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2 女性たちの戦争体験
体験記

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○牛馬耕講習と国頭避難

 大湾※※(大正十二年生)

 憧れの本土へ

 戦前は年頃になると、女の人達は本土の紡績工場に行く人が多く、近所の若い姉さん達が本土の紡績工場から、色白になって帰って来るのを見て憧れ、私も行ってみたいと思っていました。
 それで私は十七歳のとき、大阪の紡績工場に行きました。そこでは従兄弟の兄さんに引き取られ、楚辺出身の人がやっている下宿屋から一年近く工場に通って働きましたが、つまらなくなって辞めてしまいました。
 それから、大阪の高島屋の食堂で勤め始めましたが、礼儀作法が厳しくて、これはだめだということで家に帰る決心をしました。

 帰郷

ズボンに巻脚絆姿の大湾※※さん
 家に戻ると、父に「自分勝手に出て行って帰ってくるのも自分勝手に帰って来て、明日の船で帰れ」と怒られましたが、兄嫁が父をなだめてくれたお陰で家に居れました。
 それから父は「農業をするならおいてやるが、出来ないのなら本土に帰れ」と言い、荷物を解かしてもくれませんでした。家では人手不足で農業をする人がいなかったので、農業をすることに決まりました。
 その日は※※、(屋号)の松田※※兄さんが軍隊に召集された日でした。
 その翌日から畑に出てキビに培土をしましたが、着物を着てやったため、その日の畑仕事が終わる頃には、顔や手足はキビの葉で引っかき傷ができていました。
 これではいけないと思い、翌日から兄のズボンと長袖シャツを着て畑仕事をしました。しかし、そのままだとズボンの裾にドロが付くため一日しか着れませんでした。そこで軍隊のゲートル(脚絆)を使えばズボンにドロが付かない事を考えつきました。巻脚絆は軽く、着け心地が良かった。また、青年学校に行く時は、足首から下だけが黒く焼けて恥ずかしかったので、地下足袋を履き、頭にはクバ笠をかぶって畑仕事をしました。頭から足の先まで男の格好だったので、はためには女だと分からないようでした。

 牛馬耕講習

北谷村伊禮での馬耕講習会から(中央大湾※※さん)
 その畑仕事の様子を見た人々が「珍しい子がいる」という事で、新聞に載ってから世間に知られるようになりました。
 それがきっかけとなり、村の農業技手の比嘉※※さんの訪問をうけ、牧原の訓練所の先生から鋤を習うことになりました。私はその先生から一週間牛を使って講習を受けました。牛馬耕をする前から荷馬車仕事に従事していましたので、馬の扱い方は知っていました。講習では鋤の使い方、歩き方、手綱の使い方等を習いました。その時は、製糖工場が費用を出し私にも日当が出ました。
 当時は成人男子はもちろん、学生までも召集され、女の人だけしかいませんでした。
 体の小さい女でも、講習を受ければ馬を扱い重い鋤を動かし畑仕事が出来るということを指導するため、各方面の婦人会、女子青年団、時には、男性も集めて講習会をしました。
 講習は、キビやイモの畝立の仕方や、畑の耕し方の順序等を説明する先生がいて、私はその実演をしてみせました。
 私は指導員ではなかったのですが、模範を示すということで読谷山村内をほとんど廻り、千原、水釜、北谷、伊礼、上地、越来、具志川など中頭地区を中心に他村も廻りました。
 たしか越来で、こうした講習会をやっていた時だと思いますが、早川知事が訪問してきました。その際、女子青年に「銃後は皆さんが守るんだよ」と言って下さった事がありました。
 当初から自分の希望で鋤を使ったわけではありませんでしたが、楽しかったです。今では、女がズボンを履いてもおかしくない時代ですが、あの頃は女がズボンを履くだけで「男女」と言われました。また、相撲をとったこともないのに「農林生と相撲をとって勝った」という噂話まで出ました。
 牛馬耕の講習をしていたのは、昭和十六、十七年頃で二年くらいだったと思います。
 そのうちに、非常時となり、那覇の与儀試験場も人手不足となりました。そのため私と比嘉※※先生の二人で与儀の試験場でイモ掘りもしました。(以下略)

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