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2 女性たちの戦争体験

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 読谷山村内の婦人会組織の推移

 読谷山村内の婦人会組織の推移を、『五拾五年の歩み』(読谷村婦人会発行)、『読谷村婦人会七十周年記念誌』(昭和六十一年三月・読谷村婦人会発行)、『読谷村渡慶次婦人会八十周年記念誌』(二〇〇〇年九月・渡慶次婦人会発行)、『高志保婦人会創立七十周年記念誌』(昭和六十年十二月・高志保婦人会発行)、『座喜味婦人会七十五周年記念誌』(平成二年・座喜味婦人会発行)、『読谷村史』第二巻資料編1「戦前新聞集成」(上下巻)を手がかりに見ることにする。

戦前の読谷山村婦人会の歴代会長
一九一五年(大正四年)発足
初代会長 知花英康村長
二代会長 比嘉※※(波平)
三代会長 比嘉※※(波平)
四代会長 知花※※(波平)
五代会長 曽根※※(座喜味)
六代会長 大湾※※(渡具知)
七代会長 棚原※※(座喜味)


 読谷山村婦人会の創設及び各字婦人会結成の嚆矢

 読谷山村婦人会の創設は、第一次世界大戦が勃発した翌年の一九一五年(大正四)である。『五拾五年の歩み』(読谷村婦人会発行)で初代婦人会長となった知花英康村長は次のように述べている。少し長いが当時を語る貴重な証言として引用する。
 「読谷村は沖縄に於ける婦人会の発祥地である。今を去る五十余年前即ち大正三年に実業之日本社から全国各府県の孝女節婦表彰広告が出たので、村長はわが読谷の人口一万五千の半分は女である。その中には必ず該当者が居るに違いないと区長集会に於いて各区から一人宛ての模範婦人の推薦方を依頼したら果たせるかな、当時の字座喜味区長知花※※氏から同区の山城※※婦人(屋号※※)を推薦してきたので、村長は早速同区長の案内で山城婦人の宅に行き、その実状を確かめ詳細に記述して実業之日本社に報告した。実業之日本社では全国各府県から集まった多数の孝女節婦から更に厳選の上表彰婦人をきめて、その実績を編集した記念号と表彰状、記念品(立派な飾り鏡)を村役場に送り、村長にその伝達方を依頼して来た。
 そこで村長は、その伝達を最も有意義に慎重にと先ずその伝達式には各字からの代表婦人(大字五人、中字四人、小字二人)と村内各校の女教員を加えて、およそ二百人の婦人を主体として各学校長、役場吏員、区長、議員、郡役所、県庁からの来賓を迎えて尋常高等小学校に於いて荘重な伝達式が挙行せられ、引き続き読谷名産の甘藷、大根、豆腐、豚肉を材料として女教員一同が意匠をこらした手料理の御馳走とお茶で酒なしの宴会が開かれたので満堂の会員、和気あいあい、終始感謝感激裏に一日を過ごして散会した。
 然るにその翌日或る字の婦人代表五人が村役場に来て、村長に『私たちは昨日字の婦人代表としてあんな立派な会に出て身にあまる光栄に存じました。それで今日は字の婦人を集めて昨日の報告をしようと思いますが、私たちはまだ人の前に立ってお話は出来ませんから、どうぞ村長さん私の字に来てもらって昨日のお話をしてくださいませんか』と願い出たので、村長は退散後から毎日次から次へと各字に行って右伝達式の話をしたら皆大喜びで、それが彼等婦人会合の動機となって婦人会結成の声が高くなった。
 それ迄沖縄では婦人の会合としては只愛国婦人会といって県庁の高等官婦人や那覇の金持の婦人達がお正月に県会議事堂で新年宴会があったのみで別に婦人会というものは無かった。それで村長は読谷村に婦人会設立を思い立ち、先ず規約を作って婦人等が自分でその運営が出来るまではと婦人会長も兼務し、各字婦人会長はその区長等が世話して出発し、婦徳の昂揚はもちろん、教育、産業、風紀衛生方面にも進出したので、県もその成績を認めて、特に県訓令を発して各村に婦人会の設立を奨励したのである。」(句読点を挿入するとともに、一部の字句を現代的な表現に改めた。一二〜一四頁)
 こうして村長が「婦人会長」を兼務するという今日では異例と思われる形で読谷山村婦人会は発足した。こうした動きに触発されてか同年、高志保と座喜味がそれぞれの字婦人会を結成した。
 「高志保婦人会は、大正四年に発足され初代会長に知花※※さんが選出され、当時御主人の知花※※氏が読谷山村役場に勤めていたこともあって氏の御指導と御協力を得ながら十年余にわたり婦人会長の責務を果たされたとのことである」(『高志保婦人会創立七十周年記念誌』、二三頁)。
 「一九一五年(大正四年)座喜味婦人会は発足し、初代会長に当山※※さんが選ばれました。当山※※さんのご主人の当山※※氏は読谷村の初代郵便局長をなさった方で、婦人会発足当初この方の協力が大きかったのではないかといわれています。
 しかし、婦人会の組織運営ができるようになったのは、当時小学校で教員をなされていた曽根※※先生と棚原※※先生お二人のご指導ご協力があったからだと言われています」(『座喜味婦人会七十五周年記念誌』、四四頁)。
とそれぞれの結成当時を記録している。
 高志保婦人会では、知花※※初代会長の夫君が役場職員、座喜味では当山※※さんの夫君が郵便局長ということで、事務処理や会の運営に少なからず男性の力が寄与していた。両字に遅れて婦人会を結成した渡慶次でも「渡慶次婦人会が発足した当時を顧みると、男の方々の手を借りなければ会の運営はおろか記録もできなかったという。会長や書記も男の人が代行したそうで、今考えると隔世の感をいだかずにはいられない」(『読谷村渡慶次婦人会八十周年記念誌』、三七頁)とあることからもそのことが窺える。
 次第に会運営を女性たち自らができるようになり、村の婦人会長も比嘉※※氏へ代わるなど、女性たちの本領発揮がめざされてきたのであった。

