化、社会公共に奉仕」することを申し合わせた。
 一九三三年(昭和八)一月十七日には那覇市で各学区ごとにつくられた婦人会を統合した那覇市連合婦人会が組織された。「吾々は婦人の本分を守り国民精神の涵養に努め和衷協同家庭社会の改善向上に協力せん事を期す」と宣言した。
 しかし、この頃の県民生活の破綻は、婦人会の努力だけではどうにもならないところまできていた。
 そこで一九三四年(昭和九)三月三日、県下の婦人団体を統合した沖縄県連合婦人会を結成した。その当時の婦人会は、那覇市一〇、首里市一、島尻郡二二、中頭郡一三、国頭郡一〇、宮古郡三、八重山郡六の合計六五団体にのぼっていた。この動きは、一九三一年(昭和六)に結成された文部省主唱の大日本連合婦人会の動きに呼応したものであったと考えることも出来るが、すでに十五年戦争に突入した日本は、対中侵略に狂奔しており、県当局は「振興計画」を盾に、「銃後」の安定策として生活改善を中心とした物心両面の「自力更生」を県内の婦人会に押しつけてきたものであった。

 大日本国防婦人会沖縄本部の結成

 戦前の婦人会の代名詞といえば「国防婦人会」である。しかし、沖縄にはその設立の経緯や内容に関する資料がほとんど見当たらないという。不十分ながら戦時下での活動を綴ってみることにしよう。
 沖縄で初めて国防婦人会が結成されたのは、大宜味村だといわれている。「大阪朝日新聞」(鹿児島、沖縄版)によれば、「沖縄の婦人が非常時に目覚めて昭和八年大宜味村国防婦人会の組織をトップにその後県下各町村に分会が結成されすでに会員数三萬を突破」(昭和十二年二月二十日)とある。これがおそらく唯一の地域における国防婦人会に関する記録ではなかろうか。
 「六月廿七日 午后一時学区域ノ男女青年団婦人会ノ総会ヲ開催シ左記ノ件ヲ協議ス 1、義勇軍中隊ノ編成 2、国防婦人会喜如嘉班ノ設置 3、婦人分会ノ設置 4、連合青年団ノ設置」(大宜味村喜如嘉小学校『沿革史』)
 なぜ大宜味村が国防婦人会結成の嚆矢となったのだろうか。
「満州事変」後の国内で相次ぐ事件に対して行われた思想弾圧の潮流のなかで、とくに喜如嘉に多い共産主義者を排撃するために、「健全ナル修養団体ノ必要」性から、昭和八年、青年訓練所の増設とともに村国防婦人会が設立されたものであり、その結果「主義者ノ跡ヲ絶ツニ至レリ」(沖縄連隊区司令官・石井虎雄「沖縄防備対策」『月刊 流動』所収 八九頁)とあり、思想対策を目的に作らされたものと思われる。
 その後、県内各地で国防婦人会が結成され、「会員数が三萬を突破」したので大日本国防婦人会沖縄本部の発会式を行う、という記事に接するのが、前出の一九三七年(昭和十二)二月二十日なのである。
 大日本国防婦人会沖縄本部の発足式は、一九三七年(昭和十二)三月六日午前十一時、那覇市の昭和会館で催された。
 白エプロンの制服に白たすきをかけた四、〇〇〇人余りの各地区代表者が出席し、会長に沖縄連隊区司令官夫人・古思※※が就任した。
 総本部→師管本部→地方本部(連隊区がある所)→支部(郡市区)→分会(町村、学校等)という組織系統が明確になった。沖縄は熊本師管本部の下に位置づけられ、事務所は那覇市内の連隊区司令部に置かれることになった。
 同年七月七日(上記発足式から四月後)、日中戦争へ突入すると、戦争体制の整備をはかる必要性から、政府は「国民精神総動員運動」の実施を打ち出し、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」をそのスローガンとした。
 この運動の具体的な内容は、神社参拝、皇居遙拝、国旗掲揚、消費節約、鉄屑収集、出征兵士の家族慰問等であったが、沖縄ではさらに「標準語励行」「風俗改良」にも重点が置かれた。その中心的役割を担ったのが婦人会で、この年の十二月から、国防婦人会ではさっそく琉髪のジーファー(かんざし)を全廃したり、和装奨励などの運動を開始した。

