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2 女性たちの戦争体験

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 「銃後の女性たち」の体験をとおして見る沖縄戦

 読谷山村民の「戦時体験」は下巻にその多くが所収されるので、ここでは労働力不足を補うため女性たちが「牛馬耕」で活躍したことや、軍属で従軍した例を二、三紹介するにとどめる。

 「牛馬耕」と女性たち

 女性たちの「農事訓練」の村内記事の初めは次の「沖縄日報」(昭和十四年六月十一日)である。

 「短期農事訓練/開催日程
県農事試験場の男女青年短期農事訓練は夫々(それぞれ)牧原、津嘉山の両所で左の日程によつて開催される。
 自六月八日至同十四日 読谷山村女子」
昭和14年第4回牧原訓練生
短い記事ながら、日中戦争勃発後、不足する労働力を「銃後の女性たち」に期待した様子が窺える。各市町村ごとに、本来男性の仕事であった分も含めて、女性たちが農業の主体として励まなければならなかった事情を端的にあらわしている。
 続いて「大阪毎日新聞」(昭和十六年九月十九日)では、「牛馬耕は妾(わたし)たちにも出来る 県農会で女性耕犂座談会」と題して

「一家の柱とたのむ男手がなく労力不足に悩み抜いた挙句、か細い腕で牛馬耕をはじめ労力払底の叫びを見事に吹き飛ばした銃後敢闘の女の牛馬耕座談会が去る十二日県農会で開かれたがその出席者は中頭郡読谷山村儀間※※、比嘉※※(以下他村略)」

とあり、二人の先駆的な女性牛馬耕者が本村にいたことを記している。
 また、「朝日新聞」(昭和十七年八月十四日)では、

 「増産の凱歌/現地報告書
女子牛馬耕隊/読谷山村女青
農村の労力不足克服に敢然馬の手綱をとつて現れた女子牛馬耕隊。これは中頭郡読谷山村の女子青年団が県下農村に魁(さきが)けて活模範を示した逞しい姿である。そのなかには兄を戦線に送つて留守宅を護る妹や、夫を御国に捧げて敢然たち働く軍国の妻があり、鋤とる姿も男子用の作業服に巻脚絆をきりゝとしめて鮮やかな腕前だ。これで勇士たちが残した畑は何不足なく手入れが行き届き一作ごと増産の稔(みの)りに凱歌をあげている」

とあり、女子牛馬耕者が増えて増産に一役買っていることが窺える。
 一月後の九月十三日には次のような記事もある。

 「読谷山に牛馬耕の日
去る七月畏(かしこ)くも南島へ小倉侍従御差遣の際女子牛馬耕視察の光栄に浴した中頭郡読谷山村ではこの感激を永久に記念するため、このほど常会で毎月十七日を“牛馬耕の日”とすることに決めた。
この日は毎月牛馬耕に対する座談会、懇談会など開いて食糧増産へ挺身する覚悟に一層鞭うち、また毎年七月十七日の感激の日に全村一同の競犂会を開催する」(「朝日新聞」)。

 「男子用の作業服に巻脚絆」姿の一人が、前述の二人の先駆者の一人大湾※※(旧姓※※)である。以下、彼女の体験を『平和の炎』第三集(一九九〇年、読谷村役場発行)から紹介する。

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