 戦時体制下での婦人会活動

 大湾※※(第六代読谷山村婦人会長)の後半期に日中戦争が始まり、いよいよ戦時体制下の様相を呈するようになり、会務に専念できる婦人会長をとの社会的要請と相俟って、村婦人会の事務所が村役場内へ置かれることになり、新体制という名のもとに、婦人会の組織まで戦争態勢へ徐々に組み込まれていくことになった。
 村段階から各字段階まで、自分たちの目指した「婦人会活動」ではない方向へと婦人会組織が組み込まれていくことになるが、「渡慶次婦人会年表」から、その頃の様子を抜粋してみる。

一九二五年(大正十四年)
 会長 川上※※
 愛国婦人会加入、安田※※ 山内※※
一九三二年(昭和七年)
 会長 玉城※※
 国防婦人会に役員のみ加入
一九三六年(昭和十一年)
 会長 儀間※※
 婦人会が自主的に慰問袋、千人針を作って第一戦に送った
一九三八年(昭和十三年)
 会長 玉城※※
 非常時につき、もんぺと標準服の普及
一九四〇年(昭和十五年)
会長 玉城※※
 戦果を祝し旗行列、チョウチン行列をやった
一九四二年(昭和十七年)
 会長 玉城※※
 軍への物資の供出と労力の奉仕
一九四三年(昭和十八年)以降
 第二次大戦で非常事態となり活動が停滞する

 一九〇四年(明治三十七)に発足した愛国婦人会沖縄支部へ、一九二五年に安田※※、山内※※の両氏が加入しているし、一九三二年には結成したばかりの大日本国防婦人会に字渡慶次の「婦人会役員のみ加入」の事項が目に付く。他の字も大同小異ではなかったかと考えられる。
 以下、当時を知る人々の記憶から戦時体制下の婦人会の様子を拾ってみよう。