 活発化する国防婦人会活動

 この婦人会活動がとくに目立って活発になるのは、翌年の一九三八年(昭和十三)四月一日に「国家総動員法」が公布されて後のことである。
 「国家総動員法」は「勅令により議会の承認なしに戦争に必要な人的、物的資源を政府の全面統制下におくことを認めた白紙委任立法である」。総動員物資とは、兵器、艦艇、弾薬その他の軍用物資、国家総動員上必要な被服、食糧、飲料及び飼料、医薬品、医療機械器具その他の衛生用物資及び家畜衛生用物資に、船舶、航空機、車両、馬その他の輸送物資、通信用物資、土木建築用物資及び照明用物資、燃料及び電力、上記のものの生産、修理、配給又は保存に要する原料、材料、機械器具、装置その他の物資とされる。つまりあらゆる物資が該当する。
 また国家総動員上必要な場合は、人的資源として国民を徴用し、労働条件を規制したりすることも可能であった(『戦争と平和の事典』高文研、四二頁参照)。
 日中戦争後の沖縄は、生活費の高騰などで「太陽のない人々」と称される赤貧世帯が激増していた。一九三八年(昭和十三)三月の県社会課の調査で、前年の三月と比較して一、七八六世帯の貧困者が増え、そのなかで四五世帯が死亡者を出している。(琉球新報、昭和十四年十一月三日)
 それだけに女性たちに求められたのは、戦時生活の刷新、消費の節約、貯蓄の励行、生産の拡充に努めることであった。そして男性労働力の不足を補うため、那覇市では港に接岸した船での貨物の積み下ろしを行う仲士業として、あるいは若狭町の漆器職人、壷屋の陶工として女性たちが「進出」するのである。
 国家総動員戦のなかで、国民は政府=軍部の掌中で戦争へのレールの上をしっかり歩まされていた。
 そして、沖縄の婦人会の役割として、出征兵士の送迎、戦没軍人の墓参、傷痍軍人・出征軍人及び遺家族の慰問、傷痍軍人の嫁さがしなどを行う一方で、慰問袋作り、千人針、さらに戦地の朗報にミチズネー(地域内のパレード行進)や提灯行列を行うという、戦時色の生活にどっぷりつかっていった。
 遺家族の世話については女学生の動員もあった。夏期休暇を利用して女学生が「義勇託児所」の保母となり、出征兵士の子どもを預かるというもので、県内の各部落単位で託児所が設けられた。この「託児所」は一九三二年(昭和七)に「農繁期託児所」としてはじめて小禄など農村に設置され、二月中旬から三月中旬までの一か月間、県からの補助金によって運営された。この時期は、「振興計画」のもと、自力更生運動が盛んに行なわれていた頃で、行政のバックアップによって生産農家の効率を高めるねらいがあった。地元の女学生が三歳くらいから八歳くらいまでの子ども達を、夏期休暇の一週間ほど、午前八時から午後六時頃まで世話した。(実際は出征兵士の家の子どもたちだけではなく、普通の家庭の子どもたちも預かり、生産力の向上に寄与する目的をもっていた。)母親たちが子どもを預けて食糧生産に従事せざるを得ない状況にあったと考えていいだろう。
 また、沖縄では「風俗改良」が叫ばれ、「紀元二六〇〇年」といわれた昭和十五年をピークに、沖縄の特殊性をヤマト風に改めようと、服装の改良や沖縄独特の名前の改名が行われた。たとえば、「ウタ」「カメ」「ナベ」が「昭子」「好子」「苗子」という具合である。さらに「標準語励行」「豚便所の改良」「洗骨廃止」なども掲げられるが、かけ声だけで終わったものもある。いずれにせよ、独自の生活習慣、文化を否定することで精神的にも日本人になる努力を続けていたのである。

 婦人会組織の統合へ=大日本婦人会沖縄県支部の結成

 沖縄でも、一九四二年(昭和十七)六月二十六日、早川※※沖縄県知事夫人を会長に、一〇万人の会員を擁する「大日本婦人会(日婦)沖縄県支部」が誕生した。県支部では、銃後強化の運動として国防訓練、軍事援助事業にますます力を入れることにした。
 こうした中で、沖縄の「ヤマト化」は一層強まり、それまでの迷信打破の運動が一九四三年(昭和十八)の「一村一社建立」が義務づけられたことで、さらに強力に押し進められ、沖縄の従来の信仰を否定するかたちで、天皇制と直結した国家神道の導入が実現した。一九四四年(昭和十九)の日本軍の駐屯によって、沖縄の女性たちはこれまでの「銃後の務め」から軍隊同様に「戦陣訓」を受け入れ、やがて訪れる地上戦では前線にまで駆り出されるのである。
 新聞から関連記事を拾ってみると、

大阪毎日新聞 昭和十七年八月二十五日
 日婦支部結成大半終る
 今月中に全町村完了へ
 日本婦道の実践体であり婦人の国民組織ともいふべき日婦県支部は結成以来郡市町村支部組織の指導促進に当つていたが、七月までに結成を完了し陣容を整備確立した。〈中略〉
 〔日婦郡市町村支部陣容〕(括弧内は会員数)△宜野湾村(二、四〇〇)比嘉※※△北谷村(洩れ)宮城※※△読谷山村(四、九三三)棚原※※△美里村(二、三〇〇)石川※※△勝連村(一、四五八)松井※※△西原村(五九〇)翁長※※〈他町村略〉

とある。それにしても中頭郡内では読谷山が圧倒的に多い。これは、村内の婦人団体が統一へ活発に動いた証と見ることもできる。
 また、思想統制や「ヤマト化」を進めるために「婦人母姉学校」をつくり強力に推進した様子を次の記事で見ることができる。

毎日新聞 昭和十九年六月十日
 発足する婦人母姉学校
 成人教育にと六十校区を指定
県ではさきに開催して県下学校長会で決定、各校単位に指導実施中の婦人母姉成人教育会をさらに強化するため県下六十校を指定し婦人学校として再出発させるがこれら学校を中心に庁郡市地方事務所社会教育地方指導員、思想対策地方員、日婦などの協力のもとに積極的に乗出すが、指導上の注意を左の通り各関係国民学校長あて示達した。〈中略〉
なほ今回の指定校は左の通り。
 △中頭郡(十四校区)古堅校区、読谷山校区

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