○棚原※※(七代読谷山村婦人会長)
 白いエプロン大日本帝国婦人会員の襷(たすき)又は国防色の事務服に大日本帝国愛国婦人会員の襷を掛けて出征兵士の送迎、戦死者の迎え、村葬だとか、当時乗り物のない読谷村中をかけ廻るのに大変だった事と思います。
 産めよ増やせよ時代で…出征する前に結婚をまとめる世話役もやらされていた様です。(『五拾五年の歩み』、二一〜二二頁)
 「産めよ増やせよ」の時代を象徴するように、子宝部隊として多子家庭を表彰して、そのことを推進していた。大阪毎日新聞(昭和十五年十月十九日)では次のように報じている。
「子宝部隊表彰!明治節に厚生大臣が
 わしが国さの誇る興亜の子宝部隊が菊薫る明治の佳節に厚生大臣から表彰される。厚生省社会局は各府県から申請された十人以上の優良多子家庭〈中略〉鹿島(ママ)、沖縄両県の被表彰家庭は次の如く〈後略〉
 読谷山村 砂邊※※(五六) 一〇
 同 渡具知※※(六一) 一〇」

○玉城※※(第九代昭和三、四年・第十二代昭和九、十年・第十五代昭和十五、十六年字渡慶次婦人会長)
 昭和になって支那事変が始まり、婦人会の幹部は、国防婦人会となった。兵隊見送りの時に、白いエプロンに国防婦人会としるしたタスキをかけて、日の丸の小旗を持って学校の前まで字民で送りました。
 その頃、玉城※※が出征の時「※※戦死ときいたら、御国のために立派に死んでいったんだと喜んで、※※バンザイとほめて下さい。それが婦人会幹部の皆さんの勤めです」といっていた※※さんの姿が目に見えるようです。
 戦争に夫や子どもを送り出した家族は、字民と力を合わせ家族を守りました。兵士の武運長久を祈るため、月に一度は残波岬の神々に祈ったものでした。それを祈願祭といって、字民がそろって軍歌をうたい、日の丸を振り残波をまわり、出征家庭の家々でバンザイを叫んだものでした。私達は、日本の勝つまではと頑張ってきましたが、第二次世界大戦は、私達多くの婦人から夫や子供を奪って敗戦となりました。(『読谷村渡慶次婦人会八十周年記念誌』、一四七頁)

○玉城※※(第十一代昭和七、八年・第十四代昭和十三、十四年・第十六代昭和十七年字渡慶次婦人会長)
 その頃(昭和二年)は、学校を卒業した新加入は十仙(ママ)の加入金で会員となり、四十八歳までが婦人会員で六十歳以上は招待人と呼ばれていました。…婦人会の組織は会長一名、会計一名、幹部六名、書記一名、佐事一名となっていました。
 私が婦人会長に任命されたのは昭和七年と八年でした。その頃の活動と言いますとかまどの改善、染物、お菓子の講習等でした。(前掲同、一四八頁)

○玉城※※(第十七代昭和十八、十九年字渡慶次婦人会長)
 私が婦人会長を勤めたのは大東亜戦争のさ中、昭和十八年〜十九年の時でした。
 村内で初めて保育所をつくりましたが、その資金や保母の問題、生活苦の中で保育料の問題でいろいろと心配されましたが、玉城※※区長の長女※※さんが保母となり、二か月も無料で子ども達をあずかってくれました。
 出征家庭の奉仕作業をやったり、グループを編成して共同作業や共同炊事による作業の能率化をはかったこともありました。(前掲同、一四九頁)
 「保育所」設置は、労働力不足を補う手段として、女子学徒を動員するなどの方策も採られるが、県では真剣に推進していたことが以下の新聞記事で分かる。
 毎日新聞 昭和十八年三月三日
「県下に百卅一ケ所
戦時下人的資源の増強育成と労力を確保するため県では二、三月にかけて春季農繁期保育所の設置普及をはかることになつた。〈中略〉各郡割当左の如し。
△中頭郡四十ケ所浦添村七、宜野湾村九、読谷山村八、越来村二、具志川村一、与那城村二、勝連村五、中城村五」。(編者注、合計は合いません)
 毎日新聞 昭和十九年六月三十日
「戦時保育所第一次開設町村
農村に協力する女学生戦時保育所は隊員達が一応引上げたが再び廿二日第一次隊が各町村へ勇躍進発した。第一次の開設町村は次の通りである。(括弧内は開設部落数)
読谷山(一四)〈他町村略〉」
 沖縄新報 昭和十九年十二月五日
「畏し御下賜金/光栄の三保育所
畏(かしこ)くも 皇后陛下には生産戦力の増強に資し乳幼児の愛護育成に必要な季節並に常設保育所御奨励の思召で本年六月十七日全国の保育所に御奨励金の御沙汰を拝し厚生次官から本県にも左記三保育所へ御下賜金拝受の光栄に浴したので県では五日午後二時から知事室で伝達式を挙行する。
中頭郡与那城村平安座保育園△中頭郡中城村伊舎堂保育園(以上常設)
△中頭郡読谷山村宇座季節保育所」

 出征兵士が多くなると、軍人妻の会と称し、月一回の集まりを持ち、軍人の妻としての心構えや、みだしなみの件について学んだり、沖縄にいる兵隊さんのためにもやしを作り、卵、髪の毛、かんざし等や暇(労力)を供出したりは婦人の勤めでした。(前掲同、一四九頁)
 兵隊への供出のほかに、警防団などへの「ご馳走慰問」も行なわれていたことが次の記事で分かる。また、字単位でなくても、近くに居た兵隊が離れたところへ移動になると、そこへ弁当を届ける等の個人的な「慰問」も頻繁に行なわれていた(下巻「体験記」参照)。

 琉球新報 昭和十四年十月二十六日
「嬉しい御馳走慰問
嘉手納署詰の警防団員に
 牧原比謝橋婦人団の篤志

 嘉手納署では今次の防空綜合訓練に管下各村警防団から警報伝達班として警察署へ召集待機させているが、二十四日午后九時頃読谷山村牧原と比謝橋の婦人団が、徹宵(てつしょう)警戒に活動する警防団員のため炊出しをなし御馳走を持ち込んで士気を鼓舞したが、婦人団の御馳走慰問に張り切る警防団員は大喜びいやが上にも勇気百倍して活動した。」

○安田※※(第十八代昭和二十年字渡慶次婦人会長)
 昭和二十年、戦況は悪くなる一方、日本の軍隊が沖縄に駐屯してきた。学校も兵舎になり、上級生は奉仕作業に出て、勉強は各字の事務所でやっていた。時々おそってくる空襲に生きた心地もしなかった。男はほとんど兵隊に行った。残る婦人や子どもは不安の中にも勝ち抜くまではと、御国の御奉公と兵隊さんの食糧助けにと卵や野菜の供出があった。婦人幹部は各班で卵を集め、大豆でもやし作り等をして、自分たちの食糧も不足の時であったが一生懸命供出しました。(前掲同、一五〇頁)

○島袋※※(第十代字座喜味婦人会長)
 昭和十九年に婦人会長を命令された。
 一通の公文が届いた…各字から女子挺身隊、つまり軍需工場で働く人々のことで、そういう人を各字から三人づつ必ず出すようにとの命令が出されました。私達はこの公文を字当局に差し出し相談したところクジを引くことに決まりました。しかしクジに当っても簡単に「ア、そうですか」といって引き受ける人がいる筈ありません。困り果てた私達はどうすることもできず、「私達役員が行きます」と言ったところ、「それは女子青年でなければ無理だ」と言われやっと難をのがれました。(座喜味婦人会七十五周年記念誌、五五頁)

 婦人会活動が戦争遂行のために向けられていく様子は、どの字でも同じような状況であった。まず高志保では
 「婦人達は、白い布に武運長久と書いて、千人針をお願いして歩いたり、白いエプロン姿に大日本帝国婦人会と書かれたタスキを掛け、又は、国防色の事務服に大日本国防婦人会のタスキを掛けて出征兵士の見送りをし、戦争遂行の為の活動にあたっていた。
 婦女子は、隣組の組織に動員され防空、防火訓練や竹槍を持って真剣になって活動し、出征兵士の見送り、家族の慰問、慰問文、慰問袋の発送などにも忙殺された。
 又、戦死者の遺骨を迎え村葬に参列したり、当時乗り物の便のなかった村内を駈けずり廻って、食糧の供出やヂーファー(カンザシ)の回収等をしたり、国防活動の毎日が続いていた。その当時は軍人の妻、軍人の母、銃後を守る婦人として、夫や子どもが元気で出征し国のために尽くすことを誇りに思い、残波岬や普天間神宮に祈願するのも婦人としての務めであった」(高志保婦人会七十周年記念誌、二四〜二五頁)。
とあり、座喜味でも
慰問袋とそれに詰める品々を前に(渡久地※※氏提供)
 「白いエプロン姿に大日本国防婦人会のたすきを掛けて(いろいろな催しものに)参加し銃後の守りの為に頑張った。出征兵士の見送りや戦地への慰問袋の詰め作業が続いた。大豆は炒って袋詰めにしたが、その他いろいろな食糧を供出した。また松の皮を剥ぐ作業にも動員され頑張った。
 昭和十七年頃から婦人達は軍事訓練に明け暮れた。その時の軍事訓練の係は当山※※さんだったが、毎日婦人達を相手に、棒の先にはたきをつけて消火訓練をした。また竹槍で戦う訓練をした…。
 昭和十八年頃から座喜味には軍隊が入って来て字事務所をはじめ大きな民家は殆ど兵隊が借りて使用していたので当時事務所はナビ山保(屋号)の家を借りることになった(前掲、座喜味記念誌、四五頁)。

 米軍上陸、そしてヤンバル避難へ

 安田※※(第十八代・昭和二十年字渡慶次婦人会長)によると、「三月二十五日頃から、艦砲射撃があり、四月の初め(米軍が)本島に上陸してからは、戦場となって人々は砲弾炸裂の間を抜けて逃げ歩いた。食べるものもなく、着の身着のまま、家族もバラバラになったり、生死もわからず生きるだけで精一杯だったのです。
 暗闇の中で食物をさがしに畑にでかけ、トーマーミー、芋、キャベツ、カンダバーなどをとってきて、海の潮で味をつけて食べたり、後になっては、ソテツやへごの芯など、田溝の水草などを食べ、終戦を迎えた」(読谷村渡慶次婦人会八十周年記念誌、一五〇頁)。
と言うように、避難先であてもなくさまよい、飢餓と闘う人々の姿が浮き上がってくる。そんな中、次のような記述もある。

 「第七代目婦人会長の棚原※※さんは、読谷村の戦争被害を象徴するように、五十二歳の働き盛りの年に、山原の疎開先で栄養失調で死んでしまった。大東亜戦争のはじまった頃から終戦の年の三月までいわば鉄の暴風の時代に婦人会長をつとめたことになるが、長女※※さんの話によると『〔銃後の守り〕 とか 〔勝ち抜くまでは〕 ということで婦人会長職はたいへんな激務でした。無理がたたって体を悪くしておりましたので、休養したいので、会長をやめさせてもらいたいと当時の村長さんや助役さんにも強く嘆願したのですが、あのときは、何ごとも自分本位ということのゆるされない時代でしたから、半強制的にやらされておりました』ということだが、そのときの婦人会長という激務が死期を早める一つの原因となったようである」(読谷村婦人会七十周年記念誌、三三頁)。
 また、中川病院での「奥間※※助産婦分娩記録」(昭和二十年六月〜二十三年二月)をみると、村出身の女性四〇人が分娩しているが、「出生児の名前」の欄には「九ヵ月死産」のほか、名前の下に括弧書きで「米国児」との記載もある。女性であるが故の過酷な山中での逃避行、更には収容所生活があったことを物語っている。

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